ちりりん
「お待ちください」
移動の車に乗り込もうとした直前に、甲高い声に呼び止められた。
理奈は驚いて後ろを振り向いた。太った女がぶるんぶるんと腹の肉を波打たせながら走ってくる。
女は理奈の前でつんのめるようにして立ち止まった。
必死で走って来たのだろう。女の吐く息はかなり苦しそうだった。
理奈は、自分の前に突然現れた女に驚き、それから棘のある表情で眺めた。
知らない女だった。
白髪の目立つ艶のない髪。おどおどした小さな双眼。顔の真ん中にどんと胡座を掻いた鼻。
唇は厚く、醜くめくれ上がっている。それから、くたびれた綿のブラウスに膝の出たスラックス。
丈の長い薄手のニットジャケットを羽織っているが、身体のサイズに合っていない。それが肉付きの良い背中にぺたりと貼り付いて、大きな尻がやけに強調されていた。
女はこの業界に籍を置く者とは思えない恰好をしていた。というか、ここ、六本木にあるビル街の周りを歩く人々の装いとあまりにもかけ離れた服装だ。
(アルバイトの人かしら?)
理奈は首を傾げた。それなら普段着のような格好でも構わないだろうし、自分が知らなくたって、当然だ。
それにしても、こんなに太って動くのが大変そうな中年女を雇うなんて。
理奈は眉を顰めた。確かに、この業界は仕事がきつい。バイトのほとんどが、雑用と肉体労働で酷使され、疲れ果てて短期間で辞めていく人が多いのは理奈だって知っている。
使い捨てだが、それでも、この世界に憧れる若者には絶大な人気がある。人手不足の時代とはいえ、代わりなど幾らでもいる筈だが。
(ああ、そうだ)
理奈はある事を思い出して、女の胸元を見た。
テレビ局には、一般人が入れないように警備員が貼り付いて、出入りの人間は厳しくチェックされている。入れるのはテレビ局の証明書を首からぶら下げている人間だけなのだ。
だが、理奈が見る限りでは、女はどこにも身分証明書を身に着けていなかった。
女は理奈のファンではないことは明らかだった。彼女の胡乱な瞳には、理奈に対する憧れも羨望もまったく映し出されていなかったからだ。
「あなた、誰?」
理奈は女に詰問した。身分を問い質されても女は動揺を見せなかった。
理奈に睨み付けられていても表情一つ変えずに、以外にもはっきりとした口調で女が言った。
「社長からです。次の仕事に必要なものだそうです」
女が理奈に封筒を突き出した。女はやはり事務所の人間だったのだ。
条件反射的に理奈が受け取ると、女はぺこりと小さくお辞儀をした。
顔を上げた女の小さな瞳が、理奈を不躾に凝視した。落ち窪んだ眼孔の中に蹲る目が甲虫のように、もぞり、と動いた。
女の表情に気味悪さを覚えて、理奈は素早く車の後部座席に滑り込んだ。
マネージャーの黒田が後部座席にドアを閉めると女の姿は見えなくなった。黒田は運転席に座わるとエンジンを掛けた。車はゆっくりと走り出した。
「何よお、これ」
理奈は車を運転する黒田の脇に後部座席から腕を突き出して、摘んだ封筒をぶらぶらさせた。
「次の現場に必要な資料ですかね。すぐに目を通しておいてください」
「はあ?聞いていないんだけど。段取り悪過ぎ!」
「すいません。これから気を付けます」
悪びれた様子など微塵も含んでいない黒田の口調に理奈は腹が立った。
「それに何なの、あの女。すごく感じ悪かった。あんなのを社員にするなんて、社長ったら趣味悪いのね」
「そうですか」
黒田の間の抜けた返事を聞いて、理奈は益々腹立たしい気分になった。
バックミラーに映る黒田の顔を思い切り睨み付けたが、黒田は前を見たままで、理奈の表情には全く気が付いていないようだった。
(この男は私を誰だと思っているんだろう)
相川理奈。二十三歳。
人気雑誌の専属モデルからタレントに転身し、さばさばとしたトークが視聴者に受けて、五つの番組のコメンテーターとして活躍している。
私は絵に描いたようなサクセスストーリーを邁進している。昨日も今日も、これからずっと。
心の中で反芻する度、自分に対する黒田の一挙一動が理奈には気に食わない。
年の割には気の利いたこと一つ言えない黒田を理奈は完全に軽蔑し、馬鹿にしていた。
理奈は黒田の座っているシートを睨みつけた。
黒田正一。四十五歳。退屈で、一つも面白味のない真面目だけが取り柄の男。社長に言われた仕事だけしかこなせない男。いつでも取り替えが利く会社の手足だ。もちろん独身。
自分を見る時の媚びを含んだ黒田の視線が、理奈は何より嫌いだった。
若く美しい女に向ける、中年男の粘ついた視線。手に入れることが不可能だからこそ、瞳に浮かぶ色は濃く、薄黒い。その色がこちらに向く度に、理奈は嫌悪し身震いした。
(黒田は私を好きなんだろうけれど、私は嫌い。大嫌い)
こんな奴、必ずマネージャーを辞めさせてやるからと、心の中で悪態を付きつつ、理奈は急いで封筒を開けた。
中には束になったレポート用紙が入っていた。仕事が順調なのは良いことだが、忙しすぎて自分の時間が殆どない。
(移動中だけでもゆっくり出来ると思ったのに)
理奈は苛立たしげに舌打ちして封筒の中からレポート用紙を手荒く抜き取ると、きっちり書き込まれた細かい文字に目を落とした。
―前略、このような不躾な手紙を、見ず知らずの私が、貴女様に差し上げる無礼を承知で筆をとりましたことを、まず始めに謝らせて頂きたいと思います―
仕事の内容ではないのは読み始めてすぐに気付いた。
やはり、あの女は、テレビ局でも事務所の人間でもなかったのだ。
