白い馬と赤い路
僕は昔、好きになった女の子から「わたしじゃあなたを救えないから」と、そんなドラマのような台詞を言われたことがある。
その日は、彼女と初めての二人きりのデートで(当然、僕から申し込んだ)僕は浮きだつ心をなんとか抑え、彼女の隣を歩いてもなるべく不釣り合いにならないようにと、服装にも気を使ったし、いつもより長い時間をかけて歯磨きをして家を出てきていた。
彼女はとても頭の良い子で、僕があまり読んでない日本の近代文学をかなり沢山読んでいたし、生きる上での考え方に微塵の甘えもない点や、趣味で行った海外旅行での土産話を面白おかしく僕に話してくれる所が好きだった。
彼女は笑顔がとても素敵で、動作はいつも自然で、優しさに溢れていたし、ふとした仕草は僕にはない品があり、憧れを覚えるほどに輝いて見えた。
そんな彼女が急に深刻な顔で謎めいたことを言いだすものだから、僕は“そりゃ、そうだろうなぁ“と思いながら、喋る言葉を考えていると彼女は続けて「あなたの顔、昔わたしを殴った彼氏にとても似ているの・・・PTSDって知ってる?」と言って泣き出してしまったのだ。僕はあまりに突然の事態に状況を飲み込むことができず「・・・え、マジで?・・・知ってる」と、なんの思考もない返事を返すことしかできなかった。
口内に残ったパンチェッタチーズのピザを水で胃に流し込むことも忘れ、戸惑い続ける僕に、彼女は泣きやみはしたがアルビノのウサギのように白目を赤くして訥々と自身の生い立ちを語りはじめた。
「わたしのお父さんは、お毋さんを殴る人だったの、DV男だったの。・・・わたしは小さい頃からずっとそれを見て育ったの。・・・わたしお毋さんが殴られてても、もっと酷い何かをされてても見ていることしか出来なかったの。でも、わたしはもう大人だからお毋さんを守れるの、絶対に守るの」
それまでの僕は世の中にDV男がいることは、本やテレビやネットなど様々なメディアを通して知ってはいたけれど、実際にその被害者や、加害者に出会ったことはなかったので、急に目の前に差し出された重たい現実を、現実として捉えることが、すんなりとはできなかった。
「DVは連鎖するの、知ってる?」
聞いたことはあったので軽く頷いた。
「DVの被害を受けた子どもは、DVをする加害者になったり、自分に害を与えた異性の親に似た人を恋人に選んでしまったりするの・・・わたしもそうだったの。バカでしょ?亅
彼女の告白から受ける動揺を軽減するため、誰がつけたかも分からないテーブルの傷を見ていた僕だったが、彼女からの強い視線に気付いて僕は視線を上へと上げた。
すると、彼女はそれまで隠してきた本音を余すところ無く、その瞳いっぱいに浮かべていた。
それは、どうしようもないほど強い、僕への、僕の「顔」への恐怖だった。
「でも、ちゃんと別れられて良かったね、自分から切り出せたの?」僕はきいた。
「殴られて腫れ上がった顔を見た友達に別れさせられたの・・・わたし洗脳されてたの」
「・・・へえ、理奈ちゃんを洗脳するなんて、その男、相当頭良いんだね」
「うん、わたしより全然頭良かった。・・・今も違う子殴ってんのかな?」
「そういうのは、変わらなそうだもんね、・・・・・・・・・殴ってるかもね」
僕の頭はとても静かに、けれど凄いスピードで彼女とのこれまでの記憶を遡っていった。
先程までのウィンドウショッピングも、このレストランでの夕食も、幸福を感じていたのは僕だけで、彼女はデートの間ずっと、いや、それ以前からずっと、僕と顔を合わせて話す時は、僕という陰雨に悩まされ続けていたのだと、気づいた。
僕は深く溜め息をついた。すると衝動的にタバコが吸いたくなった。
僕は、ちょっとタバコ、と言って席を立った。駐車場で一服していると、少し混乱は治まったが、同時に頭の芯が異様に重たくなっていることにも気付いた。そして経験的に、これはひどい頭痛へと移行するであろうことも察知した。「まったく・・・ツイてないな・・・昔からだけど」僕は、ぼんやりと呟いていた。
席へ戻ると彼女は大分、落ちつきを取り戻していた。その両目から僕への恐怖心を拭い去ることには失敗していたが。
僕は彼女を悲しませることなどしたくはなかったし、過去を思い出して苦しむ姿も見たくはなかった。
