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ねぇ、神さま

作者: 區樣サラ

短編にしては長いのか短いのかわかりませんが、約三万文字です。

転換が早いかもしれませんがそんなの知ったもんですかい。



 


 時折考えることがある。


 僕なんていなくなってしまったほうがいいのではないかって。

 本当は神さまなんかがいて、僕なんかのちっぽけな存在を消してしまえるんじゃないかって。

 むしろ消えてしまえば色々なしがらみから解放されるんじゃないかと考えたりもした。

 神さまは全能であるから、そんなことも簡単だろう、と傲慢な考えだって耐えない。

 だって、人間は必ず死という最期で飾られるものだから。

 特別じゃない死だってして見たいと思いたいじゃないか。


 そして異世界で華々しくデビュー、というのも男の性というものだろう。








 そうして彼は初めて死というものに直面した。



 ーーーーーえっ……………



 最後に漏れる声はたったそれだけだった。

 これまでの彼の最後であった。


 横断歩道の中央に立つ彼の横からトラックが現れ、その様子に誰もが目を丸くして見ていた。

 ただ1人の勇敢な、彼と同じ年の、彼と同じ制服の、彼と共に歩むと決めた親友を除いて。

 彼がただ一つの息を漏らす間に、彼の親友はまるで当たり前かのように彼を背から押した。

 彼を押した親友と暴走しているトラック以外が止まっているような空間で、彼はその意思に逆らうように首を後ろにひねる。


 親友は当たり前だろ?というような表情と、少し小悪魔的な表情を見せ、その止まった空間で確かに動いた彼の口は


 ーーーーーばぁか


 たった一つの嫌味だった。


 彼は親友の声を聞いたわけではなかった。聞こえるわけもなかった。

 ただし、彼の頭には確実に届く。

 いつも言い合っているものだった。

 なのにこれまで一度も見せてこなかった、悲哀と後悔と精一杯の空元気があった。


 彼の頭には一度も弱音を吐くこともなかった親友の顔が浮かぶ。

 そして、最後の親友の瞳に映った自分の顔がとても見られるものじゃないのも忘れられなかった。

 そんな親友のはじめての言葉を聞くこともなく、その場は加速していく。


 トラックはブレーキをかけることもなく、ただ全速で何もそこにないかのように走り去っていく。

 その面に赤く、彼の思う色を乗せて。

 ただこの場に静寂の時を与え、去った。



 そんな彼はまたも息を漏らす。

 現状を理解するのは容易い。人1人が轢かれている。ただそれだけのことだ。

 しかし納得は出来ない。

 そこに転がる赤い色を地に侍らせ、同じ制服を着た男に見覚えがあるからだ。

 うつ伏せになった赤い色を纏う男の顔は伺えない。

 だとしても、見覚えがあった。

 何にせよ、それは彼の親友なのだから。



 そして救急車のサイレンが辺りを包む。

 彼の未だ唖然とする器官にそれが入り込んでいく。

 そして彼は思う。


 あぁ、そうか。と。








 それから彼は思い出す。

 彼はその幸せな日々がずっと続くのだと心から信じていた頃、別段それが異質だとは気づいてはいなかった。

 なぜなら"それ"は明らかに自然であったからだ。

 初めは、そう。道端の小石で転びそうになるところだろうか。

 その次は、道沿いに並ぶマンションから花瓶が落ちてくる事だったか。

 そんな些細なことが彼の思考を苛む。

 これまでなんらへんなことではないと思ってきたことが、彼の中で一つ一つが意味を持ち始めたのだ。


 殺す。

 という感情がその一つ一つに入り込んでいるようなそんな意思を持っていると感じ始めていた。


 ただ、それはまだ彼の中で疑心暗鬼の範疇でしかなかった。

 そう、まだだ。




 そんな疑心暗鬼が唸る中、彼は親友の葬式に参列した。

 参列した人の中には親友の死に涙するものがおり、その人たちが一様にその成り行きについては知っている。

 ただし、その人らは彼に何もいうことはなかった。

 親友は名誉ある死としてその人らに刻み付けられ、彼が原因なんだ、と言って責めるものなんていない。

 もちろんこれは事故なのだから彼を責めるのもお門違いというものだ。


 だが彼は自分を戒めてほしかった。

 彼自身もわかってはいるのだ。

 しかし彼はそれでも、許されてしまった自分が不甲斐なかった。

 死というものに直面して何も出来なかったのが悔しかった。


 そんなとめどない感情がその場で崩れ落ちるように涙として溢れ、彼は膝をつく。

 顔を地面に向け、はじめて涙していることに気づき、音にならない気持ちが全身から生まれてくる。

 すでに親友の葬式は終わり、他に残っている人も誰もいない。

 その場が彼にとって何もかもを受け止めてくれるようで、ただただ涙した。



 ただし、彼は彼自身の中で異変を感じ始めていた。

 それは葬式に行った次の日だっただろうか。

 彼自身の中で何が異変なのかはわからないが、なにかが自分から抜け落ちているようなそんな異変だった。


 そんな異変は刻一刻と彼を蝕んでいった。

 ほんの数十分もしない間にその異質なものは肥大化していく。

 自分の中で蠢く何かに体を侵されていく感覚が、彼の肢体を満足に動かすことを許さない。


 自分の部屋でのたうち回り、後にベッドから転がり落ちる。

 彼はそこで精一杯に顔を持ち上げ、正面に立てかけられた鏡に自分の顔が写り込んだ。


 そこには口角を上げ、不気味な笑みを浮かべた彼の口元と、片目から流す血の涙とも言える苦痛を交えた涙が写し出されていた。

 そんな顔を見て、彼は小さな笑いを心で浮かべる。


 ーーーーーそうか、これは………


 記憶だった。

 彼の涙として流れていくものは親友と過ごした日々、想い、記憶。

 それらが彼にとって血の涙として写り込んでいた。

 彼の中でのたうちまわるそれは、彼から大事なものを奪う異質なものとして現れたのだ。

 その異変に気付いた頃にはもう遅かった。



 静かになった部屋では、下から彼の母親の階段をかけるようにしながら進む音が聞こえてくる。


 扉を開いてやってきた彼の母親は不安げな表情を浮かべ、大丈夫?と聞いていた。

 彼はすでに目覚めており、大丈夫だよ、と答えるだけで、さっきの異変がなかったかのようにそこに佇んでいた。


 彼はすでに変わってしまっていた。







 ーーーーーーーーーー







 時にして夕刻。

 沈みかけの太陽が茜色に空を染めている。

 雲は幻想的な形を模し、秋の暖かさを感じさせる風を運んでいる。


「あ、あの………。篠崎、さん?」

「ん?あぁ、君が」

「は、はい」


 温かい風が運んできたのは背後から現れるとある女性の声だった。


「わ、私、………篠崎さんに言いたいことが、あって………」

「………なにか?」

「あ、ありがとうございました」


 その声が彼の耳に入ったところで、彼女はその長い黒髪を地につけるような位置まで頭を下げていた。

 彼にとってそのような謂れはなかった。

 彼は彼自身が理解しているように、他者に対しての救いなど基本的にないはずだから、それは揺るがないものであった。


「そんな謂れはないと思うんだが……」

「そんなことありません!」


 すると彼女の頭は長い髪を揺らしながら元に戻る。


「私の、おばあちゃんを助けてくれたのは……篠崎さんって聞きました。あなた、なんですよね?」

「人違いじゃないか?」

「いえ。ここの制服で高身長ですらりと伸びた真っ黒の髪。そしてこれ」


 彼女の手には一昨日彼が慌てて落としてしまっていた生徒手帳であった。

 その手に持つものを見て彼は頭を掻く。


「そうか、そこに落としてたか」

「やっぱりあなただったんですね」

「あぁ、それは俺のだ。ただ、誰かを助けたなんて覚えは、ない」

「………あなたに、その覚えがなくてもあの場所にいたおばあちゃんが無傷だったのはあなたのおかげです」



 彼はその言葉で思い出していた。


 一昨日の夕方、今日と同じような空をしていながらその空気は息が凍るほどに冷たかった。

 そんな時の一瞬、彼の脳裏に戦慄が走ったかと思うと、少し先に飲酒運転かと思われる暴走した車と腰に手を回し、杖をつく老婆がそこにいた。

 その車が右にハンドルを切ったのか、その車体は左に向き始め、その先には正面がガラス張りの建物があり、このままでは追突する勢いだった。


 ーーーーーここからでは間に合わない…


 そんなことを思いながらもすでに彼の体は動いていた。



 彼はこんな状態に巻き込まれるのは少なくない。

 まるで何かの陰謀が隠れているかのように、死というものが彼の身には近い。

 言ってしまえば、彼は死と隣り合わせであるようなそんな存在であるのだ。

 故にこれまで幾らかの交通事故に巻き込まれそうになって来た。

 人1人が短い期間で危険に向かう数としては異常であった。

 なんせそれらはまるで、彼を死に迎える為のようなもので、死ぬのが同然の出来事であったから。

 それをたった一人の身で避けて来た。

 それが明らかに異常であるのは彼とてわかっていることだった。


 そして彼はそれほどの現象が偶然だと思うには少し歳をとりすぎていた。

 なにかが介入していると考えるのに値する価値がそこにあるのだから。


 だから彼は抗う。

 彼が覚えていない何かに生かされるように、また、殺されそうになっているように、彼は運命に抗う。