理奈は思わず車の窓を開けてあの女を探したが、別のテレビ局へと動き出した車中から見えるものは、高層ビルが立て並ぶ街並みだけだった。
手紙を隣の座席に放り投げてしまおうかと思った。だが、あの女が書いたとは思えない美しい字体と丁寧な文章に興味を覚えた。
理奈はそのまま、手紙に目を通す事にした。それにこの手紙を社長に見せれば、マネージャーの資格ゼロということで、気の利かない黒田を即刻辞めさせることが出来るではないか。
見知らぬ女から不用意に封筒を受け取った黒田には、弁解の余地はない。
黒田の首がついに飛ぶのだと思うと、口元が綻んで仕方がなかった。
時折、理奈の様子を確認するかのようにバックミラーに映る黒田の視線を避けようと横を向いた。
彼の嫌な視線を受けるのもこれが最後だ。理奈は体を伸ばし、車の後部座席の隅へ上半身を移動させた。
ここなら黒田の視線は届かない。続きを読もうと、理奈は再び手紙に目を落とした。
―しかしながら、貴女様がテレビの番組でお話になられていましたあの事について、私の知っているすべてを貴女にお話しなければならないと決心し、早急に手紙をしたためている次第であります。
どうか決して、悪質な嫌がらせだとは思わないでください。貴女の話を自分の耳にしたとき、どうしても私の事を包み隠さず貴女にお知らせしなければという衝動に駆られ、こうやって、紙の上にペンを走らせています。
これは使命感からだと言うことを、最初に貴女に知っておいて欲しいのです―
早く読め。好奇心が理奈を急かした。
―何故なら私もあなた同様、“ちりりん”を体験したからなのです―
この話をするには、私の過去を三十年くらい前に遡らなくてはなりません。
あれは晩秋。駆け足で冬へと向かう頃のことです。
冷たい風が容赦なく顔に吹きつけ、細かい痛みがぴりぴりと頬から耳へと這うように広がっていく季節。いつもの年より強力な冬将軍の到来を子供でも感じずにはいられない、そんな時期にあれが起こったことを、私は忘れることが出来ません。
小学校二年生、八歳になったばかりの私は、まだ幼い子供でした。
ああ。本当はこんな悠長な表現で、この話を始めてはいけないのです。
あの日から、あの体験をしてから、それは硬い殻となって私のすべてを包み込んでしまったのですから。
いつまでも血に飢えた蛭の如く、自分の頭のなかにべったりと貼り付いてしまって、決して離れることなどないのです。今では、あの記憶のなかに私がいるといっても過言ではないのだと感じる程に。
申し訳ありません。少し話がずれてしまいました。元に戻しましょう。
とにかく寒い日でした。
曇った空は薄汚れた布団綿を隙間なく敷き詰めたようでしたし、北風は、枝にしがみついている数少ない枯れ葉をすべて吹き飛ばそうと躍起になっておりました。
その日、一日中吹き荒れた風は夜になってもおさまらず、幼い私が床に就く頃になってもその勢いは一向に衰えません。
風に煽られた雨戸の立てる騒々しい音で眠気は何処かへ行ってしまい、私は仕方なく布団の中から目だけを出し、出鱈目にくりくり動かして、暗い天井に落書きをしているつもりでおりました。
ふと気がつくと、隣で寝ている姉はもちろん、父も母もそれから祖母も、家族の皆が寝入ってしまったらしく、かたりとも音がしません。
闇と静寂のなかに取り残されてしまった私は、不意に家の外に放り出されたようなショックを受けました。
大人であれば何でもないことですが、深夜一人だけ目を覚ましているということは、まだ八歳の子供にとっては恐怖でしかないのです。
怖いと思うと神経もますます研ぎ澄まされてきます。そうなると悪循環で、もう眠るどころではありません。
風の音も怨念の籠ったすすり泣きにしか聞こえず、するとその音が耳から離れなくなるのです。
幼い子供であれば誰もが想像する恐怖の終着点。
幽霊。
その存在をくっきりと頭のなかに浮かび上がらせた私は、自分の造り上げた怪物にどうすることも出来ずに、布団の中でがたがたと震えていました。
そのときです。長々とした恨めしげな風の呻きの間からそれが聞こえてきたのは。
簡潔なその響きは、ときに風に流され、少しぼやけたようになりますが、一つの音域から決して外れようとはせず、狂った夜の風のなかに、ぽかりと浮かんでいるみたいです。
その音をよく聞こうとして、私は恐いのも忘れ、布団の中から身を乗り出したくらいでした。
可愛い音でした。
ちりりん
まるで、小さな鈴を転がしたようでした。
ちりん
ちりりん
ちりん
最初、風に途切れて微かにしか聞こえなかったその音は、一定の間隔で次第に大きくなっていきました。
歩いているみたいだ。
何気ない考えが、私に忘れていた恐怖を蘇えらせました。
鈴が歩く。
昼間であれば、いくら子供だってそんな馬鹿なこと考えないでしょう。
しかし今は夜中です。闇の中からおかしな音が聞こえてくれば、大人だって恐ろしげな妄想に悩まされる筈です。しかもそれは本当にこちらに近づいて来るようなのです。
私の身体は緊張で強張り、身動き一つ出来ません。それが分かっているかのように、鈴の音はゆっくりと、そして、確実に大きくなっていくのです。
やはりこちらへ、私の方へやってくる。
ちりん ちりん ちりん
音と私を隔てているものは、今や家の壁だけでした。
壁を突き抜けて音が家の中に入ってきたらという途方もない考えが、頭の中に渦巻いています。
そうなったら私はどうなるのでしょう。もしあれが正真正銘、本当の幽霊だとしたら?
