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「あ、今日も走ってる……」
タカキが朝、ランニングしている公園を、同じ時刻に通る女の子がいた。
彼女の名前は、コナカ。
身長149センチ。
色白で、ボブヘアの彼女は、いつも小学生に間違えられている。
似合う服も少なく、いつもワンピースを着ているコナカは、少しでも大人に見せようと、頑張ってメイクをしていた。
だが、東京に住む小学生は、田舎の小学生よりも大人っぽい。
メイクなんて、当たり前。
中には、コナカよりも、年上に見える小学生モデルも存在する。
そのせいで、コナカは、日々大人っぽく見える為に、洋服や髪型を研究していた。
「今日も、恰好いいなぁ……あの人」
名前も知らないタカキを見つめながら、コナカは小さく頬を染めた。
「高校一年生くらいかなぁ? どこの学校だろう」
タカキも平均身長よりは低く、童顔な顔をしている。
だが、コナカとタカキは、なんと同じ十九歳だった。
学校には通っているが、タカキは大学生だ。
コナカは高校を卒業してすぐに、舞台の世界に行ったので、大学には通っていない。
アルバイトをしながら、大好きな演劇を続けるために、日々努力を重ねていた。
「今日も会えたから……凄く良い日!」
タカキを遠くから見つめる事が、コナカの密かな楽しみだった。
タカキは、毎朝走っているわけじゃない。
運が良い日だけ、タカキがランニングしている時に遭遇できるのだ。
小心者のコナカは、自分から声をかけたりはしない。
だけど、公園の柵の外から見えるタカキの横顔に、いつも見惚れていた。
二人の距離は遠い。
柵を隔てた、その先にいるのだから。
走っているタカキを少しだけ眺めてから、コナカは再び歩き出す。
けれど、その時、コナカの目の前に、ある虫が現れた。
「ひ……っ?!!!」
声にならない悲鳴をあげる。
目の前にいたのは、スズメ蜂だった。
コナカは、目に涙を浮かべながら、逃げようとするが、スズメ蜂は、何故か近づいてくる。
キランとスズメ蜂の目が光った瞬間、コナカは大声をあげて、逃げ出した。
「い、嫌ぁぁぁぁぁぁ!!! 来ないでぇぇぇぇええ!!!」
コナカは懸命に走るが、蜂の速さに勝てるはずもない。
スズメ蜂の鋭い針がコナカを狙っていた。
こんな早朝じゃ、誰も助けにこない。
コナカが諦めかけた。
その時だった。
「……へ?」
「スズメ蜂か、」
いきなり、コナカの目の前が真っ白になった。
よく見れば、自分の頭にふわりとタオルがかけられている。
誰のかと思って振り向いた瞬間。
コナカは、目を見開いた。
「――ッ!?」
そこには、ずっと憧れていたタカキがいたのだ。
タカキは、スズメ蜂から目を反らないまま、指笛を吹いた。
「え、な、何……――ッ!」
「リョースケ、」
バサッと広げられた翼から、一枚の羽が零れ落ちる。
大きな鷹が、コナカの真上を通過した。
「と、鳥……?」
飛んできた八角鷹を見て、スズメ蜂が、慌てて逃げていく。
そんな一連の流れを見ながら、コナカは、ポカンと口を開けた。
「大丈夫?」
「え、あ、ぁ……」
タカキの腕にとまった大きな鳥を見て、コナカはフリーズした。
「ん? あぁ、この鳥の名前は″リョースケ″って言うんだ。鷹の一種だよ」
「ど、どうして、こんなところに?」
「俺が呼んだから? リョースケは、八角鷹という種類の鷹なんだ。元々、蜂の天敵が熊なところから、その名が名づけられている」
「蜂の、天敵……??」
「八角鷹には、基本、蜂の毒針が効かないんだ」
「効かない、んですか?」
「うん、そもそも刺さらないからね」
タカキは、コナカの被せたタオルを取って言った。
「ごめん。咄嗟だったから、タオルを投げてしまった」
「い、いえ! そんな、その、」
「多分、その黒い髪に反応したんだと思う。スズメ蜂は日中、黒いものに対して反応する傾向があるから」
「それで、白いタオルを……」
「咄嗟とはいえ、俺が使ってたタオルだから、気になるようなら、本当に申し訳ないことをしたと、」
「あ、違っ、あ、あの、わ、たし……っ」
タカキに謝られ、否定したかったがテンパって仕方がなかった。
あわあわと、頭を真っ白にさせながら、再び涙目になる。
「あ、ありが……ッ、ご、ごめんなさい……っ!!」
御礼よりも先に謝罪の言葉を吐いて、その場から走って逃げだしてしまった。