 そして、動いた彼の体は真っ先に老婆の前へと向かって行った。

 別段速くない彼の足がよく回り、車は建物にぶつかった。

 ガラスは割れて霧散するように破片となり飛び散る。

 一際大きな破片が老婆の前に飛んで行き、彼の横から現れるようにして出てきたのもガラスの破片だ。


 その時、なぜか彼は彼の知らない誰かの顔が、悲しい笑顔が、脳裏を過った。


 ーーーーーそうか


 そんな情景を鼻で笑って、彼は手に持つ学生鞄を老婆と破片の間に投げ込んだ。

 そして彼に向かう破片は一瞬の加速でかわし、難を逃れた。



「改めて、言わせてください。ありがとうございました」


 彼女の深々と下がった頭を片手に彼は下手な笑いを見せ、言った。


「そうか。でも、俺はそんなことを言われるような輩じゃない。まぁ生徒手帳はありがたくもらうけどね」



 彼にとってもこれはただの気まぐれだったのかもしれない。

 あの老婆を助けてしまったのも、彼女の誘いに乗ってしまったことも。

 それもこれも秋の空が美しいのがいけないのだと、彼は空を見上げながら傷ついた学生鞄を片手に思っていた。





 ーーーーーーーーーー





「はぁ」


 彼は大きなため息をつく。

 教室の隅に席のある彼にとって、その場所は安住の地であった。


「どうしました?」


 席を跨ぎ対面しているのは、いつぞやの気まぐれで出会った彼女だ。


「わからないか?」

「えぇ、微塵も」

「……なら少し俺は花を摘んでくるよ」

「手にお弁当を持ってですか?」

「そういうのは言わないお約束じゃないか」

「そんな約束してませんよ」


 椅子を引き彼は立ち上がると同時に、向かいに座った彼女も立ち上がった。


「付いてくるのか?」

「まさか。私もお花を摘みに行くんですよ」

「手に弁当を持ってか?」

「えぇもちろん」


 そして彼はまた大きなため息を見せて教室を出て行く。

 彼はその教室の異様な雰囲気が彼女によって醸し出されているのを知り、ため息をつかざるを得ないのだ。

 こんな時ばかり気まぐれを恨んだ。


 これまでの彼は良くも悪くも寡黙であり、そんな彼に関わろうと思う者もいなかった。

 彼もそれを貫いていた。

 自分の身に降りかかるものを察してからは尚、それを意識している。

 ただし、それはもとより彼への関心というのがないという前提があったからだ。

 彼女にとっては、あの出来事があるだけでその関心を持つに値するのに十分であった。

 だからこそ、そんな彼についている彼女の様子と、彼の多弁とは言わずとも会話を交わしている様子とが相まって、クラスメイトの一部は異様な雰囲気を醸し出しているのだ。


 しかし、だからといって興味がないものに対してそんなことはしないだろう。

 彼女というのが、義理堅い難攻不落の皇女と影で呼ばれている変わり者であったから、そこまでに視線が痛かったのだ。


「ところで、またあそこにいくのですか?」

「ん?あぁ、できればついてきてほしくないのだが」

「答えはノーです」


 彼はそうして誰もいない俗に言う穴場という場所に足を向けた。

 彼にとって安住の地がある限りここに通う必要もなかったのだが、彼女が現れてからは頻繁に通うようになっていた。

 そして最初は彼女を欺くのもたやすく、鉢合わせをする前にこの地について過ごすことができていたのだが、人はいかんせん学習する生物らしく、すぐにクラスから出て行くところをマークされて以来この場に現れるようになった。


 もちろんそうする理由を察せないほどの鈍感ではない彼であったが、いくら拒否してもついてくる強情な性格の彼女にどうしても対応が難しいところだった。



「あの、篠崎さんのお弁当って毎回美味しそうですよね」

「あぁ、見た目通りの美味しさだ」

「嫌味ですか」

「お前から話を振ってきたんだろうが」


 すると、さっきまで狭しなく蠢いていた彼女の箸がピタリと止まる。


「……お前じゃなくて、結衣です」


 そして、彼も忙しなく動いていた箸がピタリと止まる。


「そういえば、今日は天気がいいな」

「……結衣です」

「雲一つない…」

「…結衣」

「快晴だ」

「結衣です」


 彼女の反復される言葉は彼の痺れを切らしてしまった。


「あ〜分かったから、桐谷さん」

「結衣です」

「はいはい」


 壊れたテープレコーダーのように「結衣です」という言葉を繰り返す彼女を傍らに置いて、そそくさと弁当を平らげその場を去った。

 あとは適当なところで結衣と呼んであげれば万事解決なのだが、そろそろこういうことは避けてもらいたい。


 これまで学校内では接触されても仕方がないと済ませられているが、校外に出たらそうは済まされない。

 彼に襲いかかる現象は基本的に一人でいる時や、道路や道のあるところでやってくる。

 そこには何かの計らいなのか、多数の人を巻き込むような現象は起こっていない。

 彼を狙う神様か何かは、案外彼以外に対しては博愛主義なのかもしれないと思う彼である。

 しかし彼女の祖母の件もあり、巻き込まれる可能性がゼロというわけではないのだ。

 彼の周りにいればそれだけ危険ということもできる。

 学校やら、周りに不特定多数の人がいる場合はその限りではないが、彼が危険であることには変わらない。


 だからこそ彼は、下校の時間には最大限の注意を払っているのだ。





「そこで何をしている?」


 そしてその警戒に引っかかる気配を感じ、それとまた小さな足音が聞こえところで、声をかけると向かい側の靴箱の方から音が聞こえた。


「よく気づくものですね」

「まぁな」

「……もう、帰られるのですか?」


 その悲しみを帯びたような声色が聞こえたと思うと、彼と対面している靴箱が振動し、ゴツンという音が聞こえてきた。


「……私には何も教えてくれないのですね」

「教えるも何も、そんな内容はあいにく持ち合わせていない」

「……嘘ですね。だって、そんなにも悲しそうじゃないですか。人が嫌いだとか言いながら、他の人を見る目はどこか羨望の眼差しじゃないですか」

「いいや…………人は嫌いだ」


 彼にとって、彼が彼自身にかける一つの制約のようなものだ。

 彼は別に人が嫌いなわけではない。

 そう思わなければ彼自身が今後どんなことをしでかすかわからないから、だからそう言い訳をして人と関わってこなかった。


「嘘、ですね。人が嫌いだから、人と関わろうとしない。わからないでもないです。でも、本当にそうですか?人が嫌いだから?関わってこなかった人と、私とこんなにも話してるじゃないですか」

「別に。お前がしつこいだけだろ」

「それなら無視すればいい」

「そうしたらお前は引き下がってくれたか?」

「………いえ、でもそれなら最低限の会話でもいいはずでしょう」


 その言葉は最もであった。

 彼にとって、久しい会話というものが思いのほか楽しかったのである。

 よって彼はその場で沈黙するだけだった。


「篠崎さんは、別に人が嫌いなわけではないんでしょう?なら、なぜそんなに無理をしているんですか」

「………そんなの教える義理はないだろう」

「私のおばあちゃんを助けてくれました。だから、私が篠崎さんの力になりたいんです」

「……それについてはもうお礼してもらった。それで十分だ。だからお前の言うそれは、ただの恩着せがましいだけのお節介な行為だ」

「それでも、いいじゃないですか。私が、あなたを助けたいんです」

「………そんなに、俺は救われなきゃならないような存在に見えるか?」


 彼は思っていた。

 いっそのこと全部包み隠さず言ってしまえば、どれだけ救われることかと。


「えぇ。だって篠崎さんの目って案外綺麗なんですよ。自分では分かってないかもしれませんが、黒に見えて実際はグレーっぽいんです。そんな綺麗な目が、時々ハイライトがなくなったみたいな冷たい目になるんです。まるで現実から目を背けるような、自分を戒めているような、そんな目に見えてくるんです。向かい合っていればわかります、時々見せるすごく下手な笑顔とか、よく見せる手グセとか、全部が全部何かに怯えているようです」

「…………もう、いい」

「それに、本を読んでいる時の篠崎さんなんて不気味な笑顔を浮かべたり、目が潤い出したりするんです。案外感受性豊かなんですよ」

「もういい!お前がなんと言おうが俺は人が嫌いで関わりたくなくて、寡黙で不気味な野郎でしかない。お前に救われる筋合いなんてない」


 彼はいつのまにかその声を荒げた。

 彼女と出会ってまだ一ヶ月も立っていないと言うのに、彼はその心を左右されてしまうほどに動揺してしまっていた。


「私が理由もなく救おうとするのは不安ですか。信用できないですか」


 そして彼女はコツコツと足音を鳴らしながら靴箱を周り、彼の横に立つ。

 当の彼は彼女に目を向けられない。


 ただし、そんな彼の横に立った彼女は、少し背伸びして彼の顔を手で振り向かせた。

 彼はその強引な引きに気を取られ目を丸くして、彼女の瞳を見つめる。

 思えば彼はいつから人の目を見てこなかったのだろうか。

 いつから彼は目を背けるようになったのだろうか。

 彼はそんなことを思いながら彼女の瞳を見つめた。

 その目は美しく、綺麗であった。



「私はあなたが好き。それじゃダメですか?」



 そして彼女は微笑んだ。

 これまでどこか霞んでいた視界が晴れたかのような、そんな気分に彼はかられていた。

 その微笑みが彼の全てを受け止めてくれるようで、何もかもを吐き出してしまいたくなった。


 

