第1章 第6話 死刑囚は足掻き続けて
〇梨々花
「梨々花ちゃんいくよっ」
「うん、お願い」
絵里先輩からセッターを薦められた翌日の昼休み。わたしは美樹にお願いしてスパイクレシーブの練習をしていた。お互い制服のままだし、ネットは一面しか張っていない。ほとんど練習にはならないが、今はこの短い時間でも使いたかった。
今日の放課後の練習を最後にわたしのポジションが決まる。水空さんより上手いことを証明できなければ、わたしは絵里先輩にボールを上げることができなくなる。
「っぁ!」
コートの間近で美樹はボールを高く放り、それを自分でスパイクする。本当はトスを上げる係もほしかったが、隣のクラスの日向に頼もうとしたら眠いと断られてしまった。他学年に頼むのも気が引けたので、苦肉の策がこの一人スパイクだ。
「ふっ」
左利きである美樹お得意のライトから打たれたスパイクをフライングレシーブで拾い、本来セッターのいる場所に返す。ボールはほとんど回転することなく、ポトンと音を立てて床を跳ねる。
「さすが梨々花ちゃん。綺麗なAパスだね」
「ありがとう。次、お願い」
この二週間の練習でわかったのだが、わたしと水空さんでは得意分野が微妙に異なる。
わたしはセッターの経験と、ずっと美樹とバレーをやっていたこともあって、トスと左利き相手のレシーブが上手い。対して水空さんは純粋なリベロとしての技術が非常に高い。わたしの得意分野がトスと左利き相手だとしたら、水空さんはそれ以外の全部。つまり総合的には向こうの方が上手というわけだ。
これは絶望的な結果だけど、逆に言えばレシーブ力さえ上がればわたしの方がリベロにふさわしいということになる。言葉にすると簡単だが、この差を詰めるのにどれだけ時間がかかるか。少なくとも今日一日でなんとかなるとは到底思えない。
つまりは……。いや、今は考えないようにしよう。今のわたしはただ練習するしかないんだ。
「梨々花ちゃんってさ、」
五分ほど延々とスパイクレシーブを続けていると、突然美樹が口を開いた。
「レシーブ、本当に綺麗だよね」
話しているせいかスパイクを打つ美樹の手がボールからずれ、ボールがネットに引っかかる。それでもボールはこちら側のコートに入り、なんとか取ろうと飛びついたことでギリギリボールを上げることができた。
こんなしょぼレシーブのどこが綺麗なんだ。本当の綺麗っていうのは絵里先輩のトスのようなことを言うんだ。わたしなんて足下にも及ばない。わたしの気持ちなんか知らず、美樹は夢を語るような口調で話を続ける。
「格言Tシャツを着なくなったのって、水空ちゃんに気を遣ってだべ? 綺麗で優しくて、梨々花ちゃんはほんとにすげぇよ」
美樹のスパイクがまた適当なものになった。今度はちゃんとコートの中に入ったが、まるで威力がない。こんなの翠川さんだってレシーブできる。
「……そんなことねぇべ」
軽くボールを拾い、わたしは答える。
わたしは綺麗でもないし、優しくもない。
格言Tシャツを着なくなったのは確かに水空さんが入ってきたからだが、別に気を遣ったつもりはない。ただ恥ずかしくなったから。『リベロ魂』なんてTシャツを着ているのにリベロができないだとか、そんな間抜けな話はない。
「……そんなことあんべ」
ついに美樹はスパイクを打つことを止め、わたしをまっすぐ見つめてきた。間にネットがあるせいでよくは見えないが、その目は少し潤んでいるように見える。
「だって梨々花ちゃんはすげぇもん。 いっつも誰かのことを気にかけて、自分ばっかりが損をして、それなのにいつでも全力でっ! 梨々花ちゃんが一番すげぇのに……!」
前々から思っていたが、どうにも美樹はわたしのことを過剰に評価している節がある。
わたしなんか全然すごくない。ただやりたいことをやって、その結果失敗しているだけだ。そんな風に解釈されても困る。
「梨々花ちゃんといるとね、みき、すっごく安心すんだ。普段でも、バレーでもそう。梨々花ちゃんがいたからみきは楽しくいられた。梨々花ちゃんがどんなボールでも拾ってくれるから安心してプレーに集中できた。梨々花ちゃんのおかげでみきはバレーをやってこれた。ねぇ、梨々花ちゃん。梨々花ちゃんはほんとにすごいんだよ……?」
