第3章 第10話 現実ヴィラン
〇きらら
「だからこれはこう解けって言ってるでしょっ!?」
「うぅ……ごめんなさい」
小内さんからこれからの予定を伝えられた後、用事があると言って抜けた朝陽さん以外のメンバーで喫茶花美に集まって勉強をしていました。八月一日、二日で行われる合宿と追試の日程が被っているので赤点を取るわけにはいかないからです。
花美の試験はお世辞にも難しいとは言えません。応用的な問題はほとんどないし、教科書に書かれていることをある程度読み込んでおけばほとんど満点が取れるからです。なのですが……。
「どうしてこんな簡単な問題がわからないんですかっ!?」
自分は怒鳴っていました。あまりにも。あまりにも勉強ができていないからです。
「……ごめんなさい」
この三年生、胡桃さんが。
「とりあえず全員今の成績を教えて」
レギュラー発表の直後、合宿と追試が被っていることを伝えた小内さんはパイプ椅子に座り直してそう言いました。
「成績が悪い人って放っておいたら絶対に勉強しないから無理矢理にでもやってもらうわよ。まず一年から」
なるほど、できない人を洗い出して勉強を見てあげろってことですか。でも一年生は既にある程度わかっています。
「自分は六十四人中一位ですっ!」
「あたしは九位だったかな」
「……五十八位ですわ」
そう、珠緒さんが圧倒的に頭が悪いです。
「はぁー……なんで紗茎出身なのに勉強できないかな……」
「し、仕方ないでしょうっ。勉強なんてしてる暇なかったんですのよっ」
同じ学校出身の小内さんが頭を抱えます。紗茎は推薦をもらえなかったら普通に入るのは難しい学校。どうせ授業中もずっとバレーのことを考えているのでしょう。
「二年は日向が七十六人中確か二十位前半でわたしは……六十一位……」
「わっ、すごいっ、みきは六十二位だよっ、連番だねっ」
「うそっ、奇跡だっ。いぇーいっ」
「いぇーいっ」
「…………」
なんだか楽しげにハイタッチをしていますが、普通にやばい順位です。珠緒さんよりかはいくらかマシですが、下手をしたら赤点を取ってしまうでしょう。
「ちなみに絵里先輩は八十六人中三十四位!」
「誰よ絵里先輩って」
あーそういえば小内さんと絵里さんは面識がないんですね。インハイ予選で引退してしまった三年生の先輩。梨々花さんの憧れの人で、とっても優しい人。引退する前はよくこうやって絵里さん情報を聞いたものですが、なんだかひさしぶりです。
「……なんでまだあんな女のことを……」
「? 環奈さんなんか言いました?」
「別に」
隣の環奈さんがぼそっとなにか言ったような気がしたのですが、気のせいだったようです。
「成績なんか覚えてないけど確かウチは二十八だったかな……」
「えっ!?」
意外です! あんな脳筋っぽい朝陽さんが絵里さんより成績がよかったなんて!
「どういう意味のえっ!? だ、きらら」
「い、いえなんでもないです……」
はぇー。なら三年生のみなさんは全員頭がよかったんですね。一年生も負けてられませんね……!