 でも、だからこそ彼は二度と同じ過ちを起こしてはいけないと腹にくくった。

 話してしまえば、彼は自分への甘えが生まれるのだと感覚的に感じていた。


「………ちょっと、足りないかもな」


 それを聞いた彼女は目を見開き驚きを露わにしていた。

 その表情は振られただとか、そう言うことを指しているわけではない。

 そう言った彼の顔が、彼女にとって初めて見るものであったからだ。


「これは、重症ですね」


 その言葉はとても力強くて、さっきよりも笑顔だった。

 彼はそんな顔を忘れることはないだろうと、頬を掻きながら思っていた。







 ーーーーーーーーーー








 あれから二ヶ月ほどの時が経っていた。


 そこで彼は変化を感じ始めていた。

 この二ヶ月間の間、異常な現象が全くと言っていいほど襲ってこなかったのである。

 これまで些細なことにも注意し、警戒し暮らしてきた彼だからこそ、こんな状態が異常であることを感じ取っていた。

 まさに、普通の日々、と言うものが続いてきたのだ。


 その具体的な始まりは今でもはっきり覚えている、彼女との一悶着があったあたりだ。

 彼にとって、その出来事が彼を変えるのにゆうに事足りていたのだ。


 彼に初めてと言える甘えが生まれた。

 彼自身に課した制約が折れる音が聞こえた。


 だからその甘えを知った上で、それを守るべく何も言うことができなかったのだ。

 だから彼はこんなにも平和な日常を体感し、あれは自分の夢だったのではないか、もう襲ってくるのではないのではないか。

 そう考えるのに容易くない、時間があったのだ。

 その時間が彼の精神力を削ぎ、楽観的な考えに誘導していく。

 それは彼にとって前よりも苦痛な日々だったのかもしれない。

 いつまた襲われるかわからない恐怖が毎日つきまとっているのだから。



「はぁ、はぁ、はぁ」


 そんなある日、ついに彼は熱を出した。

 体が熱く、息が荒い。

 体温が40度はあるんじゃないかと思えるほどに暑かった。


「強がりな篠崎さんでも、病気には勝てないんですね」


 そんなことを言いながらベッドの横で看病してくれているのは、言わずとも知れた彼女だ。


「あぁ、そうだ、な。こんな状態じゃ、心が滅入っちまう」

「そうですか。なら、そろそろ話してくれてもいいんじゃないですか?」

「また、それか…。俺は病人だぞ?」

「だからですよ。これまで溜め込んできたから熱なんかにかかったんでしょう?」

「俺も、人間だ。風邪ぐらい、ひく」


 彼はそうして首を傾けると額に乗ったタオルが落ち、それを彼女が拾い、水で洗ってからまた額に乗せた。


「人間、ですか。篠崎さん、知ってます?最近あなたって血眼な目で登校して帰っていくんです。その反面、体は衰弱したように細くて、顔なんか頬がやつれてましたよ」

「そう、だったか?」

「えぇ」


 彼女は少し悲痛そうな笑みでそう言った。

 たしかに彼は最近手につく食事すらもまともに食べられないでいた。

 彼の警戒心が一周回って、悲観的な方向に向けられたから、どんなものも自分を殺すためのものなんじゃないかって思っていたのだ。

 それでも、なんとか人には当たってこなかった。

 人は隠すのに長けている。

 だから疑ったが、彼は彼女の存在でそんなことにならずに済んでいた。


 いつのまにか、彼にとって彼女はいなければいけない存在になっていたのだ。


「なんで………泣いてるんですか」


 彼女はそう呟いた。

 驚いたような顔と声色でそう呟いた。

 彼はそうしてその声を聞いて、初めて自分が涙しているのを自覚した。

 仰向けになっているからか涙は左右に流れ、瞳に溜まった涙が天井の蛍光灯をボヤけさせていた。


「あれ……なんで…」


 彼自身もなぜ泣いたのかなんてわからなかった。

 ここで泣くのは最もやってはいけないことなのに、そんな理性をかいくぐってきて、涙を止めるすべが見つからない。

 そういえばこれが彼にとって初めての涙だった。


 ーーーーー初めて……?


 初めての涙……いや、違う。

 俺はもっともっと泣いていた。泣き喚いていた。

 あれはもっと前、いつだ、どこでだ。


 ーーーーーわからない、わからない


 なぜだ。

 こんなにも思い出しているのに、思い出せない。

 涙が流れて俺は、俺はなぜ………。

 なぜこんなにも、辛い。



 そして、いつのまにか彼は抱きしめられていた。

 隣にいた彼女が、彼の涙と、そこから漏れるとめどない感情を感じ取ったから、強く彼を抱きしめた。


「桐……たに……」

「結衣です」

「結衣……」


 彼は抱きしめられていると分かった時には、いつからか強張っていた体の力が抜けていた。

 手を回され、彼の頭の横に来る彼女の顔は、彼女の告白を彼に連想させた。

 いつまでも艶やかで綺麗な髪が彼女からは伸び、彼女から伝えられたのは温かさであった。


「結衣、温かい」

「そうですか。それは、良かったです」


 彼は手を回そうとしたが、あいにく彼の手は彼女によって抑えられている布団の中にあるため、ただこうやって眺めているだけだった。


 そして数分して彼女は回した手をほどき、彼の目の前に顔を見合わせる。


「そろそろ、教えてくれてもいいんじゃないですか?」


 その声はさっきとは違う、柔らかくて相手に配慮した声だった。

 それこそ彼ごと包み込んでしまいそうなほどに。


「結衣には、敵わないな」

「最高の褒め言葉です」


 そう言い彼女は体勢を戻し、元の位置に戻り、彼も額のタオルを手で押さえながらベッドに座り込む。

 彼女は真剣な表情で、なんといっても受け止めてくれるようなそんな雰囲気も醸し出していた。


 それと同時に彼は慎重に話していった。

 それでも彼は警戒を緩めなかった。

 初めて自分のことを伝えることが、この現象を働かせる何者かにとって禁忌であるのなら、何か手を打って来ると思ったからだ。


 でも、そんなことなど彼の一割も占めていなかった。

 彼はこれからどんなことがあろうと彼女を守り続けなければならない、使命を追ったのだ。

 これからどうなるかはわからないが、彼にとってこれを伝えると言うことはそう言う意味を持つ。

 そして、彼は覚悟を決めた。



「ふふふふふ」


 あらかた言い終えると、彼女は手で口元を押さえながら、小さな声で笑っていた。

 それもツボにはまったかのように。


「し、篠崎さんって、神さまに嫌われてるんですね」


 その笑い声が混じったまま、ひねり出すかのように声を出した。


「なっ、今のを聞いて初めて言うことがそれかよ」

「だ、だって、そんなこと、神さまにしかで、できないじゃないですか」


 彼女のツボはなかなかユニークなようで、まだまだ笑い声が収まる気配がしない。


 

「はぁ、今更だが俺が嘘を言ってるとは、思わないのか?」

「えっ、女子にあんな泣き顔まで見せて私に甘えてきたかっこ悪い篠崎さんが、今更嘘なんてついてたんですか?」


 まるで大根役者ばりの某台詞を読むかのように言ったその台詞に苦笑した。


「ごもっとも」


 そして彼女もツボに入った笑いではなく、普通に笑って見せた。



「と、言うことはですよ」


 いきなり彼女はさっきの話に戻すようにして話を切り出した。


「『俺のそばにいたいなら、俺に守られろ』ってことですよね?プロポーズですか?」

「なぜそうなる…。そもそも俺のそばに置かせるつもりなんてない」

「また照れちゃって。心配しなくていいですよ。これでも私、文武両道で通ってますから。守られるほどヤワじゃないつもりです」


 彼女は右の袖をくくり、力瘤を作って見せた。

 そんな力瘤も結局は女子の細い腕から出ているもので、可愛らしいものだった。


「それでもだ。俺の言っている現象はいつ、どこで起きるかなんてわからない。だからもう、失いたくないんだ」

「もう?」


 彼はいつのまにか弱気になっていた。

 だから自分が守ってやれるわけがないと、また同じことが起こるのだと。


 ただし、彼女を含め彼もまた自分の言ったことに疑問を持った。


「すでに誰か……失っているんですか……?」


 彼女は答えたくなければ答えなくていいと、のちに付け加えてくれた。

 しかし、彼にとってその現象で被害を与えることはなかったはずだ。

 少なくとも彼が覚えている範囲で失った人物などいないはずだった。


「いや、そんなはずは……、あれ?俺は誰か……」


 ーーーーーあれは、誰だ


 俺の記憶の中で目まぐるしく回る何者かが存在を強調するかのように、なにかがフラッシュバックするように、しかしなにも思い出せない。


「誰か、誰かいたはずなのに、思い出せない」

「大丈夫です。私はいなくなったりしません。あなたのそばにずっといます」

「でも、それじゃ………」

「怖いですか?」


 彼はまた無言になる。

 なにも言うことができない。


「私だって怖いんですよ。だって私が呑気に暮らしている間に篠崎さんは死ぬ思いをして生きてきたんです。それを察してあげられなかった自分が憎い。だから、こうしましょう」