ちりん
ひとつ鳴らして音は止まりました。
息を殺して様子を伺っていると、鈴は苛立たしそうに、短くちりちりと鳴りました。
それから家の外を行ったり来たりしているように、大きくなったり小さくなったりしながら、鈴は音を響かせました。
どうやら家の壁から先には進めないようなのです。鈴の音が家の中に入ってこられないと知った私に、子供特有の好奇心がむらむらと沸き上がりました。
さっきまで怖くて震えていたことなどすぐに忘れ、布団から這い出した私は、もっとよく音を聞こうと壁に近づき、四つん這いになって壁に耳を当てました。
その行為を待っていたかのようでした。
ちりりりいん
一際大きく、鈴が鳴ったのです。
驚いた私が思わず壁を見つめると、目の前の壁が青白く、ぼうと淡い光りを放ちました。
私はぎゃっと短い悲鳴を上げて、手足を縺れさせながら、布団の中に逃げ込みました。
私を驚かせることに成功した鈴の音は、満足したように小さくちりんと鳴ると、今度は徐々に家から遠ざかって行きました。
音が風に消されて聞こえなくなると、ほっとした私は一遍に緊張が解け、殆ど気を失うようにして眠ってしまいました。
これが私のちりりんの体験談です。
どうです?あなたが話していたのとそっくりでしょう。
気味が悪いですね。何の関係もない二人の人間が、全く同じ異様な体験をするなんて。
ただ、あなたと決定的に違うのは、私には長い長い後日談があることです。
その話をこれからしましょう。
実を言えば、そのことをあなたに知ってもらいたくて、私はこの手紙を書いているのです。
さあ、話を続けましょうか。
朝、姉の嬌声と母親の叱る声で目を覚ました私は、自分の下半身とその下の布団が冷たく濡れているのを知りました。
「二年生もなって、おねしょをするなんて」
母は文句を言いながら手荒に布団からシーツを剥がしました。まだ布団の上にいた私は転がるように畳に落ちておでこをぶつけ、泣きながら祖母の部屋へ行きました。
優しい祖母。
母はよく私ばかり怒っていましたから、不憫に思ったのでしょう。いつも私のことを気に掛けてくれていました。今にして思えば、それも母親の苛立ちの種だったのに違いないのですが。
昨夜のことを母に話せばもっと叱られると思った私は、迷わず鈴の音のことを祖母に話しました。
祖母は優しく微笑んで、それは猫だと言いました。鈴をつけた飼い猫が迷っていたのだと。だから、それは幽霊なんかではないと。
「お母さんに言っちゃあ駄目だよ。また叱られるから」
そう言って、祖母は笑いました。それでこの話が終わったのならば、幼い日の恐怖体験は笑い話で済んだでしょう。
その日の午後、いつもと変わらない時刻に帰宅した私を待っていたのは家族ではなく、隣の家のおばさんでした。
その人は興奮した口調で、祖母が急に倒れて意識不明のまま病院に運ばれたのだと教えてくれました。
「一時間程前だったよ、玄関先でばったりと。びっくりしたのなんの」
おばさんは慌てて言葉を付け足しました。私が泣き出したからです。
「大丈夫、心配ないよ。すぐ病院に連れていったから、助かるよ」
慰めてもらっても無駄でした。私には分かっていたのです。祖母がもう助からないことを。
鈴の音。あのせいです。あれを耳にしたことが災いをもたらしたのです。そしてそれを祖母に話したことが。
何故そう思ったか、ですか?