「んで、胡桃は……」
「……秘密よ」
「だそうです」
朝陽さんに話を振られましたが、胡桃さんはなぜかぷいっと顔を背けてしまいました。でも気持ちはわかります。あんまり頭がいいアピールすると印象悪いですからね。
「まぁ真中さんのことだから大丈夫でしょ。じゃあ三年生の二人は二年生を教えてあげて、水空さんと翠川さんが新世さんを教えるって感じかしらね」
一通り成績を聞き終わったところで小内さんがそう指示を出します。
「あ、でも真中さんは受験勉強もあるからきついかしら。でも教えるのって意外と自分の勉強にもなるのよね。どう? 真中さん」
「…………」
直々にそう頼まれましたが、胡桃さんは相変わらず視線を逸らすばかり。それになぜか二年と三年の方々もバツが悪そうな顔をしています。
「おい胡桃、言った方がいいんじゃないか?」
「……嫌よ。屈辱だわ」
ん? なんだか話の方向がおかしいです。屈辱? もしかして受験勉強に力を注ぎすぎて定期試験ではあまりいい成績を取れなかったんでしょうか。
「でもこのままだとお前が教える流れになるぞ」
「うぅ……それは困る、けれど……!」
一体どうしちゃったのでしょうか。胡桃さんの表情がどんどん沈んでいきます。そして「わかったわよ……」とちっちゃく漏らすと、とっても気まずそうな顔でこう言いました。
「……八十六位なので教えられません……」
八十六位……思ったより低いですね……。でも三年生は他の学年と違って三クラスもあるしそれくらいには……あれ? にしても低すぎるような……。
「八十六人中八十六位! だから無理!」
あー……なるほどなるほど。把握です。
「試験期間中なにか病気してたんですね?」
でなければ最下位なんてありえません。だって胡桃さんですよ? いつも理路整然とした教育で自分を育ててくれて、週の半分以上塾に通っているんです。それに口調だってとてもあた……、
「病気なんてかかったことないわよっ! 早起きして勉強しようと思って寝坊しかけるくらいには健康だったわよっ!」
……まよさそう、だったのですが……。
「……胡桃さんって、おバカだったんですか……?」
というのがさっきまでの出来事。今も必死に胡桃さんの勉強を教えてあげてるのですが……。
「……なんで、この問題が解けないんですか……?」
この人、自分が想像しているよりずっとおバカでした。今渡した問題はちょうど自分のテスト範囲のものだったのですが、見事に全問不正解。というか答えを書いてすらいないので不正解と言うのもおこがましいというかなんというか……。
「……そんな昔の勉強なんて忘れたわ」
「英語ですよっ!? 積み重ねがなにより大事な英語でそんなこと言わないでくださいっ! 塾でなにを学んでるんですかっ!?」
「わかってないわね。勉強ができないから塾に通っているのよ。つまりボクが勉強ができないのは当然のことなのよ」
「隠すのやめた途端これですか……」
だめです、この人。文法とか単語以前にそもそも意識が負け犬染みている。なんというか、言動がだめな人っぽいです。
「まぁ落ち着きなよきらら。そんな怒鳴ったってしょうがないじゃん」
「環奈さん。ですが……」
隣のテーブルで数学を教えている環奈さんの方を見ます。
「ねー、梨々花せんぱーい。わぁっ、また正解ですっ。えらいですねっ、はい、あーんっ」
「あーん。んー、おいしいっ」
環奈さんの教育スタイルはとにかく甘やかすこと。梨々花さんが簡単な問題を正解するたびにパフェを食べさせてあげて、死ぬほど褒めちぎっています。
「もー、梨々花先輩ったらすごーい」
「だべー? わたし本気出したらすごいんだよー?」
「きゃーっ、もうさいっこうにかわいいっ。はい、あーんっ」
「あーん」
……なんでしょう、あのバカップルぶりは。褒めてもらったりパフェを食べさせてもらって梨々花さんは嬉しそうですし、環奈さんにいたっては恍惚の表情を浮かべてとっても幸せそうです。あんな笑顔のきららさん初めて見ました。
「あの泥棒猫……あとでぜってぇ締め上げる……!」
そのイチャイチャっぷりを見て環奈さんたちとは反対側の隣に座っている美樹さんがペンをへし折らんばかりに静かに怒り狂っています。
「こらこら、ちゃんと集中しないとダメでしょ?」
そんな美樹さんを教えているのはなんと喫茶花美の店長さん。いやほんとなんとですよ。なんで店長さんに勉強見てもらってるんですか。ていうかそんなことをしてる余裕あるくらいお客さんいないとかこのお店大丈夫なんでしょうか……。
「そう、それでいいのよ。やればできるじゃない」
「そうでしょうっ!? わたくしやればできるんですのよっ!」
そのお隣では珠緒さんが一応バイト中でエプロンを巻いている小内さんに勉強を見てもらっています。勉強法は環奈さんのような褒めるものですが、そこにあの人のような邪念はなくとても真摯に向き合っています。さすがはコーチ、といったところでしょうか。それに引き換え自分はとっても未熟です……。
「中学生の問題もわからないからといって怒るだなんていけませんね……」
「ちょっと待って。これ中学生の問題だったの?」
それすらわかってないとか……いけませんっ! 自分も褒めないと……!