 すると、彼女は右手の人差し指を立て、提案するかのように投げかけた。


「私はずっとあなたのそばにいます」

「で、でも……」

「話は最後まで聞きましょう?私はあなたに守ってもらう、そして他のことは私が守ってあげます。命を守ってもらう代わりと言っては足りないですけど、私って案外万能なんです。だから、私を頼ってください」


 彼女は自分が憎いと言った。

 彼もできるのなら平和な日常というのを望んでいた。

 いつからか始まっていたこの現象に怯えながら過ごすのではなく、その現象に立ち向かい生きていく方法を。

 その兆しを彼女は作ってくれた。

 一人ではできないことなら二人で。

 そんなどこかの名言を借りるようにして彼の頭で再生され続けた。


「………ありがとう。いや、わかった。お前を頼らせてくれ」


 そして彼は勢いよくベッドから立ち上がり、その高身長を見せつけた。


「ばっちこいです」







 ーーーーーーーーーー








「ふぁ〜ねみ」


 彼は今、開幕一番のあくびをみせた。

 階段を降りると、すでに彼の母が台所におり、弁当を包んでいた。


「おはよ、母さん」

「おはよう、慎。もうご飯できてるから食べちゃいなさい」

「はぁ〜い」


 いつも通り、彼はいつも座っている椅子に座った。

 目の前には朝食が二人分並べられており、彼とその母の分だ。

 そう、彼はいわゆる母子家庭で育ってきたのだ。

 女手一つで育ててきてくれた母には彼も感謝しても仕切れなかった。


 そして彼が席に着くと母も弁当を作り終えたらしく、弁当を食卓に置くと彼の向かいの席に座る。


「ところで最近、顔色良くなったわね」

「そんなに悪かったか?」

「そりゃもちろん。私の弁当にも手つけてない時もあったでしょ」

「まあな、少し思いつめてたかもな」


 今ではもう、健康的な体つきに戻り、顔にも生気が戻っていた。

 なんでもこないだまでは顔に生気が宿っていないと言われたまでだ。


「それもやっぱり結衣ちゃんのおかげ?」


 彼は手にかけた味噌汁をこぼしそうになりながら、口元に運んだ。


「なんで、母さんが」

「なんでって、こないだ看病しにきてくれたじゃない。それに、体調が良くなってきたのも丁度その頃からだったでしょう」

「バレバレかよ」

「えぇ、もちろん」


 そしてにこやかに食を進める母を片手に、彼はそそくさと朝食を食べていった。


 現在はすっかり冬の季節に入り、こないだと称しているもののそれは一ヶ月も前のことだ。

 なんで今頃母がそんな話を切り出したのかは知らないが、すでに一ヶ月も前なのだ。

 よく覚えていたものだと彼は感心していた。


 そして肝心の彼女が言う神さまの現象は、結局あれっきりきていなかった。

 丸々四ヶ月もの間それがこなかったといっていい。

 彼女が言うにはもう、神さまに飽きられたんじゃないかと言われたが、それもなんだか気持ち悪いものだ。

 別に神さまに嫌われるというのもよくわからないのに、飽きられるとはまた勝手なものだと彼は思う。


 ただ、そんな中でも警戒は怠らない。

 最低一年はこれがないと判断しなければないとは断言できないと彼は勝手に思っている。


 そして、ピンポーンとインターホンが鳴った。

 その音を聞いて彼は昨日のことを思い出したかのように、母の言葉を待たずにしてご馳走様といった。

 彼は昨日、彼女との会話の中で迎えにいくといっていたことを思い出したのだ。

 昨日の彼は呼びに来る前に家の前で待っていればいいと思っていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。

 

 二階に荷物を取りに行き、足早に玄関へと向かった。

 母は何か言おうとしていたが、いってきますとだけ告げて玄関の扉を思い切り開けた。


「遅いですね、慎さん」


 扉の隣には彼女が壁に寄りかかるように立ち、前にカバンをたらすようにして手で持っていた。


「すまん、忘れてた」

「通りで髪がボサボサだと思いました」

「結衣は相変わらずだな」

「えぇ。早起きは得意です」


 そう言って彼らは歩き出した。

 学校は徒歩圏内で、彼の家からは15分と行ったあたりにある。

 その間にはいつも昼時にしているようなたわいもない話をしていた。

 朝は何を食べたのかとか、髪型変ですねとか、天気が悪くなりそうとか、慎という名前だから神さまに嫌われているんだとか。

 色々な物言いではあるが、こういう話は案外好きだった。


「そういえば明日ですね」

「あぁ、私服が楽しみだ」

「な〜んだ、てっきり制服がお好みなのかと」

「ははは、そりゃ結衣だからだろ」

「うわぁ、口説き文句ですねぇ。安い女に見えるのでやめてください」

「ん、善処する」

「善処しちゃうんですか」

「あぁ、嫌われたら堪ったもんじゃない」

「それ、本人に言うことですかね」

「本人に知ってもらったほうがいいだろ?」


 クククと笑い声を漏らしながら口籠る彼女の顔を眺めていた。

 いつまで経っても耐性のつかない彼女は可愛いなぁと思う彼でもあった。





 そして明日。

 昨日言ったように私服になっていることから今日は土曜である。

 彼女に言わせればデートと言えるが、建前上は買い物の手伝いだ。

 だからこそ今日は電車を使って大きなデパートまで行く予定である。

 彼はその駅で張り切り過ぎなのか、昨日の汚名返上なのか、1時間は前についていた。

 待ち合わせ場所は駅近くの広場の時計の下。

 駅もそんなに広くなく、広場も一つしかないからここで満場一致だった。二人しかいないが。


 そしてついてから五分もしない間に彼がきた方とは違う方向から、そわそわした感じで私服姿の彼女がやってきた。

 その私服姿は、上の白セーターを基調として、ローグスカートとタイツは黒でまとまり、髪も幾らか結われていた。

 そして、彼女が彼に気づいたのはそれから10秒もしない間で、気づいた途端驚くように目を見開いた。

 自分より早くきていたとは思わなかったのだろう。

 ただし彼女も意を決したように向かってきた。


「ご、ごめん遅れちゃった。待った?」


 彼女は引きつった顔でぎこちない顔をしながら言った。


「いや、ぜんぜん。ちょうど今来たところ」


 彼はあながち間違いじゃないながらも、内心ホッとしていた。


「うっ、今回は侮ってました。こんなにも屈辱的だとは」

「そうか?俺はほぼ本心だったけど」

「もうちょっと早く出ていれば私がそっち側だったのに………」


 そう、今回僕らは待ち合わせの定番台詞、ちょうど今来たところを実践してみたのだ。

 彼が早く待ち合わせに向かったのは二つの理由の他にこれがあったからで、実のところこれが最大の理由でもある。

 彼女は気に食わなかったようで、少し声色に後悔が残っていた。

 まぁ、遅れて来たわけではないのに遅れちゃったと言うには、少し屈辱的な部分があったのだろう。


「にしても、慎さんがこんなに早く来るとは思っていませんでしたよ。せいぜい来るとしても30分が関の山かと」

「これで俺も予想の斜め上を行く男として君臨できたかな」

「えぇもうほんとやってくれましたよ」

 