難しいですね。第六感とでも言いましょうか。何かが私にそう悟らせたのです。多分、今までに体験したことのない異様な恐怖が。
はたして祖母は、もの言わぬ体となっての帰宅となりました。
私は罪悪感で押し潰されそうでした。大好きだった祖母を死なせてしまったのです。私の一番の理解者である祖母を。
しかし、このことを誰に話せるというのでしょう。
両親ですか。いいえ、もし彼らの身に何か起こったらどうしましょう。私はまだ生活力のない、幼い子供なのです。それに無事だったら、父と母は私のことを変人扱いするだろうということは、小さな子供の頭でも分かりましたから。
そこで私は、同級生の一人の男の子に話して見ることにしました。
年上の兄の影響か、ホラーゲームが大好きな少年でした。変人扱いされずに済みそうなのはその子だけだと、確信もありました。
確信は当たりました。男の子は神妙な顔つきで、私の体験談を馬鹿にもせず聞いてくれました。
その話が終わった後、彼はしきりに不思議だなあ、を連発していました。
人のいい子でした。私の話を終わりまで聞いてくれたのですから。翌日、男の子は交通事故で死にました。私は級友たちと一緒にその子の死を悼みました。
悼む。
この言葉は嘘になりますね。本当は何一つ悲しくなんかなかったのですから。それどころか、罪悪感など、微塵も感じていませんでした。
私は泣きながら、無邪気にも特別な能力を授かったことに有頂天になっていました。
人を死に追いやる話を語れる選ばれた人間。
幼心にもその意味は十分理解していたつもりです。これは神と同等の力なのだと。
次に鈴の話を聞かせたのは私の姉でした。確固たる殺意があったのを今更否定するつもりはありません。私は姉を憎んでいましたから。
彼女は人前では幼い私を可愛がるのですが、誰もいなくなると途端に虐め出す影日向のある性格だったのです。
私と姉は、これで両親が同じなのかと思えるほど、何もかもが正反対でした。
年は十も離れていたのですが、幼い私が見てもはっとする程の美人でした。頭も良くきびきびとした性格で、それはそれは近所では評判の娘でした。
そんな姉でしたから、ただ大人しいだけで何の取り柄もない私が我慢ならなかったのでしょう。
お前はどうしてそんなに愚鈍で醜いのかと、姉は絶えず私をなじりました。両親も姉の方を何かと目にかけ、強い愛情を持っているのをはっきりと感じていました。
子供に対する親の愛情の配分が極端に片寄っている場合、幼い子供が他のきょうだいに抱く感情と、その行き着く考えを御存じですか。
両親の愛情を独り占めにするにはどうすればいいのだろう?
単純明快。姉なんか、いなくなってしまえばいいのです。
そして姉は死にました。
自分が冷たくあしらった大学生に逆恨みされて、ナイフで滅多突きにされたのです。私は両親と一緒に嘆き悲しみながら、内心ほくそ笑んでいました。
鈴の話をむやみに人に話してはいけないと感じたのは、近所の人や友達が私達家族を敬遠しているように思えたからです。
不幸が続いた家が気味悪かったのでしょう。それに大好きな祖母を失った心の痛手も手伝って、暫くは誰にも鈴の音の話はしませんでした。
いいえ、これは正直な言い方ではありません。ちゃんと話さなければ。最初にそう誓ったのですから。
夢でした。悪夢です。祖母が私の夢の中に出てくるようになったのです。それも毎晩。
その話を少ししましょう。
眠りに落ちると夢はすぐ私を飲み込みました。
目の前に黒い波の薄膜が一枚、また一枚と放射状に広がり、気がつくと墨でできた霧が立ちこめているのかと思える無限の空間に自分がいることに気が付くのです。
眠った途端に覚醒する異常な感覚に、これは夢だ、己が見ている夢なのだと意識下の自分が囁き、現実には夢、夢という現実の闇世界を私は恐怖しながら、ここから逃げ出そうと、顔の前に腕を出し水をかくようにして光を求め、ふらふらと前進するのです。
何も見えないし、自分でも何処に行こうとしているのか皆目見当もつかないのですが、踏みしめる地面はあるので、とにかく進むしかないと心許なく歩いていくと、何やら身体にぶつかる物があります。
震える指でまさぐると、どうやらそれは人間の形のようでした。
徐々に這わせた手を上に持っていくと、弾力性のなくなったゴムみたいな皮膚を、それに覆われたなだらかな窪みと隆起を私は自分の指先に感じるのです。
この感触は前に感じたことがある。そうだ、これは祖母の顔だ。
分かった瞬間、骨と皮が極端に伸びて蝙蝠の前足のようになった祖母の指が闇に浮かび上がったかと思うと、がっちりと私の二の腕を掴みました。
老女のものとは思えない凄い力です。必死になって振り解こうとすると、闇が割れ、にゅっと突き出た顔は確かに祖母のものでした。
しかし、いつも私に向けられていた柔和な表情は片鱗すら見当たりません。
眼窩からこぼれ落ちそうな程目を見開き、両頬の筋肉が驚くほど持ち上がると口の両端を引き上げ、黄色い歯を悪臭の放つ半分溶け落ちた灰色の歯肉もろとも、齧歯類の如く剥き出しています。
