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天津方舟  作者: 古根 葵
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晩夏

 橙色みががった斜陽が、木々の陰影を深く際立たせている。

 石段を丁寧に掃き進めながら、眼下の町並みを見下ろした。並び立つ瓦屋根に、縦横に伸びる通りに行き交う人々の姿ももう疎らで、小指ほどに小さく見える彼らの足元の影法師は、既にだいぶ長く伸びている。

 向かいの山々の稜線に太陽が隠れていくにつれ、往来に吊るされた提灯には徐々に明かりが灯り始めている。薄暗くなっていく手前の側から地平に向かい順々に、橙色の点がぽつぽつと広がっていくさまを、私は箒を持つ手を止めてぼんやりと眺める。もう幾許もしないうち、町が夜の帳に包まれる頃には、往来はやわらかく橙色に照らし出されているだろう。

 沈み行く夕日を見ていると、いつも何か複雑な感懐が胸のうちに湧き上がる。

 一日の終わり、楽しいひとときの終わり、ただ長く苦しかった人生の終わり。それがいつからのことだかはもう覚えていないものの、夕日はどこか何かの終わりを思わせる。遠い昔の記憶は既におぼろげで、その正体が何だったのかももう確かめようはない。

 ひときわ強い風が木々を揺らし、折角掃き進めた枯葉と砂埃を散り散りにする。巻き上がる砂塵に目を眇めながら、掃除を続けるのもなんだか億劫に感じて、私は箒を携えたまま手持ち無沙汰に石段にたたずんだ。


 ――ふと視界が闇に覆われる。

「だーれだ、ニャン!」

 陽気な声と共に、目の周りにはふわふわした感触。

「銀目ちゃん……」

 私がそう答えると、また唐突に視界が晴れて、「正解ニャー」声と共に背後から首元に腕が回された。先ほど目を覆っていたふわふわは、おそらく彼女の尻尾だろう。見ようによっては青みがかっても見える漆黒の毛並み――銀目、という名前の割に、彼女は黒髪黒毛で、黒尻尾の黒猫娘だ。

 彼女は背後から私の首元に腕を回したそのままの姿勢で、「エンタン、明日暇、ニャン?」と言葉を続ける。

「明日?」

 私がそう訊ね返すと、銀目は腕を戻してわざわざ正面まで回りこみ、「もしかして知らないニャ?」と怪訝にこちらの顔を覗き込んだ。表情は逆光で判然としないけれど、猫のような銀色の瞳だけがきらきらと明るく光っている。




 目の前を、ひらりと黄金色の煌きが横切った。


「――明日は花火大会ニャー」

 嬉しそうな声音の言葉は耳を上滑りして、私はそれが去って行く方に思わず視線を送っていた。こちらを覗き込んでいた彼女もつられてそちらを見やり、ああー、と得心したような声をあげる。

 夕日に向かって中空を泳ぎ進んでいく小さな金魚。気まぐれに鰭をひらめかせるたびに、その鱗が黄金色の陽光を照り返して輝いている。

 銀目が大きく手を振ったけれど、金魚はこちらを振り返ることもなく、ただ緩い曲線を描きながら、まだわずかに明るい地平を目指してだんだんと小さくなっていく。

 ――もうそろそろ夏が終わる。

 ふと再び風が立って、ざわざわと木々の梢を揺らし音を立てると、どこともなく、眼下に二、三の金魚が立ち現われる。それらも同じように夕日に向かって黄金色をきらめかせながら泳いで行き、銀目も私も、なんとなくただ黙ってその終始を見送っていた。


「戻ろー」

 しばらく経って、太陽が遠く、向かいの山々の稜線に完全に隠れてしまうと、辺りは随分暗くなって、空だけが僅かに深青色の光を残していた。銀目はこちらを振り返る。辺りの暗さからその表情は相変わらず伺えないけれど、銀色に輝く目元と、戻ろう、と告げるその声音から、口元をほころばせていることはぼんやり伝わってくる。

「うん」

 私がそう応えると、ふふっ、とわずかに笑い声を漏らし、銀目は私の手を取った。


 下駄が石段を叩く二人分の足音。木々が緩くざわめく夏の夜の静寂のなかに、その足音だけがからころと染み込んでいく。

 ふと思い出したように、どこかで蜩が細く鳴き声を立てる。

 しばらくの後にその音色が響ききると、やがて辺りは徐々に夜の闇に覆われ、空も木々も私たちの輪郭も宵闇に混ざり込んでおぼろげに見えなくなる。


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