僕は彼女になんと可哀想なことをしてしまったのだろう、彼女は自分を好いてくれる僕に遠慮して、怖いのを隠して僕と友達として付き合ってくれていたのだった。しかし、僕が友達のラインを越えようとしたものだから言わなければならなかったのだ。辛い過去を。僕が言わせてしまったのだ。僕が泣かせてしまったのだ。好きな女の子を自分の手で苦しめてしまったのだ。
僕は自分の顔と、昔、彼女を殴っていた僕によく似た顔の男に強い腹立ちを覚えた。あと、こんな悲しい運命を僕と彼女に与えた、役立たずな神様にも。
僕は彼女が好きだった。しかし、僕にできることは彼女の前から消えることだった。
「安心して。もうデートに誘わないし、なるべく顔を合わせないようにするから」
僕はなるべく怖くない笑顔を作り言ったつもりだったが、その笑顔すら彼女にとっては恐怖であろうことを考えると、とても陰鬱な気分になった。
「松岡君が良い人なのは分かるの、・・・でも」
僕は自分が全く良い人ではないことを知っていたが、今それを言っても余計に彼女を怖がらせるだけなのは目に見えていた。
「ありがと。じゃあ、そろそろ帰ろっか?今日はめっちゃ楽しかった。・・・オレだけだけど」と、冗談っぽく言うと、やっと彼女は笑ってくれた。少し困ったように。
会計を済まして外へ出て、いよいよお別れ、という時になると僕の頭には、いくつかのナルシスティック且つ、ロマンティックな言葉が思い浮かびはしたが、言うことはしなかった。
感傷など御免だからである。
劣化したゴムが千切れるように男女の関係も、幾度かの伸び縮みを繰り返した後で気付くと千切れているものなのかもしれない。
話は岡崎愛へと戻る。
僕は電車が苦手だ。恐怖しているとも言っていい。逃げ場のない空間で人の顔を沢山見ると酔って動けなくなってしまうのだ。なのでいつも苦しくなった時に、目を閉じて、タブレットで音楽を聞くためのイヤホンを持ち歩いていた。
そんな僕が彼女に会うために毎回2時間もかけて(往復だと4時間も!!)電車に乗っていたのが今思うと信じがたいが、事実である。電車代もバカにならないのに。
その頃、僕は自分の無能さに嫌気が差していた。バイトはコンビニをクビになり、居酒屋もクビになり、惣菜屋も人間関係の不具合で自ら辞めてしまい(愚かしいことだが)、割と長く続いたガソリンスタンドもケンカしてクビになり、親からの仕送りで生きのびていた。父が死んで仕送りが止まればホームレスか死かを早急に選ばなければならなかった。ニートは緩やかな自殺である。と誰かが言っていたが本当にそうである。
およそ、恋愛などしている場合ではなかったが、僕は恋をしてしまった。
しかし、カラオケ、居酒屋、ラブホテル、など大体がそんな人目のない場所で時間を潰すしかなかった。バカみたいなデートコースであるが、彼女には公務員の彼氏がいたから必然的にそうなった。かたや僕は自殺渦中のニートであったから、先の無い恋であることも当然分かっていた。
彼女は優しい内面とは裏腹に、非常に束縛の激しいタイプであったし、自分が彼氏を愛していることに嫉妬するか?とよく僕に訊いてきた。しかし僕は、公務員の彼氏に嫉妬できるような立場でも身分でもないことが分からないほど脳天気ではなかったので、嫉妬はしない、と言うと(事実、嫉妬などしなかった)彼女は怒った。
今の世の中、女の人が現実主義で異常に順番に拘るのはしょうがないことかもしれないが、愚かにも男は夢さえ見ていれば「順番なんて知らなーい」と言っていられるだけなのかもしれないが、僕が順番なんてどうでもいいと思っているのは、やはり事実であって、それが愚かであったとしても、それすらどうでもいいことだったのだ。
女の人から束縛されるのはあるラインまでは気持ちいいが、あるラインを越すと鬱陶しくなる、というのが男の本音だと思うが、岡崎愛は軽々とそのラインを越えていた。
では、なぜ僕が岡崎愛を嫌いになれなかったのか?というと、それは良くも悪くもその正直さにあるのだろうと思う。
しかし、白痴でもない限り、本当に純粋な女などいないことも僕は知っている。
正常と異常 感情と理性 無垢と俗悪 純血と混血 性と愛 創造と破壊 生と死 男と女 人間とヒト それら、あらゆるものの領域が曖昧であることが人間の定義であるならば、岡崎愛も例外ではない。岡崎愛は僕にとっては天使であるけれども、他の人が見たら、どこにでもいる普通の女でしかないことも知っている。
では、岡崎愛の何がそこまで僕を惹きつけたのか?
その答えは今でも分からないままだ。
あの頃よりは少しは分かってきたような気もするのだが。
あの頃の僕はそれを「運命」だと信じていた。