第001話 ×日目 雨の廃墟、迷宮都市の成れの果て①
雨音。
雨が降っている。
小雨ではないが、土砂降りでもない。
さあざあと地上を撫でるように、穏やかな雨――慈雨とでもいうべきか――が降り続いている。
その億千万からなる雨の水滴がこの街の屋根のない空間すべてに満ち、ありとあらゆる輪郭を曖昧に烟らせている。
目に見えるものすべてが淡く、まるで影絵のようだ。
時間帯は早暁、だがこの雨だ。
雨模様ゆえに朝日は差さない。
とはいえ夜はすでに明け、あたりは薄ぼんやりと明るい。
だが朝には似合うであろう小鳥たちの囀りも、街の規模からすれば動き出していてもおかしくない人々の営みが発する音もない。
生活音――生きる者たちの気配を感じさせるそれらは一切なく、ただ時折風にあおられて強弱の付く、さあざあと優しい雨音だけがこの静かな街に満ちている。
静寂。
完全な無音よりも、雨音だけが続く今の状況のほうがより強い静寂を聴く者に感じさせるのは不思議なものだ。
もっともこの場に、その静寂を感じることのできる者の姿は見えない。
この街がまだ完全に死に支配された場所ではないと感じさせ得るものといえば、この慈雨のおかげで各所に生い茂っている植物たちの緑くらいのものだ。
物言わぬ植物たちが静かな雨音を聞いているのかどうかはわからない。
朝日に照らされればさぞ美しく輝くであろうその植物たちも、ぼんやりと自身の緑を雨に滲ませているのみ。
葉に落ち続ける雨粒に、小さなその身をゆらゆらと揺らしている。
だが確かに雲の向こうに日が昇っていることがわかるように、薄暗くとも世界に淡い光は満ち、たとえそれを認識する者がだれもいなくとも夜が明けたことを示している。
気温も少しずつ上昇を開始している。
植物とて雨だけではその命を保てない。
土と水と空気と――日の光があってはじめて育ち、生い茂ることができるのだ。
この静かな街には人や動物の気配は感じられないが、少なくとも植物は生きていける場所ではあるらしい。
今のところはまだ。
であればもしも人がこの地に現れてもすぐに死ぬことはないだろう。
各種の食料を確保できねば長くは生きられぬにしても。
人が生きていくために最低限必須となる水に困ることはだけはなさそうだ。
植物が育つ水であるならばまず人も飲めるだろうから。
供給源は言うまでもなくこの降り続けている雨だ。
もうずっとこの雨は止んだことがない。
ずっとずうっと、それはもう長い長い間降り続いている。
この巨大な元迷宮都市のあらゆる場所が、それらを利用する動物――人のためのものではなく、動かず物言わぬ植物たちの苗床となるくらいの間ずっとだ。
朽ちた建造物に蔦が這い、整えられていた街路は草だけではなくここまで育つのに百年単位の時間が必要であろう巨木の根などに掘り返されたようになっている。
時代が混在したようなそれぞれの高低の差が激しい建造物たちも、みな例外なくあらゆる植物に覆われている。
この雲に覆われ日の射さない街が水墨画のような黒白に支配されていないのは、生い茂る植物たちの緑と外壁上に伸びた蒼く明滅する不可視の障壁のおかげ。
雨によってできた各所の水の流れは苔生した排水溝から地下へと流れ込む。
大小多くの水溜りができてはいるが、街が水に沈むことは今のところはまだなさそうだ。
排水機構が生きているとは思えないから、あるいは地下の空洞などへたまり続けているだけかもしれないが。
まあ地下排水機構が最終的に川や海などに繋がっているのであれば、そこが崩落でもしない限りはこの状態が維持され続けるのだろう。
朽ちた街の建造物と、そこを苗床に生い茂る植物たちの緑が雨ですべて灰色に滲んでいる。
――廃墟。
ここは主を失って頭に元をつけられる迷宮都市の成れの果て。
長い時間と降り止まぬ雨に晒されて少しずつ無に還らんとしている、きっと終末の向こう側。
いつか終末を迎えた主に置いてけぼりにされた、主のためにあったはずの場所。
創りだされた意味も目的も、技術も想いも、在りし日の繁栄も喧騒も、己が仕えるべき主も――すべてを失って、ひっそりとただそこに在りやがて人知れず朽ちてゆく。
それが廃墟というものだ。
その終末をこえてなおカタチを残した抜け殻のような在り方が、どこか郷愁にも似た強い情感を見る者に引き起こすのかもしれない。
もしもそれを見る人がいたのならばだが。
だが今はまだ誰の気配もない。
静寂に包まれたままの廃墟は、朝を迎えても目覚めないのだといわんばかりに。
第002話 22:00前後に投稿します。