第3章 第48話 エースの役目 2
〇日向
「はぁ……あぁ……なんなの、これぇ……!」
木葉さんの額から汗が垂れる。いや、よく見たら汗だけじゃなくよだれもだ。高い身体を腰から折り、遠くからでもわかるほどうなだれている。
顔を上げるとさっきまで思い通りに進んでいて輝いていた瞳が暗く濁り、もう人間として最低限の理性もないのか口から際限なくよだれが垂れ流しになっていた。
「おるかのほうが、たかいのに……さいきょうなのに……ありえないぃ……」
木葉さんがゲスブロックを始めた第二セット。最初の内は一対八で藍根が圧倒的にリードしていたのに、今や八対八。同点にまで持ち込めていた。
きっかけはリリーのスパイクからだった。この木葉さんにとって、いやひーたちにとっても予想外だった新しい攻撃手段が木葉さんのゲスブロックを狂わせた。
木葉さんのゲスブロックは相手の動きを完全に読み切るのが前提。つまりそれができていないなら、ただ適当に高い壁ができるだけの意味のない行為。それは味方ブロックやレシーバーの邪魔にもなり、結果藍根の守備はグダグダになっていた。
「中々珍しいものが見れましたわね」
これ以上木葉さんの不調を見逃すことはできないと判断したのか、藍根が最初のタイムアウトを取る。
「もちろん中学時代も織華さんのゲスブロックが途中で機能しなくなることはありましたが、その時は素直にリードブロックに切り替えられていましたわ。今それができないのはおそらく梨々花さんが小さすぎるから。高さこそが全てだと思っている織華さんが四十センチも下の梨々花さんに好きなようにされるのはプライドが許さないんでしょうね」
「織華ってかなり子どもだからね。ムキになったら止められない。あの頃は天音ちゃんとか流火がうまいことやってたけど、まだ半年も経っていないチームじゃそれもできないっぽいね」
さっきのタイムアウトとは打って変わってタイムアウト中の空気がいい。散々止められたマオちゃんのツーがもう二本も決まったからかな。
「でも木葉さんと同じチームだった雷菜さんがいるじゃないですか。フォローの仕方はわかっているような気もしますが」
ドリンクを飲みながらきららんがそう言うと、ベンチに座ったマオちゃんが手をぶんぶん振って自嘲的な笑みを浮かべる。
「それは無理ですわね。織華さんはどれだけ上手くても小さな子は全員見下してますから。雷菜さんも環奈さんも自分も、あの方にとっては等しくゴミですわ」
「ごめん珠緒、あたしは結構仲良かった」
「がーん、ですわ!」
まぁかんちゃんは身長関係ないリベロだし……。後輩たちのやり取りに苦笑していると、藍根のベンチから激しい物音が鳴った。
「木葉さん、まだ試合の途中です。集中力を……」
「うっさいなー。チビはだまっててよ、いらいらするから」
見ると、木葉さんがベンチを背にして大きな身体を横にしていた。収まらなかった長くて綺麗な脚をふらふらと動かし、額に氷のうを置いてなにやら呻いている。
注意した深沢さんは歯を食いしばるだけでそれ以上なにも言わず、ミーティングをしている集団に戻っていった。
「……あのお二人って仲悪いんですか?」
「中学時代はあんまり二人でいることはなかったかな。だからおんなじ学校に進んだって聞いた時はびっくりした。まぁたぶん当事者の方がびっくりしたと思うけど」
「身長に恵まれた適当な性格の織華さん。身長に恵まれなかった真面目な性格の雷菜さん。全くの真逆の境遇で、なのに同じ『金』に選ばれ、同じ高校に進んだ。お互い思うところはあると思いますわ。おそらくですが、どちらも相手を好ましく思っていないでしょう」
ふーん。やっぱめんどくさいなー、上手い人たちって。まぁひーには関係ないや。どうせこの後試合に出れても一、二プレーだし。それより問題なのは、
「梨々花先輩、大丈夫ですか?」
「はぁ……はぁ……たぶん、大丈夫だ……」
木葉さんを崩した張本人のリリー。まだ二セット目序盤だというのに、なぜか異様に疲れていた。
今はベンチに座って休憩してるけど、まだ息が整ってない。リリーに体力がないってイメージはないけど、この試合かなり無茶をしているのは事実。