「えーと……うーんと……どうしましょう、褒めるところが一つもありませんっ!」
「わかっていることを口に出されることほどイラつくことはないわね」
そう言うと集中が切れてしまったのか胡桃さんはオレンジジュースに手を伸ばしてしまいました。いえ元から全然集中してなかったので別にいいのですが。
「中学の時なにやってたんですか……」
自分ももう疲れてしまいました。自分にバレーを教えてくれている時の胡桃さんもこんな気持ちだったのでしょうか。そんなわけありませんね。さすがにここまでできないということはありませんから。
「中学時代ね……ずっとバレーをやっていたわ」
同じようにオレンジジュースを口に含んでいると、先にストローから口を離した胡桃さんが当たり前のことのように答えました。
「朝から夜までバレーのことばかり。勉強なんてできなくたって将来バレーでごはんを食べていくからいい、って思っていたもの」
集中力がないから飲んでばっかりいたせいで氷の方が目立つコップを見ながら胡桃さんは語ります。
「でも途中で無理だって気づいたから勉強にシフトしたわ。まぁ結果はこの通りなのだけれど」
「どうして無理だと思ったんですか?」
それは素朴な疑問でした。まだ素人から抜け出せていないからかもしれませんが、胡桃さんの実力は強豪校の同じポジションである輪投さんよりも上に見えました。がんばればプロにだってなれると思ったのですが、
「身長よ」
自分を見上げて短くそう答えた胡桃さんを見て、自分は何も言えませんでした。
「ボクの身長は百七十一……。ミドルブロッカーとしては低い方よ。もちろん低いなりに戦い方を見つければなんとかなるかもしれないけれど……その努力をすることを諦めたのよ」
バレーボールは高さがそのまま強さに繋がるスポーツ。身長が低ければそれだけで不利になる。まだバレーを始めて間もない自分ですが、既にそのくらいのことは理解していました。いえ、理解せざるをえなかったというべきか。
だって、高さだけで初心者の自分が警戒されているのですから。
「その点あなたには身長がある。今からがんばればプロだって夢じゃないわ」
「いえ、自分はいいですよ」
なにを言っているんでしょうかこの人は。
「大丈夫よ。ボクも卒業までは教えてあげられるわ。もちろん受験もあるし……勉強がこんなだからいつでもというわけにはいかないけれど……」
「いえいえそういうわけじゃなくてですね……」
胡桃さんはやっぱり頭が悪いです。
自分ががんばればプロになれるだなんて、当然のことじゃないですか。
「生涯をバレーに捧げる気なんてさらさらないってことです」
自分は天才です。どんなスポーツでもある程度やればそこそこの位置までは余裕でいけます。身長にセンス、才能……どれも普通の人とはレベルが違うんですもん。そんなこと今までの人生でよくわかってますよ。
でもスポーツ選手になったって意味なんてない。身体を故障すれば終わりですし、そもそも寿命が短すぎる。お金だってトップクラスにならなければ普通の人とそんなに変わりません。
そんなものを目指して一体なんの意味があるのでしょうか。
自分には、理解できません。
「さぁ、それより勉強ですよっ。まずは基礎からやっていきましょうっ」
将来なんの役にも立たない部活で確実に役に立つ学歴を捨てるだなんて馬鹿げています。
そのはずなのに、胡桃さんはなぜか悔し気に震えながらうつむいていました。
悔し気と言ってもあくまでそんな気がしたというだけです。
だって小さな胡桃さんが俯いたら自分の視界には表情が映りませんから。