 30分しか早く来れないと思われていた彼も彼なのだが、どちらもこのデートを楽しみにしていることには変わりなかった。


「じゃあ行くか」

「えぇ」


 そして彼らは駅に向かっていった。


「手は繋いでくれないのですか?」


 二人は確かに繋いで駅に向かっていった。






「で、でかいな」

「えぇ、これが国内最高峰のデパートらしいです」

「さすが都会」


 大きなビルが立ち並ぶのは、都会と呼ぶに足るものだった。

 彼にとって、家の暮らしやその徒歩圏内でしか生活してこなかったため、こう言うものは目新しい。


「そういや今日は買い物だったな」

「そうですよ。服を選びに来たんですから、目一杯コーディネートしてあげます」

「それは楽しみだな」


 そして彼らは繋いだ手を離さないまま人の荒波に飲まれていった。

 流石は国内最高峰だといったようで、その人は休日故に多かった。

 通路を歩くだけで何人もの人と肩を合わせそうになる。

 ただ、彼女はすでにデパート内の地理は頭に入っているらしく、男らしいリードを見せてくれた。


「はい、着きました」

「ほんとだ。にしても中もとんでもない広さなんだな」

「それにここだけじゃなくても多くの同系統の店が並んでるんです」

「ここを選んだ理由は?」

「もちろんデザインがいいからです」


 そしてまず彼の身なりから正したいといって、彼に似合う服を取り立て着せていった。

 何せもともとの服装が気に入らなかったらしく、彼女はすぐにでも着替えさせたかったという。


 ーーーーー俺は結構気に入ってたんだけどな


 そんな心の言葉を残しながら、試着室に投げ込まれる服を着々と来ていった。


「うん、これですね」

「これか」


 案外彼自身も気に入った、黒でまとまった服装だった。

 これがいいなら別に前の服でもいいじゃないかとも思う彼であったが。


「じゃあ会計して来ますね」

「なんで結衣がして来るんだよ。俺も金持って来てるし」

「ここは奢らせてください」

「それは俺のセリフだろ」

「いえ、私がやりたいのです」


 そのなぜかわからない迫力に押しつぶされ、彼はおうと答えてしまった。

 つくづく彼女の力は偉大だなと思う彼であったが、同時に今度買うものは自分が奢ろうと豪語していた。


 且つ、彼が試着している間に自分の服を新調していたらしく、彼女の服選びには貢献できていなかった。


「では、これからどこ行きます?」

「ここは無難に飲食店とかじゃないか?そろそろ昼時だし」

「そうですね。今度は慎さんに奢らせてあげます」

「なんか随分と高飛車な態度だな」

「いえ、気のせいですよ」


 戻って来た彼女は手を差し伸べ、行きましょうと笑顔で言った。

 普段は制服でしか見かけないその姿だったが、私服姿も華やかで可憐であった。

 彼女の笑顔にはそう言う服もよく似合っているようだ。



 それから彼らはいろいろなところをまわっていった。


 初めは彼らの言っていたように、デパートに内接された飲食店に向かい、少なくない時間をそこで話しながら過ごした。

 その後にはそれぞれきになるところに行って、色々なものを買った。

 一人が気になるものを探している間はもう片方が横槍を入れるように嫌味を言っていたりもした。

 そんなの何に使うんですか、とストラップを買おうとしている時に聞かれた時は彼も驚いたが、なかなか彼女はそう言うものに興味がないようだ。

 

 他にも雰囲気のいい喫茶店に行って、午後のひとときをコーヒーを飲みながら過ごしたりもした。

 彼はコーヒーというものを頻繁に飲む方ではないため、ミルクを入れて飲んでいる。

 ただ、彼女のコーヒーを飲むまでの一挙手一投足が雰囲気のいい喫茶店によく似合っていた。

 そう言わせるほどに美しかった。


「慎さん?そんなに見つめてどうかしました?」

「いや、改めていい彼女を持ったなって」

「そんなに私にゾッコンなんですか。ちょっと気持ち悪いですね」


 そう言いながら彼女は目を瞑って舌の先を悪戯に出していた。

 そしてコーヒーを飲む姿を見て、平和な日常を本当に謳歌していると実感していた。


 そのコーヒーを飲み終えると、彼女は耳に髪をかける動作をして言った。


「そろそろ次行く場所を決めませんか?」

「そうだな」

「どうせなら夕焼けが綺麗な場所がいいですね」

「夕焼けか………」


 今の時間は午後2時くらいで、そろそろ日が落ちて来る時刻だ。

 天気も程よく雲がかかっている晴れの日で、夕焼けは綺麗に映るだろう。


「ここから少し歩いたとこの川辺の公園とかがいいかもな」

「ならそこにしますか」

「即決だな」

「えぇ、慎さんが提案してくれたんですもの」

「まぁ、俺も下調べはしてるからな」


 彼は少し胸を張って誇らしげな顔をした。


「ならリードしてくれても良かったのに」

「こういうのは順番でもいいだろ?」

「まぁ先にリードしたのは私ですけど」


 少しむすっとした顔をして既に空になっているはずのティーカップを口に運び、中身がないことを気づいてか顔を赤くした。


「ん……、もう行きましょう!」


 その一連の行動を見、彼が鼻で笑っているような様子が伺えていたからか、彼女は少し声を荒げた。


「そうだな、いくか」


 今回は彼女と彼の割り勘ということらしい。

 割り勘といっても同じものを頼んでいるだけであるため、それぞれが会計しているのと同じことだ。


「ほら」

「?」


 会計を終え、喫茶店を出たところで彼は手を差し出す。


「今度は、俺がリードする番だろ」

「最初からそう言えばいいのに。ツンデレですね」

「んなわけ」


 そして彼は彼女の手を握り、事前に調べていた夕焼けが綺麗に見える場所10選の中の三つ目の場所へと向かった。




 その場所は川辺の近くに隣接し、川が北から南に流れるようにあるため、向かい岸側に夕焼けが見えて来る所だ。

 ちょうど川の隣のところではベンチが設置してあり、多くのデートスポットに入っているらしい。

 今のような冬の季節であるからこそ、より夕焼けが綺麗に見えるようだ。


 そんな場所であるがゆえに、休日の夕暮れ時は人が多い。


「人が多いですね」

「こ、ここまでとは」

「そういえば今更ですけど慎さんは人が嫌いなんでしたよね。こんな人いっぱいいるのに大丈夫ですか?」

「ま、こういう日はいいだろ」

「そうですね」


 周りには何組かのカップルらしき人達と、マラソンしている人、沈む太陽を見ながら黄昏る人やらがいた。


「それにしても、綺麗な景色ですね」


 建物なんて見向きもせず、ただ空に浮かぶ雲と太陽の沈みかけの景色は黄昏時というにふさわしい圧巻なものだった。

 いつからか彼もそれに飲まれるように見ていた。

 夕焼けなんていつも見ているはずなのに、今日はなんだか特別な気がしたのだ。

 存外、相手によるというのは間違っていないのかもしれない。


「結衣。渡したいものがあるんだ」

「なんです?結婚指輪ですか?」


 それならどんとこい、というように構える彼女。


「すまんな。そんな大層なもんは一介の高校生には不可能だ」

「そうなんですか。残念です」

「……お前、ほんと俺のこと好きだよな」


 彼がなんとも言えない発言をしたからか、彼女は目を見開く。


「よくもまぁそんな恥ずかしいこと偉ぶって言えますね。まぁそうですけど…」

「結衣も人のこと言えないだろ」

「たしかに」


 彼らの中で一悶着終えると、彼はバッグから今日買ったばかりのアクセサリーを取り出した。


「そ、それって」


 彼女は驚くように手で口を抑える。


「しつこく、この中で結衣の好きなやつってどれだっていってたやつじゃないですか」

「仕方ないだろ、こういうのあげたことないし…。本人に聞くのが確実だったんだよ」

「そうだったんですか…。てっきり私と常に一緒に、とかいう意味で買うのかと思い適当に選んでしまいました」

「えっ、この形可愛いとか言ってたのに、好きなものとかでも何でもないのかよ」


 そのアクセサリーは、ペンダントで先が水晶の形のしたものだった。

 その色は水色でなかなか透明感があっていいなと彼は思っていたのだ。


「女の子の可愛いはあんまり信じない方がいいですよ?」

「はぁ、一つの教訓として習っておくよ」


 そして彼は手に持った包装されたペンダントをカバンにしまうべく、カバンのチャックを開けた。


「ちょっと待ってください。何も、もらわないなんていってませんよ」

「でも好きなものじゃないんだろ。だったら…」

「いえ、好きなものになりました。だって慎さんが私のために慣れないアクセサリー店に行って、直接聞いて来ちゃうほど本気で選んでくれたんですもの。好きな人にもらったものが嫌いなもののわけないじゃないですか」