あぁ、美樹は優しいなぁ。わたしのことをすごい褒めてくれるし、普段はほわほわしてて和むし、一緒にいて楽しいし。
「だからリベロは梨々花ちゃんがやるべきだべ。だって梨々花ちゃんは……!」
でもだからこそ、
「美樹の言葉、聞きたぐねぇ」
優しい言葉が耳に痛い。その優しさが逆にわたしを傷つける。
だってわたしはやっぱり、すごくなんかないのだから。
「…………」
美樹の足下に水滴が一粒垂れる。それが汗なのか、涙なのか。わたしと美樹の間がネットで阻まれている以上、知りようがなかった。
美樹は止まっていた脚を動かし、無言でボールカゴから一つボールを手に取る。そしてボールを高く上げると、強いスパイクを打ってきた。
ボールの到達地点はわたしの真後ろ。本来ならオーバーハンドで取るべき球だが、いつもよりスパイクに力が入っているせいで、おそらくエンドラインをわずかに超える。つまり、
「――アウ……」
「入ります!」
わたしのアウトコールは、それよりも大きな声でかき消された。咄嗟に後ろを見てみると、ボールはエンドラインのほんの少し手前に落ちていた。つまり、イン。
「……ナイスジャッジ、水空さん」
正確なジャッジを下した声の主、水空さんは、制服姿で体育館の入口に立っていた。その隣には翠川さんもいて、なにやら白い紙袋を持っている。
「やっぱり外から見てるとジャッジしやすいですね。たぶんコートにいたらあたしもアウトだと思ってましたよー」
水空さんはそう笑いながら言うと、足だけで上履きを脱いで体育館の中に入ってくる。水空さんの発言はきっと嘘だ。もし水空さんがわたしの場所にいたら、ジャッジミスなんてしなかったに決まっている。
「……二人ともどうしたの?」
美樹がネットの下をくぐり、わたしがいるコートに入ってくる。その顔はいつも通りのふわふわした笑顔だが、水空さんと話す時にこの表情をしたことはないので、無理に作っていることがバレバレだ。
「外川さんに訊いたらここにいるって教えてもらいましたっ!」
水空さんに少し遅れて、翠川さんも体育館の中に入ってくる。日向め、起きてるなら練習を手伝ってくれればいいのに。
ここにいない日向に怨念を送っていると、翠川ちゃんがイタズラっ子のような笑みでわたしを見つめてきた。
「さて問題です、今日はなんの日でしょうか?」
翠川さんの唐突な発言に少しドキッとする。今日が正リベロを決める日だということはわたしと絵里先輩しか知らないはずだ。それをなんで翠川さんたちが知っているんだろう。まさかあの時隠れて聞いていた……?
だとしたらここでばらされるわけにはいかない。これはただのわたしのわがままだ。水空さんに変な気を遣わせることだけは避けないと。
わたしがどうやって翠川さんの口を閉ざそうかと悩んでいると、水空さんと翠川さんが笑顔で目を見合わせる。そして「せーのっ」と声を合わせ、
「「小野塚さん、お誕生日おめでとうございまーすっ!」」
翠川さんが持っていた紙袋をわたしに差し出してきた。
「あ……そっか……そっちか……。うん、ありがと……」
しどろもどろになりながら、とりあえず紙袋を受け取る。
そうだった。リベロのことで頭がいっぱいですっかり忘れていたが、今日はわたしの誕生日だった。
「二人で一生懸命悩んで買いましたっ!」
「小野塚さんにぴったりだとは思いますよ。でもセンスが合わなかったらごめんなさい。選んだのはきららちゃんなんで」
「なんで自分を売るんですかっ! 提案したのは環奈さんでしょうっ!?」
水空さんと翠川さんが微笑ましい喧嘩を繰り広げているが、本音を言うとこんなことをやっている時間がもったいない。今のわたしには一分一秒も惜しいのだ。
「あはは……ありがとね。開けてみてもいい?」
それでも後輩の厚意を無下に扱うわけにはいかないだろう。わたしは愛想笑いを浮かべ、まだ喧嘩を続けている二人に訊いてみる。
「どうぞっ!」
翠川さんの返事を聞き、紙袋の中に入っていたものを取り出す。その見た目は小さくたたまれていた白い布。ていうか、Tシャツ?