恐ろしさのあまり、私は叫び声をあげて夢中で祖母の手を振りほどき、闇の中を滅茶苦茶に駆け出しました。
すると祖母は、音もなくすうすうと空中に浮かぶと、逃げる私の背中にぴったりと貼り付いたのです。
突然、私は肩から腰に掛けて大きな砂袋を背負ったようなとんでもない重みに襲われました。
膝が折れ、前へ倒れこもうとする足を、私は辛うじて堪えました。枯れ枝の如き祖母の身体のどこにこんな体重があるのかと呆れてしまう程の重さです。そして、私の耳元で奇妙な念仏を繰り返し、血生臭い息を首筋に吹きかけるのです。
「鈴を渡せ」
背中からはっきりとした声が聞こえました。
念仏ではありませんでした。祖母はその言葉を繰り返し呟いていたのです。
それだけは渡せない。
私は夢の中で叫んでいました。怒った祖母が息の当たった箇所をがぶりと噛みつくのではないかという恐怖から、私は夢中で身を捩り、もがき、両腕を後ろに回して祖母の身体を夢中で自分の背中から引き剥がしました。
すっと背中が軽くなった途端、後ろを見る余裕もないまま、私は闇の中を全速力で走り出しました。
どのくらい走ったでしょうか。ここまで来れば大丈夫と安堵した私は足を止め、やっと後ろを振り返ることが出来たのです。そこには祖母の姿はありませんでした。
良かった。ああ、助かったと前方向に顔を戻すと、何と、私の目と鼻の先に祖母の顔だけが浮かんでいるではありませんか。
驚愕のあまり四肢が萎え、口が半開きになったままの状態で、私はその場に立ち竦んでしまいました。
恐怖が脳天を貫き、身体の動きの全てを封じ込めています。逃げなければ祖母に殺される。それでも身体は微動だにせず、髪の生え際から噴き出してくる汗が滝のように流れ落ちていく感覚だけが、妙に生々しいのです。
なす術もなく、私は祖母の顔と対峙しておりました。
もうだめだ。鈴を渡さなかった自分は死ぬのだ。
観念した私は、まるで立ち枯れた草のようで、何の抵抗もせず、ぼんやりと祖母の顔を見つめています。
なのに、祖母の顔は私に襲ってくる様子もなく、静かに宙に浮かんでいるだけでした。
恐怖が半減した私は、改めて祖母の顔を見つめました。少し怒ったような悲しげな表情です。
私がもっとよく見ようと顔と近づけると、どうしたことか、祖母の顔がどんどん縮んでいくのです。夏みかんくらいの大きさまでに縮んだ頃でしょうか、顔はぽたりと落ちて平らになり、闇の地面に薄い灰色の染みとなりました。
自分ではなく、祖母が死んだのだ。
すっかり安心した私は、少し大胆になって、染みの上に身を屈めて覗き込みました。
覗き込んでみると、染みは私の顔の平面体なのでした。虚ろな目が私の顔を捕らえ、その瞳の中に私の顔が映り、映った瞳の中には小さな粒が震えるように浮かんでいるのです。
何だろう。確かめようとして私が顔を近づけた途端。
「鈴を渡せ」
闇から聞こえる祖母の叫び声と同時に、ものすごい勢いでそれが伸びて細長い五指に分かれたかと思うと、私の瞼に入り込み、眼球を掴んだのです。
私は悲鳴を上げ、あまりの生々しさに気が狂ったように目を擦りながら、布団から飛び起きました。
震える身体は起きたばかりで、夢と現実の区別が付きません。
粘りけのある汗が手足を冷たく冷やし、背中にパジャマをべったりと貼り付かせている気持ち悪い感覚が戻ってくる頃、私はようやく自分が悪夢を見ていたのだと理解できる始末でした。
悪夢が祖母の警告だということも、もちろん分かっていました。
祖母は可愛がった孫の行く末を、死んでも心配してくれていたのでしょうか。それとも単に、私に残っている僅かな良心の呵責が、優しかった祖母を醜悪な形に変えて現れただけなのでしょうか。
どちらにしても、しばらくの間は私を抑える効果はあったと思います。
でも、それも最初のうちだけでした。毎夜見ていた悪夢も飛び飛びになり、そのうちぱたりと見なくなりました。
あれ程生々しかった夢の恐怖も徐々に薄れ、次第に祖母の顔が記憶から朧になり霧散してくると、再び話をしたい誘惑が私の胸の辺りに渦を巻き始めたのです。
鈴の音の魔力の勝利でした。三人を死に追いやって学んだことは、まず計画を練って慎重に事を進めるのと、誰にも気付かせてはいけないということでした。もちろん話をする相手にもです。
そして歳月と共に、私は人に鈴の音の話をうまく聞かせる術を身につけていったのです。
一体、どれくらいの人にちりりんの話を聞かせたのか、もう覚えていません。
理由を付ければ、とにかく私の気に入らない人達にです。卑屈な笑みを浮かべて擦り寄って行き、相手を煽って、相談を持ちかけるように鈴の話をするのです。
聞き終わった後の、彼等の唖然とした表情といったら。
私を狂人でも見るような顔つきが、どんなに遅くても、二日後には確実に死に顔になるのです。想像するだけで私は快感に身体が震えたくらいです。
楽勝、楽勝。ルールは私しか知らないのですから。
すべてがうまくいきました。彼等の突然の死と私を結び付けるものは何処にもありません。
話を聞かせただけで殺人を犯せると誰が考えますか。
転落が始まったのは一人の男を殺してからでした。その頃私は会社勤めをしていて、同じ課の同僚に恋心を抱いていました。