 彼女がそういうと、彼はその意味にやっと気づいたかのように頬を染める。

 自分でも赤面になっているのだとわかるくらいに頭が熱く、とっさに頭を下げてしまった。


「そ、そっか。なら結衣。もらってくれるか?」

「えぇもちろん」


 意を決して彼は頭をあげ、袋に包まれたネックレスを渡した。

 今思えば、色々な店に行ったのにもかかわらずこの包装を覚えていたというのもすごいなと彼は陰ながら思っていた。


「さて、これは困りましたね」

「ん?何か?」

「いえ、あいにく私、慎さんにあげられるようなものを持ち合わせていないんです」

「別に俺が渡したいから渡しただけだし、見返りなんて求めてない」


 そして少しの沈黙の間、彼女は夕焼け空に染まった方を見つめた。

 すると彼女は何か思いついたかのように顔を明るくする。


「どうかしたか?」

「いえ、この夕暮れ時に若い男女が二人、まるで少女漫画のようなシチュエーションじゃないですか?」

「あぁ、そうだな」

「これはデートの、ちょうど今来たところに匹敵するポイントだと思うんです。だから、これからすることは私の身勝手なことなんですけど、手伝ってくれますか?」

「それって、キ、」


 彼が思ったことを言おうとすると、彼女は両手で彼の口を抑える。

 彼の発言は彼女のシナリオには組み込まれていなかったらしい。

 そして彼の口から手を退けると、両手を背中で合わせて一回転してみせた。


「どうですか?今日の私は。可愛いですか?」

「………あぁ」


 彼は少しの間脳裏に、女の子の可愛いはあんまり信じない方がいいですよ。という発言がほんの少しだけよぎったが、今は言うべきではないと押しとどめた。


「私、今日のために、篠崎さんのためにたくさんおしゃれしたんです」


 彼はもうなにもツッコミはしないと決意し、その目を真剣な眼差しをする彼女に向ける。


「慣れない化粧をしてみたり、髪型をちょっと変えてみたりしました。篠崎さんには気づいてもらえなかったみたいですけど」


 もちろん気づいてはいた。

 ただ、ちょうど今来たところ、がインパクトに残りもう一つの定番、相手の服装を褒めると言うことを忘れてしまっていた。

 あくまでも前者の方を強調し、彼は言い聞かせた。


「でも、今日は本当に楽しかったです。篠崎さんとデートして、今日1日一緒にいて、やっぱり篠崎さんじゃなきゃダメなんだなって思ったんです」


 彼にとって彼女がこのようなことを言うキャラではないことがわかっているからこそ、少しむず痒い気持ちになった。

 恥ずかしい気持ちがどんどん膨れていくようで。


「だから、今日1日一緒にいてくれたお礼がしたいんです」


 すると彼女は半回転弱ぐらいの回転を見せ、顔を振り向かせるように向け、いかにも男が夢見そうな幻想的な体勢になる。

 そこに風が吹き、彼女の長い髪を舞わせると、そこには春の桜が舞うかのような背景が見えるほどに彼女は絵になっていた。


「篠崎さん。目、瞑ってくれませんか?」


 その顔から元々の彼女のような小悪魔的な笑顔を見せると、なんだか彼女の思惑が伝わったような気が彼にはした。

 そして彼はゆっくりと目を瞑る。


「目、開けないでくださいね」


 そうして彼女は彼の肩に手をかけ、少しだけ背伸びして顔を近づける。


 すると彼女が顔を近づけたところで彼は目を開ける。

 そしてーーーー



 彼女が彼と目を合わせた時にはもう遅かった。

 彼が首を捻らせ、その唇が重なっていた。


 そこで周りは少しだけざわめき、ヒューヒューなどと言う古い口文句が飛び交った。

 彼らは彼らの空間だったから考えなかったのか、周りには少ないが、ふつうに大人や少し少なくなったカップルたちがいるのだ。

 特に黄昏ていた大人の人たちにとっては格好のカモだったらしく、ニヤニヤした顔でいる人らもいた。

 彼は真っ先に動画がとられていないかなどが気になったが、それは問題なかった。

 遠くの人には会話は聞こえていなかったし、即座にスマホを構える人もいなかった。


 それ以上に今は彼女の隠しきれていない驚きが目に留まった。


「な、な、なんで」


 彼女は一歩後ずさり、顔を真っ赤にしていった。

 彼女自身、もとより彼の頬にキスするつもりであった。

 そして、「キスされると思った?」と無邪気な笑顔で言うはずだったのだ。


「そりゃ、顔。結衣が悪戯しようとしてる顔って、いっつも小悪魔みたいな可愛い顔してんだよ」

「な、な、」


 彼女はオーバーヒートしたかのように、頭から湯気が出たのかと思うほど顔が熱く、ふらふらとしていた。

 彼もまた、大胆なことをしてしまったと言う気持ちと、唇に触れた感触というものが案外柔らかくて、思い出し、恥ずかしさがこみ上げて来た。

 同時にとんだ羞恥プレイをしてしまったものだと、相乗効果で恥ずかしさが上がりっぱなしだった。


「ほら、行くぞ結衣」


 まだふらふらする彼女の手を引き、そそくさと公園を離れた。

 彼もまた、赤くなった顔を下を向いて隠していたのは言わずとも知れたことだった。








「あれ……慎さん?」

「おはよう、いやこんばんわ?」

「どうしたんです?慎さん」


 と言いつつ、彼女は目をこするとハッと思い出したかのように、また顔を赤くする。


「いや、すまんな。いつもは揶揄いされっぱなしだったから、少しこっちも対抗しようかと……」


 彼は時間とともに少しだけ罪悪感が生まれ始め、彼女を不快にさせてしまったんじゃないかと思っていた。

 実際そういうわけではないのも彼女の反応を見て彼も感じているのだが、芽生えてしまったものはしょうがない。


「い、いえ。べ、別に謝られるようなことじゃなくて、も、元々私もそ、そのキスするつもりでしたし。わ、私からしようと思ってましたし〜」


 その彼女の強がりな態度のようなものを見て、彼は少し安心したように肩の荷を下ろした。


「そうか、それなら良かった。結衣が頬の方にするんじゃないかって思ったからな」

「そ、そんなわけないじゃないですか。私って大人の女性ですよ?そ、そんな幼稚なことするわけ…」


 彼女は自分で自分を責め、そして今頭を抱えてしまった。

 これが大人の女性かと思いながら彼は静かに笑った。


「なっ、笑いましたね」

「ん?あぁ、おかしくてさ。これまでの苦痛なことが今日1日で全部吹っ飛んだ気がして」


 彼女は彼の秘密を唯一知っているからこそ、その言葉の重みをわかっていた。

 また、彼がそういってくれたことが彼女の誇りになっていた。

 助け合う関係として、自分が役に立てていると実感したからだ。

 そのたった一言で、彼女は今日という日があって良かったと思えたのだ。


「それは本当に良かったです」

「あぁ、ありがとう」


 そして彼らは笑いあった。

 それぞれの思いのほかを晒し、本心から信じ助け合えるという関係が彼らにとって何よりも美しい、誇らしさというものを生ませたのだ。

 彼らはきっと、いつまでもその誇らしさを持ち続けながら生きて行くのだろう。



「あ、雨ですね」

「ほんとだ。じゃあ駅まで走るか」

「いえ、それは遠慮しときます」

「相変わらずだな」


 そんな言葉を残して、彼らはまた歩き出した。














『まもなく2番線を列車が通過します。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください』


 彼らは雨のおかげで人が増えた駅のホームに立っていた。

 唐突なゲリラ豪雨で電車も遅延し、さらに人が増えてきている。


「すごい雨でしたね」

「あぁ、おかげでビショビショだ」


 すると彼女はおもむろに手をバッグに伸ばして、女子力溢れる仕草でタオルを渡してくれていた。


「気休め程度ですけどどうぞ」

「助かる。そっちの方は……」


 大丈夫かと聞こうとしたが、愚問だったらしく、彼女の手にはすでにハンカチがあった。


「大丈夫です。そっちのタオルより濡れてませんから」

「俺がどんなことを心配したと思ったんだ…?」

「あれ、てっきり、俺の方にタオルなんか渡して結衣が風邪になんてなったりしたら、とか考えているものかと」

「……ほんとこういう時は恥ずかしがらないのな。さっきはあんなに」


 そこまでいうと彼女はちょっと前にしたことと同じように、両手で彼の口を塞いだ。


「そ、それは人生最大の汚点です」

「そこまでいうか」

「えぇ、だから汚点なんて忘れてしまうくらいにいいことしてくださいね」

「あ、あぁ。ほんとにお前はすごいよ」


 そして彼女はにっこり笑って、そういえばと思い出したかのようにバッグを弄り始めた。


「そういえば私、慎さんにプレゼント買ってきてたんです」

「あれ?ないとか言ってなかった?」

「何言ってるんですか。女の子の可愛いは信じない方がいいですよって言いませんでしたっけ?」

「その時から演技だったのかよ…」

「もちろんです」


 胸を張ってそう言った。

 別に胸を張ることじゃないんじゃないかと思う節もあるが、もう特に気にしないことにしている。


「あった。これです」


 そうして彼女がバッグから取り出したのは、すでに開封済みで家来に保存されているらしかったロケットペンダントがあった。


「被ったな」

「いえ、私のはお揃いです」


 すると彼女は全く同じものをもう一つの出してみせた。


「それにこれはロケットなんですよ?中身は家に帰ってからのお楽しみにしてくださいね?」

「あぁ、わかった約束しよう」


 そして彼女は屈託のない笑顔を見せた。

 不覚にも、彼にとってその笑顔はこれまでの小悪魔のような笑顔や清楚な笑顔とは違う、本来の彼女の笑顔なんじゃないかと思えるほどのものだった。




 そんなロケットペンダントを両手で包み、すぐに首を通してつける。


 彼はつけ終えて、彼女の目の方に視線を向けると、彼女の目は過去見たことがないほどに見開いていた。

 それほど彼のつける仕草がおかしかったのか、その格好自体がおかしいのかと思った。

 が違う。



 彼女は彼ではない、彼の後ろの何かに対し、目を向けていた。

 そして彼が何事かと後ろを見ようとしたその時、俺の体が多くの人が密集しているホームに突きつけられた。

 彼を受け止めていた人たちは一様に嫌な顔をしていたが、次の瞬間その顔は蒼白な色へと変わっていった。




 キィィィイイイイィイイイン



 彼の目の前には止まった電車があった。

 止まるはずのない電車が止まっていた。

 そして、さっきまで彼の立っていたところには血飛沫が立ち、その近くにいたものたちにその火の粉は飛び散った。

 彼自身の身にも。


 ーーーーーは……………?


