‐103号室の住人
103号室の畑中はたなか夫妻。
優しい顔つきの、ごくごく一般的なご夫妻だ。
家庭菜園を楽しみにし、老後を幸せに生きている。
「美味しいですか、おじいさん」
「あぁ、美味いよ。ばぁさん」
そんな二人には、ある秘密が……
なかった。
「まぁ、プチトマトが綺麗になりましたよ」
「いいなぁ、今夜のサラダに入れようか」
「嬉しいですね、おじいさん」
「あぁ、嬉しいなぁ、ばぁさん」
畑中夫妻は、ごく一般的な、夫婦だった。
この河童荘の中で、唯一と言っていいほど、平凡な毎日を送っている。
朝早く起きて、二人で散歩に行って。
昼は、庭の畑を整えて、水をあげて。
夜は取れた野菜で夕飯を食べる。
時折、住民にお裾分けしてくれる畑中夫妻は、みんなの癒し的存在だった。
七十歳近い二人の元に、山田さんも相談に行ったりする。
経験豊富ですいもあまいも乗り越えてきている人にアドバイスを貰いたいのだ。
河童荘だけでなく、ご近所さんからも人気のご夫妻だった。
「今日は、何を作ろうか」
「トマトの甘酢漬けを作って、皆さんにもお裾分けしましょう」
「それはいいな。こんなにたくさん取れたからな」
「パスタも美味しいですよ」
「なら、ベーコンも買っておこう」
「そうですね、おじいさん」
微笑ましいの一言しかない光景を見て、通りすがりのキョウカさんは、ニコリと笑った。
「畑中じーじと、ばーば! お買い物なら、私が行くよぉ〜〜!」
「あらあら、キョウカちゃん。いいのかしら?」
「うん! ちょうどお散歩したかったから、一緒に買ってくる〜〜! 他に欲しいものあったら、行ってね〜〜力持ちさんも連れてくから大丈夫」
「あらあら、じゃあ、トイレットペーパーもお願いしていいかしら?」
「いいよぉ~」
そう言って、キョウカは、アパートの住人たち全員に聞こえるように、拡声器を持った。
≪ 河童荘の住人~~~に~~~告ぐ~~~~、今すぐ、出てきて~~~~~~ ≫
力の抜けるような呼び出しに、次々と扉が開いた。
「もう、キョウカちゃんったら、どうしたのよ!」
「山田さん、ゲットぉ~」
「キョウカさん?」
「タカキもげっとぉ~」
キョウカさんが事情を説明すると、山田さんは、ニコリと笑って頷いた。
「なんだ、そういうことだったのね。いいわ、じゃあ、後一人もつれてきましょ」
「澤田さんなら、俺が呼びに行きますよ」
「いいの、いいの! あのパソコン中毒者が、簡単に外に出るはずないじゃない~!」
そう言って、腕をバキッと鳴らした山田さんは、にやりと良い笑顔を浮かべて、102号室へと向かった。
「ほら、聞こえてるんでしょ、早く出てきなさいよ!」
「俺は、今日は休みです~」
「あんたは、いつも休みじゃない!! たまには、人の役に立つことしたらどうなの!」
「俺が生きてるだけで、きっと世界のどこかで幸せになってる人がいるから、大丈夫です~」
「あんたって、最強のポジティブ最低男よね! オラッ、さっさと出てこいや!」
ボタン式の鍵など無かったかのように、力ずくでドアを開けて、澤田さんを担いできた山田さんを見て、タカキとキョウカさんは思わず拍手をした。
「くそー! おろせぇ! 日光が当たる~!」
「吸血鬼じゃあるまいし、光合成しろ!」
「じゃあ、人が揃ったところでぇ~~~~、買い物しゅっぱつぅ~~~~」
「あんたが運転すんのよ」
「俺かよ! お前の車だろ!」
「どうせ、対して荷物持ちにもならないんだから、せめて運転くらいしなさいよ」
「タカキ~~、こいつら、何とかしてくれよ~」
「畑中ご夫妻の買い物に行くんだ。澤田さんも来てくれたら、凄く助かる」
「畑中ご夫妻? つーことは、ご褒美に飯が食えるやつか?」
ピクリと反応した澤田さんに向かって「意地汚いわね! 親切くらい無償でやりなさいよ」と叱りつける山田さん。
澤田さんは、そんな山田さんに舌打ちしながらも、渋々頷いた。
「わかったよ、飯のためだ。運転してやろう」
「エラそうね~、ついでにアンタも生活用品くらい買ったらどう? いつも通販でしょ」
「通販っていいよなぁ~、できれば宅配ボックス置いて欲しいんだけど。受け取るのが面倒」
「あんた、どこまで無精者なのよ。ほんと世界一取れるわよ」
「世界一だなんて、照れるなぁ」
「褒めてないわよ!」
そんな漫才のような二人を見ながら、タカキとキョウカさんは、まるでピクニックに行くかのようにわくわくしていた。
助手席には、山田さんが座り、後ろの席にキョウカさんとタカキが座る。
傍から見れば、どんな関係なんだろうと、疑いたくなるような光景だが、本人たちからしてみれば、普通の関係だった。
「さて、じゃあ、美味しいベーコン狩りに行きますか」
「お前が言うと、本気で豚を狩りに行くみたいで笑えないな」
「何よ、アンタをベーコンにしてもいいのよ?」
「俺は、食われるなら、せめて高級な生ハムにして、美女に食ってもらいたいね」
「あら、贅沢なベーコンね」
澤田さんは、エンジンをかけると、シートベルトを締めて、ミラーを直した。
「ま、たまには、光合成しますか」
「安全運転で頼むわよ」
「しゅっぱ~~~~~つ」
「進行」
こうして、ぬるい四人の買い物旅が幕を開けたのだった。
END