恥ずかしながら申します。遅い初恋でした。
私の初恋は、世間でよく言われるような一般的な終わり方を迎えました。私の秘めた彼への想いは片想いのまま終わったのです。
彼には恋人がいました。私よりずっと年下の可愛らしい恋人が。二人は結婚の約束までしていたのです。
嫉妬心から、相手の女に鈴の話をしたのは言うまでもありません。
恋は盲目といいますね。私はいつもの用心を忘れ、性急にその女に接触しました。仕事の打ち合わせを口実に彼女を昼食に誘ったのです。
自分の恋人が、私の後について部屋から出ていくのを、彼に目撃されているとは知らずに。女はランチから会社に戻る前に、公衆の面前で、ハンドル操作を誤った若者の車にひき殺されました。
恋人の突然の死に男は逆上しました。
彼は私のせいで恋人が死んだのだと、他の同僚の前で口汚なく罵りました。
「お前が彼女を突き飛ばして殺したんだ。お前は人殺しだ」
彼は何度も私にそう言いました。その勢いは身の危険を感じる程で、だから私は彼にも鈴の話をしました。
「あんたは頭がいかれている」
話を聞き終えると、彼は私に吐き捨てるように言い残し、憎しみに肩を震わせながら去っていきました。
優しい言葉でなかったのは幸いです。それで私は彼に対する感情を捨て去ることができたのですから。そうでなければ、好きだった人を殺したわけですから、私自身、慚愧に耐えられなかったでしょうからね。
彼はどうなったかって?プラットホームから足を滑らせて落ちたそうです。電車がホームに入る直前に。
二人の死に私が関係しているとは誰も言いませんでした。けれど、会社中の好奇の視線に絶え切れず、私は逃げるように会社を辞めました。
会社を辞めたことで、両親は私を責めました。彼らはもう年寄りで、収入の道はなく、僅かな年金と私の多くはない収入だけが頼りでした。
私が何の当てもなく会社を辞めたことで、両親は自分たちの生活がどうなるのか不安になったのです。
世の中は不景気でリストラの真っ盛り。資格も若さも無い人間を雇ってくれるお人好しの会社なんか何処にもありません。
私は両親が重荷になってきました。
働け働けと朝から晩まで繰り返す老人たちに、鈴の音の話をするのは時間の問題でした。
私の留守中に、二人は軒下に首を吊って仲良くぶら下がることになりました。警察が来て私を取り調べましたが、二人の死因は結局自殺ということで片付きました。
これで私を煩わせる者は誰もいなくなりました。
父も母も姉も、そして私のものにならなかった恋しい人も、全て消えたのです。囲う柵はなくなり、完全な自由を手にしたと私は思いました。
さて、これからどうしようか。私は考えました。
そうだ、家を売ろう。過去を一掃できるし、まとまった金額も手に入る。素敵なアパートを借りて好きな物を揃え、新しい場所で自由気ままに生きていこう。そのうち、いい人に巡りあえるかも知れないし。若くはないけれど、また恋だってできるだろう。まだ人生を諦めたわけじゃない。大丈夫、うまくいく。
夢は夢で終わりました。
家は売れませんでした。死者が四人も出た家です。迂闊にも気が付きませんでしたが、噂が噂を呼び、それを嗅ぎつけた下世話なサイトが、興味本位で私の家のことを面白可笑しく記事にしたのでした。
「呪われた家。ご近所からはそう呼ばれていると書かれてますよ」
私は不動産屋から聞かされました。不景気だし、こんなに噂が立っていては売れるわけありません、と。
“呪われた家”で、私は周囲の目を気にしながら、息を殺すように暮らさなければなりませんでした。
隣人達は怯えた視線を私の顔に走らせ、一言も話すこと無く足早に立ち去ります。
子供に至っては「おばけだあ」とあからさまに叫んで逃げていくのです。
ネットの記事を読んだ物好きが、私の家のまわりをうろうろしていることもありました。
私は極力家から出なくなりました。誰もがあの記事を知っているようで、人と接するのが怖くなったのです。
自由どころか、こそこそと逃げ隠れする生活が始まったのです。
私の話はこれでおしまいです。廃屋のようになった家で、私は今も一人で暮らしています。
罰が当たったとお思いでしょう?
そうですよね。私は人殺しという重い罪を何度となく重ねてきたのです。だって、話をしただけで皆ころりと勝手に死んでしまうんですよ。こんな楽しい事はありません。
異常者。殺人鬼。そう呼ばれても構いません。
その鬼のような私が今、古びた家に籠って人恋しくて啜り泣きしているとしたら、あなたはどう思うでしょうか。
いい気味ですよね。ええ、勿論同情なんていりません。私は自分の人間関係を、気に入らなくなった相手を殺すということで自ら断ち切ってきたのです。なんて恐ろしいことをしてきたのでしょう。
改心したとお思いですか?とんでもない。
ちりりん ちりりん
ああ、あの鈴の音の声真似を誰かに聞かせたい。話したくて気が狂いそうです。
しかし、もう駄目です。二度と私の周辺で死人を出すわけにはいきません。
またサイトに書き立てられたら?警察が来たら?