 彼は自分の頬あたりについていた何かに触れ、それが血であると気づくのに数十秒はかかった。

 しかしそれよりも早く声をあげたのは、隣の尻餅をついたおばさんだった。


「キャャャァァァアアア」


 その声を火種にしてどんどんざわめき始め、目の前で起きた出来事について必死に理解しようとしていた。

 そこにあるのはまごうことなき血痕であり、それが広がっている様子が彼らにとって非日常であるから、その状況にすぐには順応できていない。


 そして彼もその状況を見て真っ先に彼女の存在を思い浮かべた。


 ーーーーーあれ、結衣、は?


 彼は騒ぐ群衆の中、ホーム中央に連れられていたが、その人々をかけ分けるようにさっきまでいた位置に戻っていく。


「………おい、結衣、結衣!」


 彼はそこで声を荒げる。

 周りもパニック状態に陥っているため、彼の声はそれらの音声にかき消されていく。


「結衣、ゆ……い…………」


 そこの周囲を彼は歩き、ふとホームにポツンと置かれたあるものを見つけた。


 それはさっきまで彼女が手に持ち、お揃いだと笑っていた彼も持っているロケットペンダントだった。

 それは無惨にも落ちた衝撃で金属部分のロケットは割れていた。


 それを見て何も思わない彼でも、何があったのかわからない彼でもなかった。

 これが表す意味を感じ取った彼はただその場に膝を落とした。



 ーーーーー俺の……せいだ


 俺が後ろにいる何かを感じ取れなかったから、俺が自分の身も守ることができない、不甲斐ないやつだったから結衣は、結衣は………。


 彼は今、自分を責めることしかできなかった。

 彼は彼女を守ると、ずっと一緒にいてあげると言ってくれた彼女をどんなことがあろうとも守ろうと、そう思っていた。

 彼は自分自身にその力が十分にあり、守れるのだと自分の力を過信していた。


 いくら期間が開こうとも彼は油断せず、安全マージンを取っていた。

 ただしそれは、彼らの言う神さまの悪戯においてのものであることを彼は知らなかった。


 事実、彼は最も重要な場面で彼女に助けられる羽目になったのだ。





「ちょっと君、大丈夫かい?」


 駅員がただ座りこんでいる彼に対して優しい言葉を投げかけたが、彼には届かなかった。


「こんなところにいたら危ないよ」


 彼は未だ耳を傾けようとしていない。

 ただ、彼女のロケットペンダントを両手で包み座りこんでいたままだ。


「とにかく、この場から離れてくださいね。しばらくは運行できないので」


 すると彼はただおもむろに立ち上がった。

 その頭の中はぐちゃぐちゃになって、何も考えられなかった。





 外の雨は激しい。

 彼の心を表しているようで、悲痛な叫びがどこからか聞こえてくる。

 彼はそんな中、傘もささずに歩いていた。


 大粒の雨が彼に当たり、周りは雨の音で全てのものがかき消されていた。


 そして彼は涙した。


 彼の涙はその苦痛の叫びは、誰にも聞こえることはない。

 ただ雨の音にかき消され、流れた涙も雨とともに流れていく。


 泣いて泣いて、涙が枯れ尽くした辺りで彼はビショビショになった手にかかるペンダントに目を向ける。

 彼の目は充血しおり、鼻をすすり、恐る恐る自分のペンダントも取り外し並べた。


 雨に濡れた地面に雨を凌ぐところもないのに、そこに並べた。

 生憎この辺りは車があまり通らないらしく、ほぼ道路のど真ん中というところであった。



 そして、そのロケットを開けた。




 そこには、たった一枚、たった一枚の写真がそれぞれのロケットに入っていた。

 それはいつもの穴場で彼女が彼の腕を抱き、笑顔になって彼は恥ずかしがっているかのように頬を指先で掻いているものだった。


 そして彼は裏にめくる。



「ハハハハハ。これじゃあもう、読めないじゃないか」


 そこには、水性のボールペンで書かれたのであろう何かが黒ずんで存在していた。


 彼はその写真を丁寧にそれぞれのロケットに入れ直すと、彼女のロケットを両手で持ち、胸に当てた。


「結衣、俺さ、好きだったんだ。結衣の小悪魔みたいに笑ったり、ちょっと見下して見たり、案外押しに弱かったりするとことかさ。初めはそりゃ変な奴って思ってた。けど、結衣の頑固さっていうか、ひたむきさがさ何より俺を救ってくれたんだ。結局、俺って結衣のそのひたむきさに甘えてたんだ。甘えて、甘えて、甘えまくってさ、俺って結衣に何もしてあげられなかった」


 彼はその咆哮を誰もいないこの場所で、雨粒の音で消える音で、彼は吠える。

 その目には枯れたはずの涙を浮かべて。


「思えば俺って本当にクソ野郎だよな。自分の命が狙われてるだとかいう狂言吐いててさ。俺だったらそんなこと言う奴、命の恩人だとしても信じない。でも、結衣は信じてくれてよ、だから命をかけてでも守ってやりたいってそう思ってたんだ。けど、蓋を開けてみれば結局、最後まで結衣に助けられた」


