長い前置きとメンデルの法則
僕は幼い頃に小児てんかんを患っていて、大声で泣くと発作を起こし、転んで頭をぶつけると発作を起こし、風邪で高熱を出すと発作を起こした。母はそれによる心労で白髪になってしまったと、大きくなってから度々、聞かされた。そんなわけで僕は非常に甘やかされて育ち、小学校で少しイジメられただけで簡単に不登校になってしまった。そして大人になった今でも、未だにその頃から心は強くなっていない。
僕は僕を愛してくれる人を不幸にする。という困った星の下に生まれついている。
僕が生まれた日、母は僕の誕生を心から喜んだはずだ。僕の母はそういう人だから。しかし、どんな悲劇も始めから不幸のどん底ということはありえない。始まりは幸福で満ちているからこそ、その物語は悲劇たり得るのだと僕は思う。
人にも女性にも慣れていなかった僕は、20代中頃から当然のように風俗に通うようになった。
しかし、女性はどんなに頭の良い人でも、話を聞いているとすぐに感情的になるもの。と知ったのはごく最近のことで、僕はそれに対する対処法が未だに分からないままだし、これからもきっと分からないで生きていくのだろうと感じている。
感情豊かであればあるほど、人は人に残酷になれる。ということは人間の歴史(戦争の歴史と言い換えてもいいのかもしれない)が証明しているので、僕は生きる上で感情というものを野放しにする事に対してとても否定的だ。
人が本来的に形而下の世界だけで生きていける生き物なら「形而下」という言葉は存在しないはずだが、同時に「生きる」ということは、それらに縛られ続けるということでもあるようだ。
にも関わらず、なぜ世界にはこれほど多くの宗教があり、多くの神様が信仰されているのかと考えると、それはやはり、信じる者にとって神様が無害だから、なのだろうと思う。
しかし、その無害さは畑に農薬を撒き、自分に得のない自然を破壊する行為によく似ていると僕は感じている。やはり否定的な感情として。
とはいえ僕は、神様に手を合わせて念仏を唱える、あの瞬間が嫌いではないし、神様が自分を見ていてくれている、という幸福感もよく分かるのだが、どうしても信じることができない理由はきっと、そこらへんにあるのだろうと思っている。
恋愛小説と謳っていながら、なぜ突然、自身の病歴、また、この物語に関係のない「宗教」や「神様」について語りだしたのか(すでに賢い人たちが論じ終えているようなことを)といえば、僕が恋愛には向かない人間でありながら、恋愛小説を書くにあたっての読者に対する前置きのようなものなのかもしれない。と思っている。
長い前置きも終えたところで、岡崎愛の話に戻ることにする。
岡崎愛は天使の心を持っている。
そのエピソードを全て語り尽くそうとしたら時間が足りないことは目に見えているので一つだけ紹介することにする。
彼女が10代の頃に地元のスナックでホステスとして働いていた頃の話だ。
当時、そのスナックのホステスの年齢層は高く、若い女の子は彼女一人だけで、彼女は働きはじめてからすぐにオジサンたちの人気者になってしまった。そして当然のごとく先輩ホステスからのイジメは始まったのだという。そして散々イジメられた上で「わたしの客を取んないでよ」と理不尽に怒られた時にも、彼女は心の中で(わたしは取ってないんですけど・・・)と思いながら黙って泣きそうになっていたのだという。
僕は人間の心は誰しも悪意に満ちていると思っていたので、その話を聞いた時に、強いカルチャーショックを覚えたし、そりゃ鬱にもなるよなぁ、と納得した。
少し前まで、バイトは辞めるものではなくクビになるもの。と思っていた僕がその状況に置かれていたら、絶対にその先輩ホステスに殴りかかっていただろうし、できるだけ臭い唾を顔面に吐きかけてやろうとしただろうし、まず、そこまでなる前にケンカをしてスナックをクビになっていただろうと思う。
もうひとつ付け加えるとするならば、岡崎愛は自分が天使の心を持っていることに全く気付いていなかった。多分、今でも。
そして彼女にとって一番の不幸の種である、僕と出会ってしまった。