まわりの人々は私をそっとして置いてくれるでしょうか。
世間から隔絶された生活のなかで、日課といえば古びたテレビを見ることだけです。
貧乏な私はパソコンもスマートホンも持っていませんから。まるで昨今の独居老人みたいですが、テレビの騒々しさは孤独を和らげてくれるのに役立ちます。
今では何の気力もなく腑抜けのようになった私は、テレビの前にくたりと座り込み、移り変わる画面をぼんやり眺める日々を送っていたのです。
テレビに映っている、あなたを見るまでは。
歌、ドラマ、クイズ、バラエティー、コマーシャル。どのテレビチャンネルを回してもあなた、あなた、あなた。
白い肌。猫のような挑戦的な瞳。すっきりとした鼻筋に愛らしい唇。
その喋り方、その仕草、その服装を少しでも真似て自己満足に浸りたい小娘たちの羨望の眼差しに磨かれて光り輝くあなた。誰もが認めるトップアイドル。
そんなあなたが、ぞんざいな、それでいて洗練された独特の口調で「二、三日前のことなんだけど」と前置きしてあの話をするのを、私はただあんぐりと口を開けて聞いていました。
あなたは若者向けの主体性のない番組のなかで、ちりりんの話をしていましたね。素敵な笑顔で。番組を見ている誰もが、私も含めてあなたの異様な体験談に息を殺し、神の啓示を聞くが如く耳をそばだてていたことでしょう。
あなたの話を聞き終え、気が付くと、私はお腹が捩れて息が詰まってしまいそうな程笑い転げていました。
だって、あなたの話したちりりんの体験は私のそれと全く同じだったんですから。
笑って笑って、そして突然気が付いたんです。私ももうすぐ死ぬのだと。
その時初めて私は、あの鈴のちりりん、という音が何であるかを知ったのです。
言っておきますが、私は死ぬのなんかちっとも恐くありません。だってそうでしょう。伴侶も肉親も友人もお金さえなく、人生の折り返し地点にたった一人で立っている孤独な人間に、この先どんな未来があるというのですか。
片や、若く美しいあなたはアイドルで、今、その人気は天井知らず。私は並よりも格段に落ちる容姿の持ち主。誰からも綺麗だなんて言われたことがない。あなたはスター。私の、願望さえ持つことの出来なかった全ての憧れを、たったの二十三才で手中に収めている。
私のことを蔑ろにする人たちを恨んで、私が一対一で慎重に話したのに対して、視聴率の高いトーク番組で、あなたが、あなたの出演している番組を見ている人達に向かって、ちりりんの話をする。
ねえ、どれだけの人が、あなたのちりりん、ちりりんを耳にしたのかしら。
あなたはこの手紙を笑い飛ばすでしょう。それでもいい、私はあなたに感謝しているのです。
何故だか教えて上げましょう。私は、あなたよりは多くの人を殺していないという安心感を抱いて死ねるからです。
たぶんそれは、人生に恵まれなかった私をゲームの駒として使った、あの悪魔の鈴の音の、唯一の情けなのだと思います。
それから、あと一つ。あなたに聞きたいことがあるんです。
テレビモニターに映るあなたは、あなたの映像は、一体何処を見てちりりんの話をしていたのでしょう。
誰を?あなた自身? もしそうだとしたら?
「さっきの生放送、あれ、とっても良かったですよ」
突然の黒田の声に、理奈は弾かれたように手紙の上から顔を上げた。
胸の中では心臓が狂馬の如く飛び跳ねている。体中の筋肉がひどく強張り、指先が震えていた。顔もタレントとしてはあるまじき表情になっているに違いない。
幸い黒田は運転中の身なので、理奈の表情を注意深く観察することは出来ない。理奈は動揺しているのを気付かれないように低い声で、そう、とだけ答えた。
「スタジオにいる人達全員恐がっていましたからねえ。理奈さん演技力抜群だから」
黒田の、猫を撫でるような口調での白々しい誉め言葉が続く。
「普通に話しているのを聞いたら大して怖くないですよ、あれは。でも理奈さんの喋るの聞いてると、恐怖で背中がぞくぞくしたとディレクターが言っていました。私も、ぞくぞくしましたよ。理奈さん、ゆくゆくは女優を目指せますよ。うちの事務所も安泰ですな」
明らかに嫌味を含んだ賞賛が、理奈のなかの怒りを発火させた。
気に入らない。クビだ。制裁を受けさせてやるのだ。黒田と、あの中年女に。
「私が話したら、ああはいきませんよ」
嬉しそうに黒田が喋り続けた。いつもより饒舌になっている。
「誰も恐がりませんでしたからね」
「一体、何の話をしているの」
鋭く聞き返す理奈に、ああ、と溜息を吐いて黒田が言った。
「だから、“ちりりん”の話ですよ」
理奈の頭の中で黒田と中年女とこの不吉な手紙が、かちりと組合わさった。
共犯者。二人はぐるだったのだ。理奈は手紙を黒田の後頭部へ投げつけたが、シートに当たって自分の足元にばらばらと落ちた。
「ちりりん?それって、ディレクターが作った話じゃないの!あんたがシナリオを女に横流ししたんだ。それを元に、私の人気に嫉妬した中年女が気味の悪い手紙を書いた。二人で共謀して社長からだと言えば、あたしが必ず読むから。そういう事なのね、黒田。こんな手紙で私を恐がらせて、二人とも満足ってわけ?無意味な嫌がらせね。理解出来ないわ。但し、確実に分かることがある。それを言って上げる。あんたたち二人は即刻クビよ。覚悟しなさい」
