第3章 第36話 エースの役目
「ごめん、ちょっと席外すわ」
翌日の昼休み。ひーは一緒に昼食をとっていた友だちにそう告げると席を立つ。
「どこ行くの?」
「んー、イチゴ牛乳買ってくる」
別に矢坂さんに興味があるわけじゃない。ただ本当にイチゴ牛乳が飲みたいなーと思っただけ。でも矢坂さんは昨日と同じ場所で昨日と同じ壁打ちをやっていた。
「それ、たのしい?」
昨日と同じくイチゴ牛乳にストローを差しながら訊ねると、ボールをキャッチして矢坂さんはこっちを向いた。
「たのしくは……ないかな」
これも昨日と同じ反応。少し楽しくなってきた。
「どうしたの……今日は」
「昨日の話の続き。エースってなにやるのかなーって思って」
昼休み時間は残り十五分くらい。それくらいは使ってもいいかなと思ってまた壁に寄りかかる。それを見て矢坂さんも壁打ちを再開した。
「バレーってね、難しいんだよ。ボールを持っちゃいけないスポーツだから。……だから苦しい時、乱れた時。そんな時にボールが回ってきて、決めなきゃいけないのがエースなんだ」
「ふーん」
なんだろう、それって……。
「なんだかかわいそうだね」
大事な時に決めなきゃいけないとかすっごいプレッシャー。ひーだったらできるだけ楽なポジションがいいなー。
「そうかな……。私は……そうは思わないな」
でも矢坂さんの返答はとてもかっこいいものだった。たぶん嘘なんだろうけど。この子がそんなことを平然と言える人間だとは思えない。まぁ本音を言われても困るしいいんだけどね。
「じゃあ矢坂さんの攻撃ってすごい強いんだ」
「だったらよかったんだけど……強くないから壁打ちやってるんだ。こういうの、とか」
そう言った次のスパイク。モーションは今までとまったく変わらなかった。なのに打った瞬間ボールはゆっくりと弧を描いて壁に当たり、コロコロと地面を転がった。
「え? なにいまの……わざと?」
「うん。フェイントって言うんだけど……強く打つと見せかけて弱く打って相手の隙を突く攻撃。私はこれが得意っていうか好きっていうか……これがあるからなんとか戦えてるんだよね。それで威力のコントロール練習になる壁打ちをやってるの」
「ほへー」
初めて素直に感心した。ここまでなるのにたぶん相当な練習をこなしたのだろう。ひーが見る前から、ずっと一人で。
「じゃあさ、……あ」
またいいところで予鈴が。
「じゃあ……またね」
「うん……また」
この時間が楽しかったわけじゃない。たぶん教室で友だちと遊ぶ方が楽しいはずだ。
それなのにひーは昼休みの十五分、必ずこの校舎裏に足を運んだ。毎回百円を支払いイチゴ牛乳を買って。一週間に五百円の出費。バイトができない身としては中々の痛手だったけど別にいいと思った。
それからひーと矢坂さんは様々な話を交わした。。弱小だから自分ががんばらなきゃいけないということ、練習試合で負けたこと、朝練に人が集まらないこと。ほとんど矢坂さんの話だったし、心の底からの悩みを聞いたわけでもない。ずっと矢坂さんは壁打ちをしていたし、ひーは甘ったるいイチゴ牛乳を一本飲み切るだけ。
別に仲良くなったわけじゃないし、普段すれ違っても話さない。
でもこの十五分間だけは二人きりの空間を堪能していた。
「明日からテストだねー」
そんな生活が数カ月続き、夏。期末テストが終われば夏休みで、部活に入っていないひーは学校に来ないし、そもそも昼休みがない。
「……うん。そろそろ試合が始まる」
バレー部の最後の大会は、県予選も本選も夏休み中に行われるらしい。それが終わったら引退。もうここまでストイックに練習する必要はない。
つまり、ひーと矢坂さんの時間はこれで終わる。予鈴が鳴るのはあと一分くらい。それでひーたちはもう二度と会話を交わさなくなる。
「勝てそう?」
あと二、三言くらいしか話せないとわかっていても、結局ひーたちの会話の内容はバレーのことしかない。バレーボールという存在にしかひーたちをつなぐものはない。
「どうだろう。一、二回戦はもしかしたらだけど……たぶん三回戦に当たる学校には勝てないと思う」
「なにそれ? やる前から負ける気でいんの?」
「そう言われるとちがうって言いたいけど……たぶんだいたいの人はそうなんだと思うよ」
一定のリズムでボールが跳ねる音を聞きながら、矢坂さんの小さな声に耳を傾ける。いつだって矢坂さんはひーとは違う考え方をくれる。最後まで本音で語り合うことはできなかったけど、たぶんこの言葉は本心に限りなく近いと思った。
「負けるとわかってても、負けるって決まってるわけじゃないから」
「ふー……ん?」
んー……と、
「つまりどゆこと?」
「えーと……言葉にするのは難しいんだけど……」
ちょっと迷っているような顔をしていても矢坂さんは壁打ちをするのをやめない。そりゃそうだ。ひーとの会話に意味なんてないもん。
「たぶん、スポーツをやればわかると思うよ。外川さんって運動できそうな顔してるから結構いいとこまでいけると思うよ?」
「顔で判断するなら矢坂さんはできないタイプでしょ」
「はは。確かにね」
時間的に、次の言葉が最後。
どうしても訊きたかったことがある。でも訊けなかった。たぶんひーには理解できないから。いや、理解できないことなんていままでもたくさんあった。
たぶん、こわいんだ。
その答えを聞いたら、ひーの価値観が変わってしまうから。
繰り返される日々を適当に過ごし、ただ効率よく必要最低限のことをこなすことに一生懸命な自分が、ひどく惨めになってしまうから。
でも、これで最後なら。
ちょっと。ほんのちょっとでいい。
こんな無意味な自分を変わらせてほしい。
「矢坂さんは、なんでバレーを――」
予鈴の鐘の音。まるでおとぎ話で魔法が切れることを告げる荘厳な時計の音のように音質の悪い電子音がひーたちの関係を終わらせた。
「それじゃあ……ね」
「……うん。じゃあ、ね」
「またね」。その一言が言えたらどれだけ楽か。でもそれはルール違反だから。魔法は決して延長を許さないから。
外川日向と矢坂丹乃が学校で会話を交わすことはもうなかった。