第3章 第37話 物語はいま
長くて退屈な夏休みが始まった。中三なんだから勉強でもした方がいいのだろうが、家から一番近い、進学を考えている花美高校は頭が悪いのでまったくやることがない。友だちは勉強だったり部活だったりで遊べないし、本当に困った。普段だったら一人でも遊べるひーだけど、今年は近年稀にみる猛暑で家のクーラーから逃れられない。
「そういえば」
宿題もやらずに朝から夜までSNSを無限に見て友だちの近況を調べていると、ふと思い出した。
SNSも、連絡先すら知らない友だちでもないあの子のことを。
バレー部の友だちの投稿を見てみると、順調に勝ち進んでいて明日三回戦が行われるらしい。
「ひまだからな……」
たまには外に出ないと身体に悪い。なので明日は出かけることにした。
「そういえばいつから始まるのか知らなかった……」
ネットで調べて会場の市民体育館には到着できたものの、眼下に繰り広げられる試合は知らない学校対知らない学校。心の底から興味がない。しかも無駄におしゃれしてきちゃったし……なんで一人でこんなの見てるんだろ。まぁ、でも……。
「スポーツが……違う」
ひーが学校の授業でやってるバレーはミス連発だったり、まともにつなげられなかったりでまともに試合が成立したことはなかった。
でも今目の前で行われている試合は、そんな次元じゃなかった。
うわ、アウトギリギリを狙ったサーブ……えっ、拾うんだ判断が早い……こうなるとレフト? にトスを……えっ!?逆位置で速攻!? でもブロックついてきてる! なのにかわした! うそっ、しかも拾ったよ……!
矢坂さんと話したことで多少バレーを知ったからこそわかるすごさ。
「これが……バレーボール」
正直今までひーは矢坂さんを少し見下していた。あんなに練習しなくたっていいじゃん、って思ってた。
でも、生で、リアルタイムで、間近で見てみて、思う。
「バレーって……たのしそう」
もしあんな高いブロックをひーが打ち崩せたら。もし見えないくらいの速さのボールをひーが拾えたら。それでもし勝てたら。こんなにたのしいことはない。
「矢坂さんだ……!」
前の試合が終わり、見知った顔が体育館に入ってくる。
どこにでもいそうで、おとなしくて、話しててつまんない彼女。
そんなあなたが、今まで観た誰よりも活躍してくれたら。
たぶん、ひーは一歩前に踏み出せる。
あなたの隣に立つことができる。
だけど。
「なんなの、これ……」
試合はあまりにも一方的なものだった。対戦相手は紗茎学園中等部。確か強いところって言ってた気がする。でも、強いどころの騒ぎじゃない。
「バケモンじゃん……」
同じ中学生とは思えないくらい高い子がボールをブロックしたかと思えば、すごい小さい子がとんでもなく高く跳んだり、綺麗な女の子が回転一つかからないトスを上げ、すごく身体の大きな子が会場中に響き渡る爆音を上げてスパイクを打つ。
その猛攻に対し、うちの学校はあまりにも無力だった。最初の内はなんとか食らいついていけてたけど、途中から矢坂さんにボールを上げることしかできなくなり、ブロックが矢坂さんに狙いを定めた。そうなるともうずっと練習をしていたブロックを避けるためのフェイントを打つしかなくなり、それを読んでいたリベロの小さな子が簡単にボールを拾ってしまう。それが続いた。
苦しい時決めるのがエース。矢坂さんはそう言っていた。その通りだった。ずっと苦しい。だからずっと矢坂さんにボールが回ってくる。
「……かわいそう」
辛そうだ。苦しそうだ。矢坂さんの顔がずっと泣きそうになっている。他のメンバーもそれを励まそうともせず、交代もさせない。エースなのに決められない矢坂さんに怒っているようにも見えた。
かわいそうと思う理由は他にもある。たぶん、相手は手を抜いている。
最初の内はそれなりに本気だったと思う。でもうちの限界がわかり、第二セットからは勝つというよりかは調整のような動きへと変わったように思えた。
相手が舐めているということは逆転のチャンス。でも、二十五対十四、二十五対八。うちのバレー部は敗北した。
「……おわりか」
ここに来てからだいたい四時間。そして矢坂さんは三年間。それが、一時間足らずで終わってしまった。