「前にこういうの着てたので好きなのかなーって思ったんですけど、どうですか? 格言Tシャツ」
「うわうれしい! ありが……」
水空さんの言う通り格言Tシャツは大好きだ。着るとなんだか自信が湧いてきて、がんばっぺって気になる。
「……と……う……」
でもこの格言は、今一番見たくない言葉だった。
『努力は必ず報われる』。
そんなありふれた、誰でも言える、無責任な言葉。その文字がTシャツの前面にでかでかと踊っていた。
「小野塚さんっていつも練習がんばってるじゃないですか。だからこの言葉がぴったりなんじゃないかなーって思ったんですけど……気に入ってくれました?」
わたしがTシャツの文字を見たのを確認して、少し照れくさそうに頬をかく水空さん。
「うん……ありがと、とってもうれしいよ……」
だめだ。抑えろわたし。水空さんはなにも悪くない。
頭ではわかっている。わかっているんだ。
それでもTシャツを掴む手には力が入り、腕全体がプルプルと震える。
今すぐにこの言葉をわたしの目の前から消し去りたい。このTシャツをビリビリに引きちぎってしまいたい。
努力は必ず報われる。そんなはずはない。じゃあなんでわたしは今こうしてるんだ。なんでわたしはリベロになれないんだ。
ずっと。ずっと努力してきた。誰よりもがんばって、必死にがんばって、どんな時だってがんばってきた。
それでもわたしは絵里先輩にボールを繋げられない。わたしの方がバレー歴は長い。チームに長く貢献してきた。
でも結局絵里先輩が選んだのは水空さんだった。一日待ってもらったとはいっても、そんなものはただの悪足掻きにすぎない。たった一日で実力差がひっくり返るわけがない。
そんなことはわかってるんだ。でもやらざるを得ないんだ。がんばるしかないんだ。努力するしかないんだ。
でも。それでも今日の練習後、わたしは正式にリベロから降ろされる。
ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!
なにが努力は報われるだ。
わたしの努力は、絶対に報われない。
「小野塚さん……大丈夫ですか?」
「……うん。大丈夫。大丈夫だから……!」
「ここからすぐに消えろ」。そう言いそうになって、開きかけた口を手で抑える。
息が上がる。身体が熱くなる。目の前が歪む。脚がふらつく。立っていられなくなる。
「はぁ……はぁ……! なんで……なんでわたしは……!」
これ以上言うな。わたしは先輩だ。こんな言葉を後輩に聞かせるわけにはいかない。絵里先輩はいつでも完璧だった。わたしもそうしなくちゃならないんだ。
「わたしは……絵里先輩に……! 絵里先輩にボールを……! はぁ……! あぁ……!」
もう自分でもなにを言っているかわからない。心のコントロールが全くできない。
「保健室……保健室に……」
顔を上げると、わたしと同じくらいの身長の女が肩に手を伸ばしてくるのが見えた。
あぁ、そうだ。
こいつがいなければわたしはリベロになれたんだ。
こいつさえ、いなければ。
「お前さえ……いなければ――!」
わたしの肩に乗せられたその白く細い腕を払おうとした瞬間、
「水空ちゃん、話があるの」
10年間聞き続けてきた声が、わたしの動きを制止させた。