レシーブだけじゃなくトス、さらには慣れないスパイクまでやらなきゃいけない現状がリリーにとってかなりの負担になっているのだろう。
「目下一番厄介だった木葉さんは不調。でもここで点を返されたらローテが回って後衛に下がってしまうわ。ここが正念場! 小野塚さんは休ませる意味も込めて囮になってもらって、レフト中心で攻めていくわよっ!」
『はいっ!』
小内さんの指示を聞き、みんながコートに戻っていく。でも藍根は……なんか控えの選手がアップしてる? と思ったら、一度コートに入った木葉さんがその人と交代になった。
「これ、どっちなのかな? 喜んでいいのか……」
きららんがサーブのこのローテ、ずっとアップゾーンで暇そうにしているかんちゃんに訊ねてみる。木葉さんと代わった選手は百六十センチ後半でミドルブロッカーとしてはそれほど高いわけではないけど、強豪藍根の控えってことは単純に考えて紗茎の控えにいたマオちゃんと同レベルの選手ってことになる。気持ち的には木葉さんがいなくなってうれしいけど、上級者から見たらどうなんだろう。
「まぁ普通に考えて下手なわけがないし厄介なんじゃないんですかね。それに藍根の目的はたぶんローテを回すことですし。そうなったら地力の差でこっちがだいぶしんどくなるんで」
かんちゃんの言う通りその後は花美がかなり押される展開になった。最初のきららんサーブのローテでは一点しか取れなかったし、田子さんが前衛に回ってからは一セット目と同様藍根に主導権が握られた。
気がつけば得点は十五対二十。藍根にかなり押されている。
「梨々花さんっ。……!?」
「……く、ぁっ」
このピンチな状況を招いたのは単純に地力で劣っているからというだけではない。リリーの体力がだいぶ限界を迎えているのだ。
今もマオちゃんにトスを上げられて跳び上がったが、まったく跳べていない。ボールはなんとかリリーの指先に当たったが、ブロックに阻まれてこっちのコートへと落ちてくる。
「くっ」
「ごめ……環奈ちゃん……」
かんちゃんが飛びついて拾ったが、ボールはマオちゃんまで返ってない。一番近いのは……肩で息をしているリリー。ただでさえ小さな身体を折りながらボールの落下地点に歩く。なんで今日のリリーはこんなに疲れてるんだ……?
いや今はそれよりもリリーがまともにトスを上げられるかということ。ネットから離れた場所だし、まともな攻撃は……
「梨々花っ!」
ひーだけでなく周りの選手たちもフォローに入ろうと動いた瞬間、誰よりも大きな声が聞こえた。
「よこせっ!」
その声の主は、三年生で、部長で、キャプテンで、エースの。
「朝陽さんっ」
その声のままにリリーはあっさんにトスを出す。でもボールはかなり回転していて、高さもない。今後衛にいることもあってかなり打ちづらいはずだ。
「っしゃぁっ!」
でもあっさんはまったくそのことを感じさせないいつもの叫び声を出して跳び上がる。
「ゴラァッ!」
そして打ちづらいボールを身体をひねらせながら力の限り打ち切った。
「ぐっ!」
あっさんの声と迫力はそのままボールにも伝わり、相手ブロッカーを弾き飛ばす。ボールはコートの遥か外。花美側の得点となった。
「ぁ……朝陽さん……ありがとう、ございます……」
自分のトスが打ちづらかったのを自覚しているのだろう。疲れでまるで親分に頭を下げるかのような体勢になりながらリリーは頭を下げた。
「あ? いーよいーよ気にすんな」
それに対しあっさんは笑顔だ。なにも考えてなさそうで、それでいて安心感のある笑みで言う。
「苦しい時、乱れた時。んな時にボールが回ってきて、決めるのがエースだからな」
それは、一度ひーが切り捨てた言葉と同じものだった。
エースの役目を聞き、ひーはかわいそうだと思った。
あの子は、とってもかわいそうだったから。
でも今、思う。
かわいそうだという気持ちは変わらないし、プレッシャーが嫌だという考えも変わっていない。
それでも。それを全て引き受けた上で決められるとしたら。
エースは。
最高にかっこいいと思った。