矢坂さんたちがひーがいる場所とは反対の客席に向けて頭を下げるが、数人しか応援がいなかったのでここまで拍手の音が聞こえない。なので一応拍手してあげた。矢坂さんには聞こえていないだろうけど。
さて、帰るか。昼時だからどっかで適当にごはんを食べよう。そのついでにゲーセンとかに寄るのも悪くない。
矢坂さんたちが体育館から出ていく。背中しか見えないから顔はわからないけど、たぶん泣いてはいないんだろうなと思った。
エントランスでばったりと会ってしまうなんてことにはなりたくなかったので向かいの観客席に選手が戻ったのを確認して観客席を後にする。一応辺りを確認しながらエントランスを歩いていると、自販機にいつも昼休みに飲んでいたイチゴ牛乳が売っていたのに気づいた。
「…………」
別に買う必要はない。甘すぎておいしくないし。でもひーの足は自然と自販機へと向かい、いつの間にかあんまり冷たくない紙パックが手の中に収められていた。
買ったはいいが飲みたくない。今は、いやいつだってそうなんだけど、こんな甘い飲み物にすがらなきゃいけないほどひーは弱くない。
外に出ると体育館の冷房に慣れた肌を強烈な熱気が突き刺す。思わず戻ろうとしてしまうが、足がぴたりと止まってしまった。
矢坂さんがいた。まるでいつものひーのように。日差しを全身に浴びて壁に寄りかかって座り込んでいた。
まだひーには気づいていないし、会っても話すことはない。なにより「おつかれ」、「がんばったね」、だなんてどうでもいいことを今の彼女には死んでも言いたくなかった。
「それ、たのしい?」
だからひーは、いつものように話しかけることにした。イチゴ牛乳を持ち、興味なさげに笑って。
「……たのしくは、ないかな」
ひーの姿を見て矢坂さんは一瞬驚いた顔を見せると、頬を緩ませていつもと同じことを言った。
「飲む?」
「……ううん、いらない」
イチゴ牛乳にストローを差して手渡そうとすると、矢坂さんは目をそらしてそれを拒否した。そしてひーを横目で見る。
「それより……来てたんだね」
「暇だったからね。……それより試合観たよ。がんばったね」
すぐに会話に詰まって言いたくないことを口にしてしまった。まぁひーたちの関係らしいといえばらしい会話だ。上辺だけの話しかできない。
「……うん、がんばってたよ。みんなも、すごいがんばってた」
がんばってた? みんなが? それは……。
「それは、間違ってるよ……!」
その本音はあまりにもあっさりと口に出ていた。
「みんなはがんばってなかったよ。全部丹乃任せで……それにがんばってたら一人で自主練なんてしてないし、今もこんな物陰で一人でいなくてよかったじゃん……! ずっとずっと、丹乃一人だけががんばってたじゃんっ!」
思えば今まで本音で話したことはあっただろうか。ひーは自由が好きだ。だから周りに気を遣うことが嫌いだ。
でもそれはあくまで嫌いなだけ。嫌いでも、周りとうまくやっていくために自然と嘘がつけるようになっていた。
「ひーがっ! ひーが、いたら……もっと、丹乃を助けられた。一人ぼっちになんてさせなかったっ。もっと丹乃がすごいってことをみんなに教えられたっ!」
だから、これが初めての本音。
ずっと適当に効率よく生きてきたひーの、本当にやりたいこと。
「ひーね、高校でバレー部に入ろうと思ってるんだ」
友だちとは何なのだろうか。普段話す人? 休日に遊ぶ人? それともなにも包み隠さず悩みを打ち明けられる人のことを言うのだろうか。
答えはわからないけど、ずっと十五分間を過ごしたひーと丹乃のこれからの関係はこう言うのだろう。
親友、と。
「――ひなた、ちゃん……!」
丹乃の顔がひーを真正面で捉える。いつも向かい合えていなかったからわからなかったが、真珠のようなとても美しい瞳をしていることに今さらながら気づいた。
「だからっ!」
「一緒にバレーをやろう」。その一言は、
「矢坂丹乃さん、だね」
突然現れたスーツ姿の女性の声に遮られた。
「私は藍根女学院という高校で排球部の顧問をしている大海という者だ」
大海と名乗った高齢の女性は丁寧な手つきで丹乃に名刺を渡す。藍根っていえば県内で最も有名なお嬢様学校。その関係者が、なんでこんなとこに……!