「私がディレクターに話したんですよ」
黒田がぼそりと呟いた。
「ちりりんって言うところが、彼に大受けしましてね。面白いからあなたのコーナーで使おうと。急に決まったから、シナリオ、手書きだったでしょう?」
黒田は力のない声で笑った。
「それに、あなたに言われなくても、今週末に私はマネージャーを降ろされるんです。社長がもっと若いの連れてきましたから。その男は私より有能だそうですよ。ハンサムだしね。だから私はもういらない。そうです、クビです。捨てられるんです。」
黒田はまた深々と溜息を吐いた。
「私ね、何もかも失って、死のうとしたことがあるんですよ。だけど、縁あって社長に拾われたとき、やっとまっとうに生きられると思ったんです。だから一生懸命に働きました。私、マネージャーに向いていないことくらい自分で分かってます。でも一生懸命頑張ったんだ。人生やり直そうとね。あんたみたいな小娘に命令されたって、にこにこ笑って、はい、はいって、返事して。おっと失礼」
「私にこんな手紙を読ませるのが、社長への復讐になるのかしらね。馬鹿馬鹿しいにも程があるわ」
理奈は座席の後ろから黒田を殴りたい衝動に駆られた。黒田が運転していなければ彼の頭に握り拳を叩きつけていただろう。
「私に手紙を渡したあの女は誰なの。ああ、分かった。恋人なのね?あなたにお似合いの、醜くて陰気そうな女だったわ」
黒田はまた笑った。今度は獣が吠えているような、大きな声だった。
「嫌だなあ。あんな女、私の趣味じゃない。あれはテレビ局に出入りしている掃除婦さん。理奈さんに渡してもらうために、結構な額のお小遣いをあげたんです。必ず渡してね、って」
「じゃあ」
「だから言ったでしょう、私は理奈さんみたいに上手くは喋れないと。あれは私の体験談。今日に至るまでの我が人生の告白です。もっとも、あなたに面白く読んでもらう為に創作も混じっていますが」
「あんな話、どの部分が作り話だって言うのよ!」
高飛車に言ったつもりだが、語尾が震えた。黒田はそれに気が付いたように、ゆったりと笑った。
「創作したのは一番最後の部分だと言ってもらいたいようだな。残念だけどね、あれもこれから本当のことになるんだよ。理奈さん、あんたがちりりんを話しているときの視聴率分、人が死ぬんだ。私も含めてね」
歌うように黒田は言った。今まで理奈が見たこともないほど黒田は上機嫌だった。
「気持ちいいねえ。本当に気持ちいい。一人で死ぬのは辛いけど、大勢の人間を引き連れて行くんだから、私は寂しくないですよ。あんたの人気に感謝しなくちゃならないね。ねえ、理奈さん。あんたとご一緒出来るなんて光栄ですよ。殺人者同士、一緒に死にましょうや」
だって、まさか、あんな事が本当にあるわけないじゃない。
そう言おうとして理奈は口を開いたが、言葉は出てこなかった。
呼吸だけが激しくなる。黒田は三回目の溜息を吐いた。
「どうしてでしょうね。嫌いな人間を殺しても、殺しても、幸せにはなれない。私はもう疲れました」
突然、炸裂音がした。それと同時に、がりがりとコンクリートを削るような音も聞こえてきた。
対向車線で事故が起きたらしい。
車の窓から覗くと、大型の輸送トラックに接触したタンクローリー車が横転して、巻き添えになった哀れな乗用車を紙コップのように押しつぶしながら、理奈たちの車の方へ滑って来るのが見えた。
金属板が道路に激しく擦り付けられ、火花が散る。理奈は悲鳴を上げながら車のドアを開けようとした。その途端、後ろの車に追突され、激しく前の座席に頭をぶつけた。それでも理奈はドアを開けようと必死でもがいた。だが開かない。
「助けて!」
どんなに悲鳴を上げても誰の耳にも届かない。黒田はハンドルの上に組んだ腕を置いて前方を向いたまま、微動だにしなかった。
「私ね、本当に好きだった人がいるんです」
死が迫っている状況の中で黒田が寂しそうに呟いた。理奈は思わず黒田を見た。
黒田は運転席から理奈の方へと捻るように首を回し、理奈をじいっと見つめた。
あたしに好きだと言って死ぬつもりらしい。理奈はそう直感した。
ならば自分に愛の告白をすることで、人生の最期を飾ろうとしている中年男の行為をあざ笑ってやろ
う。
それが理奈に残された唯一のプライドだと思った。
黒田の瞳が理奈の瞳を捕らえる。黒田の瞳の奥に何かが蠢くのを理奈は見つけた。
目を凝らして見ると、銀色の光が丸く転がる。嬉しげに身を震わせ、踊っている黒田の何か。長い時間、故意に押さえ込まれ決して表に出てくることはなく、今、初めて解放された黒田の何かが。
(鈴だ)
理奈のドアを開けようとする手の動きが止まった。
車のドアがぐしゃぐしゃになって理奈に押し寄せて来た。ガラスが粉々に砕け散る。窓枠に貼り付いた、トレーラーの荷台の分厚い鉄板。世界の全てが車の潰れる音に飲み込まれて真っ暗になる。
静寂が訪れ、そしてそれが永遠となる前に、理奈の耳に黒田の声が軽やかに響いたのだった。
最後の告白。
「私が殺した、前の会社の同僚ですよ」
終