 彼は、そのロケットを全身で包み込んで、溢れ出る涙をただ彼女のために流した。




「なぁ、神さま。なんで、なんで俺を、殺そうとすんだよ。答えて、くれよ。もう、俺から大事なものを、奪わないでくれよ」



 そして一息ついた彼は、何かが脳裏をよぎったような感覚が走る。


 そこには誰かなんてわからない若い男が、悲哀や後悔を纏いながらも精一杯に笑っている顔が浮かんできた。



 すると、いつのまにか目の前には、先頭が血の固まったようなもので彩られたトラックがライトも点けないで向かってきていた。


 ここにはもう、誰もいない。

 彼の声も誰にも届かない。

 誰も助けてはくれない。



 そして彼はただ思う。



 あぁ、そうか。と。









 ーーーーーーーーーー











 次に彼が目を覚ましたのは、ただの白い空間に包まれた場所だった。

 彼は純粋に生きていたのか、と考えるにはいかなかった。

 周りの景色にせよ、この空間の異常さと、夢とは言い難いはっきりとした意識はそれが現実のそれとは違うと言うことを示していた。


「ここは……」

『神の空間ですよ』


 するといきなり声が聞こえてくる。

 その声はどこからと言うものではなく、彼の脳内に直接声が送られてきていた。


「神………そうか、お前が………」

『えぇ、いかにも、神です』


 そして、彼の5メートルほど離れたところに神と名乗る人物が現れた。

 その姿はなぜか白いローブに包まれ、顔は覗けない。


「俺は、お前の思惑通り、死んだのか?」

『思惑通り?心外ですね。私はあくまでも"間違えて"あなたを殺してしまったんです』


 その神は、間違えてと言う語を強調していった。


「間違いが何度も続いてたまるか」

『人は間違える生き物じゃないですか』

「お前は神だろ」


 そんな白々しい神の言葉に、彼は怒りが溜まる。

 これまでの所業が全て神の仕業だと知ったからである。




『………そうかい。君は僕と話がしたいみたいだ』


 するとさっきまで白いローブに包まれた高身長の何かが、みるみる縮まって行き小さな姿へと変わる。

 その姿はさながら少年であった。


「何が言いたい」

『君に全てを教えてあげようと言っているんだ。君は重要な戦力だからね。ここで匙を投げられては困る』


 彼にはその言葉の意味をはっきりと理解しているわけではなかった。

 しかしながら、その言葉で自分という存在自体が人質として有効であることを知り、交渉を有利に進められると思っていた。


『おっと。言っておくけど、君には別に権利が与えられたわけじゃない。僕が君に教えてあげようと慈悲をかけているんだ。意味を履き違えるなよ』


 彼にはそれだけでほぼ全ての彼における状況というのを理解した。

 そして、神という存在が絶対であるという力を彼は感じ取らされていた。


「わかった。ぜひ、教えて、欲しい」

『少し横柄だけど、いいよ、教えてあげる』


 すると彼はいきなりなにかの遺物が体内に入ったかのような嫌悪感を覚える。

 見た目上では神は何もしていないが、その絶対的な力の前でなす術なく侵入されていた。


 彼はそれから一瞬にして映像を脳内に焼きつかされるように、思い出すかのように情報が流れ込んでくる。




 そう、その情報は彼の親友、板上紅蓮のものから始まった。



「ここは………」

『神の間ですよ』


 始まりは同じようだった。


「神の………、そうか、俺は死んじゃったんですね」

『ずいぶん物分かりがいいですね』

「まぁ、最後引かれたのは覚えてるんで」

『そうですか、なら話は早いです。こちらの不手際で紅蓮さんを死に追いやってしまいました。申し訳ございません』


 その神はずいぶん申し訳なさそうな顔をして頭を下げていた。

 その神は親友に対し、あくまで寛容な態度を見せているのだ。


「そ、そんな。頭をあげてください。俺は別に気にしてませんから」

『いえ、それでも謝らせてください。本当は死ぬはずではなかった紅蓮さんを、こちらの都合で殺してしまったのですから何を言われようと覚悟はできております』

「そんな、こと、言いませんよ。俺はあいつが助かってればそれで………。そういえば、あいつ、慎は助かったんですか?」


 これは神から受け取った情報であるため、定かではなかったが、仄かにその場面での神は唇を噛みしめているような表情を見せていた。


『えぇ、助かりましたよ。あなたのおかげで』


 その言葉の裏には、あなたのせいで、とも隠れていた。


「そうですか、よかった……」

『よかったって、あなたは死んでしまったんですよ?』

「それでも、俺はあいつに返しきれない恩があるんです。あいつに死んでもらっちゃ困るんですよ」

『そう、ですか』


 神はそこで戸惑った様子で見ているように見えるが、実際は目がとても冷めていて、冷酷であった。


「今、あいつって何してるかわかったりします?」

『えぇ、分かりますよ。ほら』


 そう言って神は、親友との間にいつぞやの葬式の場面を俯瞰視点で写していた。


「はははは。こいつ泣きすぎだろ。何がそんなに悲しいんだか」


 そして親友はそんなことを言っておきながら頬を濡らしていた。


「あれ、なんで俺こんな。俺が泣くようなことじゃないのに」


 それからは必死に涙を抑えようとする親友の姿が映っていた。


『落ち着かれましたか?』

「はい、ありがとうございました。それと一つ、お願い事を聞いてもらってもいいですか?」

『えぇ、できる限り協力させていただきます』

「俺の、俺があの世界にいた存在をなかったことにしてくれませんか」


 そう、親友はしばしばこのようなことを口走っていた。

 自分が死んで悲しむ人がいるくらいなら、存在がもともとなかったことになった方がいいと。

 結局は死後の話なんだからお前には判断のつけようもないだろう、と言った時に、それでも、と答えたのは今でも覚えていた。


『造作もないことですが…、いいんですか?』

「えぇ、ぜひお願いします」

『分かりました』


 そして数秒もしないうちに終えたらしい神は、ただ親友に終わりを告げた。


「そういえば俺はこれからどうなるんですか?」

『ようやく本題ですね。本来なら新たな生命の糧になるんですが、今回ばかりはことがことなので記憶を引き継いだまま、転生していただきます』

「それは剣や魔法の飛び交うファンタジーな世界と、か?」

『はい、なのでご要望があればスキルや魔法などをそのまま引き継ぐことができます』

「それって空を飛ぶスキルとかは……」

『ありますよ』

「じゃあそれで。それって羽とか生えたりはしますか?」

『いえ、ご要望ならばそこらへんは自由に変更できますよ』

「なら、なしで自由に飛べればそれでいいです」


 そういえばいつの日か、親友は空を飛びたいとか言ってたな、と思い出す。

 その頃から、空を飛ぶのは夢だったらしいからな。


『それだけでいいんですか?』

「えぇ。別に勇者に転生というわけでもないんでしょう?」

『それは、はい』

「ならそれだけでいいです」

『そうですか。では、そろそろ時間なので送りますよ?』


 そう神が言うと、少しはにかんだ笑顔を見せて親友はこう言っていた。


「ねぇ、神さま。僕ってあいつの、慎の役に立つことができたかな?」

『命を救ったんですよ?誇るべきです』


 そして親友は更に笑顔になって感謝の言葉を述べ、神の力によってその精神が飛ばされていったのだ。








『にしても紅蓮か。不運な奴だったね。元々きみを殺すために仕掛けたのに、それで死んじゃうんだから。いくら強がってはいても、辛そうにしてんのバレバレだっての』


 彼は既に情報が流れ込んできている時に、彼自体の存在を思い出していて、改めて助けられたことを実感した。

 そして、親友を侮辱し、命の恩人である紅蓮にそんなことを言う神に、彼は睨みを利かせた。


『でも、紅蓮の死も無駄になっちゃったね。結局勝ったのは僕で、君は死んでしまった』

「無駄なんかじゃない。俺はいや、僕はお前を殺す。結衣の分もだ」

『結衣?あぁ、君の恋人の。言っておくけど、それは僕がやったわけじゃない。彼女の元々の寿命だよ』


 その言葉で彼は少し動揺を見せるも、顔には出さなかった。


「そんなの信じられるか」

『それは君の勝手さ。事実なんだからね。ま、元々僕があの婆さんを殺っておけばこんなことにはならなかったのかな?でも、どっちにせよ彼女は17歳の二月二十八日に死ぬんだ。だから最も君が殺されやすい環境を作るのには、彼女という駒は最適だったというわけさ』

「なっ」


 彼は激情に駆られた。

 これまでなんとか抑制してきていたが、あんなにも人間味溢れ、普通の生活をしている彼女を駒としてみていることにどんなことよりも腹に立っていた。



 彼は加速し、少年姿の神に殴りかかろうとする。

 しかし、それも虚しく空を切った。

 何度も何度も。

 何度も何度もなんども。

 そして拳をそのまま地に下ろし膝を折る。


『君じゃ僕を認識することすらかなわないよ』


 神はなんの予備動作もなくかわして見せた。

 彼にとってその動作が当たろうがそうでなかろうが、一発でも神に拳を入れなければ気が済まない。

 そんな状態だった。

 しかし、彼はそんな激情が生れながらも心が既に折れかかっている。


 彼は親友のことを思い出した。

 そして、彼に救われ、その面影が思念が彼を救ってきた。

 そんなことを思い出し、大切な人までもが侮辱され、彼が正気であることなどできない。


 真実を知った今、彼自身が無力だと知った今、彼は何かに縋らなければもう保っていられるとは思えないほど不安定だった。



『もう、気が済んだかな?さっきも言ったように君にはやってもらいたいことがあるんだ。話が終わった今、すぐにでも行ってもらいたいんだがね」


 彼はもう答える気力すらも失いかけて、無言で地面を見つめる。


 なんで自分が狙われなければならないのか、殺されなければならなかったのか、なぜ俺なのか。

 彼はいつまでも救われなかった。


『まぁ、元々紅蓮のやつの介入さえ入らなければ、君に見せた記憶のように、手厚くもてなして送るつもりだったんだけどね。きみは不運だね、つくづく』

「なんで、なんで俺に固執するんだ、別のやつじゃダメなのかよ」

『なんだい?今更そんなことを言い出すのかい?君には充分時間があったはずだ。考えようとはしなかったのかい?』


 彼はもうあげられない頭をそのままにして、彼の弱い脆弱な部分というのを見せる。


『いわゆる異世界転生だよ』

「……何で俺が…」

『別に君以外でも転生させることはできるさ。紅蓮、君の親友のようにね。でも、君はもとよりあっちの世界に順応した体質を持っている。それこそ神に匹敵するほど強力な力を使えるね』

「………それなら、お前が何とかすればいい話だろ」

『神といっても直接的な干渉なんてできないのさ。せいぜい、その世界で許容される範囲内の干渉ぐらいしかね。君もその一被害者だよ。そしてそのおかげで君は転生てきるんだ。君は望んでいただろう?』

「………そんなわけ」

『いいや、少なくとも夢見ることはあったはずだよ』


 その言葉は彼を正気に保つのには充分な威光を放っていた。

 そして確かに彼も夢見ることはある。


「……だとしても、それはまごうことなき夢だ」

『あぁ、そうだね。結局こっちも無駄な労力を使ってしまった。だから君は不運だといったんだ。助かってしまったから痛みを知った。もし、あそこで死んでいたら今頃あちらの世界では神に従順な兵器になっていただろうに。本当に不運だね』



 それから彼は沈黙していた。

 何分もの間の沈黙がその閉鎖空間にあるだけの時間が続いた。



「……じゃあ結衣を殺したあいつは………」

『くどいよ。誰が殺したかなんて関係ない。どんな未来でも彼女は死ぬ運命にあったんだよ』




『そろそろいいかな。君と話すのも飽きた。そろそろ潮時だ』


 そういうと、彼の周囲が光り輝き始めた。


『それと早々に死ななないでくれよ?殺した意味がない。まぁ、君を傷つけられるのも魔王でやっとといったところだけどね』


 彼は光に纏われながらも、ただその屈辱に唇を噛み締め、精一杯の眼光で睨みつけることしかできない。


『そんな怖い目をしないでよ。別に君を縛るつもりはないから、自由にしてくれていい。これでも僕は博愛主義だからね』


 神はそう言い残す。


『活躍を期待しているよ。慎くん』


 そんな神の憎たらしく、忌々しい笑みが最後の彼の視界となって、彼は意識が遠のいていく。







 ーーーーーーーーーー








 次に目覚めたのは、真っ赤に染まる空と、地に広がる血肉の異臭を漂わせる屍の上であった。

 あるものは刺され、あるものは切られ、あるものは性別もわからないほどに焼き焦がされている。


 ただし彼はそんなものに目もくれない。


 その赤く、紅蓮の空に目を向ける。



「俺は生きなきゃいけないんだな………この世界で」



 そして彼は歩いていった。


 生きぬ屍を踏み越えて、ただ彼は前を向いて歩く。









 これはただのプロローグ。

 彼の英雄譚のたった一ページにしか過ぎない。

 それは彼の歩む道の険しさを顕著表し、最後の神殺しの一ページへの布石に過ぎなかった。



 そう、これは彼のその足で絶対神を打ち行くまでの英雄譚。


『神殺しのシン』が誕生するまでの秘話である。


神殺しのシン


痛いですね

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