「端的に言うと、矢坂さん。君をスカウトしにきた」
スカ……ウト……。それって、藍根への特待生での勧誘ってこと……?
「知ってるだろうが、うちは紗茎学園高等部と並んで県内二強と呼ばれている強豪校だ。だがその均衡は近く破られる。来年紗茎に入学する双蜂天音、加賀美和子。再来年入学する水空環奈、飛龍流火、木葉織華、蝶野風美。これらの全国でもトップの天才が入れば間違いなく藍根は紗茎に勝てなくなるだろう」
このおばさんがなにを言っているのかひーには理解できない。当然だ。ひーはバレーという世界に入っていないのだから。でも、言いたいことはわかる。
「君のような逸材が藍根にはほしい」
この人は、ひーたちの関係を引き裂こうとしている。
「悔しいが今の藍根にはエースと呼べるような絶対的な存在はいない。だから……」
「気をつけなよ、丹乃。この人は嘘をついてる」
そんな小気味いい言葉にだまされちゃだめだ。こんなどこぞのババァよりひーの方が丹乃のことをよくわかっている。
「試合の時の丹乃の顔を見た? とてもじゃないけど辛い時に任せられるエースの器じゃないでしょ」
少なくとも、今は。でもこれからは違う。
「丹乃には一緒にいられる親友が必要なの。丹乃を助けてあげられる人がいればいいの。強豪校だかお嬢様学校だか知らないけど丹乃は――」
泣いていた。
矢坂丹乃は、涙を流していた。
試合に負けた時も、ひーと話していた時も、こんな顔見せなかったのに。
「――丹乃」
だから、訊ねる。
今まで怖くて訊けなかったことを。
もう、これで終わりだってわかったから。
「なんで、バレーをやってるの?」
「わた、私は――」
丹乃が答える。涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔で。たぶん、丹乃の初めての本音で。
「私は――認められたかった。がんばってるって、すごいって、褒めてもらいたかった……!」
その答えを聞いてひーは。ひーだって褒めたじゃんって思った。
確かに大海さんは褒めてたよ? でもあんな感情のこもってない淡々とした感じで褒められてもうれしくないじゃん。ひーは感情的に、本音で褒めてたじゃん。
「なん、で……ひーじゃ……!」
「私はね……! バレーでっ、ずっとがんばってきたバレーで、すごいねって! 言われたかった……がんばって、努力して、それでようやく認められる、物語の主人公みたいになりたかったんだよ……日向ちゃん」
あぁ、なんだ。そういうことか。
ひーは、丹乃という人間を求めた。
でも丹乃は、バレー選手として求められたかった。
とっても単純で、ひーにはどう足掻いたってできなかったことだった。
でも、でもさ。そんなのどうでもよくない?
だって丹乃はすごいけどさ、対戦校の人たちの方がすごいじゃん。たぶんだけどさ、プロにはなれないじゃん。
だったらバレーなんてどうでもいいでしょ? どうせ一位になんてなれないじゃん。
なのにこんなにがんばって、こんなに喜んで、こんなに泣いて。
「――わからないよ」
十五分間だけだったけど。ずっと丹乃を見ていたひーよりも。そんな意味のないものを選ぶだなんて。
わかりたくも、ない。
「……何なら君も藍根に入ったらどうだ? 推薦は出せないが……」
「馬鹿言わないでよ。ひーがそんな頭いい学校入れるわけないでしょ」
それに、こんなになるまでバレーに捧げた丹乃ととおんなじ舞台に立てるわけがない。だから。
「じゃあね、矢坂さん」
「……じゃあね、外川さん」
ひーと矢坂さんは別れた。はずだった。
でも今日。
ひーと矢坂さんは再び出会った。
そして物語が現実に戻ると同時に、いま。
試合が始まった。