本当は、ちゃんと御礼が言いたかったのに。
心臓が爆発しそうで、それ以上、その場に留まることができなかった。
コナカは、グスグスと泣きながら、走り去る。
そんな彼女の後ろ姿を目で追いかけながら、タカキは、タオルを肩にかけた。
「……デリカシー無いことしちゃったかな」
ポツンと立ち尽くしながら、一人、反省するタカキであった。
◇◇◇
「今日のは、結構、手強かったな……」
その日、タカキは大学が終わるとすぐに、コーブツの家へと向かった。
暗号を解いて、セキュリティーを解除して、家の中へと進んで行く。
コーブツの研究室についたタカキは、研究机に紙袋を置いた。
「お邪魔します」
「何しに来たクソが。三秒以内に出て行け」
「……」
ギロリとタカキを睨みつけたコーブツの目は、血走っていた。
これは、相当機嫌の悪い時に来てしまったと察する。
いつも口の悪いコーブツだが、ここまで酷いのは、久しぶりだった。
「コ……」
「帰れ」
「……」
コーブツは、今にも殴りかかって来そうな顔で、タカキに言った。
だが、タカキは、何事もなかったかのように、椅子に腰掛ける。
「コーブツ、手紙来てた」
「聞こえなかったのか、今すぐ帰れ!」
「変わった手紙だな。名前がないけど……この判子、どこの国のだろう。海外から?」
「話を聞け! 俺は、今、苛立ってんだっ! 出て行けっ! 二度と来るな!」
そう言いながら、タカキから手紙を奪い、目の前で火をつけた。
燃えカスになった手紙を踏みつけながら、コーブツは、椅子にドカッと腰掛ける。
どうやら、その手紙の主が、コーブツの機嫌の悪さの原因らしい。
コーブツの苛々した表情を見て、タカキは、一度、席を立った。
「……台所、借りるよ」
「帰れっつってんだろ」
「すぐ戻る」
「クソが! シネ……ッ!」
悪態しかつかないコーブツだが、タカキは、気にしない。
コーブツが人間に悪態をつくのは、もはや当たり前のことだった。
だが、コーブツが、鉱物に対して、優しい言葉を吐くことも、タカキは知っている。
タカキは、滅多に使われることがないコーブツの家のキッチンに立ち、湯をわかした。
そして、戸棚にあった漢方薬を手にし、戸棚の下に潜ませておいた薬研を使い粉薬にする。
「よし……できた」
お盆の上に、正方形の薄紙を置き、その上に粉薬を盛る。
お湯を冷まして、白湯にし、湯呑みに注いだ。
ちょうど、それをコーブツの元に運ぼうとした、その時。
振り返ると、コーブツが、キッチンの扉に背を預けながら、こちらを睨んでいた。
「オイ」
「ちょうど、よかった。はい。漢方」
「……黙れって言いたいところだが、その前に、俺の質問に答えろ。まず、何故、この家の戸棚に、俺が知らない漢方薬が存在する」
「前に、瞳さんにもあげたから。コーブツも使うかもしれないと思って、そのまま置かせてもらってたんだ」
「チッ、次に、そのバカでかい器具はなんだ」
「漢方薬の製造に使用されていた薬研だよ。漢方の薬種を砕いて、粉状にする為に用いる器具の名称だけど……くすりおろし、って呼んだ方が馴染み深かったか?」
「薬研だの、くすりおろしだのと聞いて、馴染み深さを感じるわけねーだろ、クソが!!」
「薬研は、俺のアパートの真下の階に住んでる、澤田さんがくれたんだ」
「どういう経緯で、んなもんよこしてきた」
「作り過ぎたカレーをお裾分けしたら、御礼にくれた。薬研の扱い方も、澤田さんから聞いたんだ。ちなみに、漢方を処方してくれたのも、その人だよ」
「信用できんのか、ソイツ……」
「NASAで働いてたんだって」
「なら、知識くらいは持ってそうだな。信用はできねーけど」
NASAに勤めていたという言葉に対して、ツッコミは入らなかった。
コーブツは、キッチンで立ったまま、白湯が入った湯呑みを手にする。
「ぬりぃ……」
「白湯は熱すぎるのも、ダメなんだよ」
「で?」
「これ、」
「なんだこれ」
何の薬かわからないが、コーブツはタカキが答える前に、それを飲みきった。
飲んだ後に、べっと舌を出す。
「少し、甘いな」
「コーブツは、千金翼方って、知ってる?」
「中国の医学書のことだろう」
「その記述によると、琥珀は、精神を安定させて緊張や不安を鎮める働きを持っているんだって」
「やっぱり、琥珀か。結構貴重なものだぞ」
「そうなんだ?」
タカキの言葉を聞いて、コーブツは、もう一度、白湯に口をつけた。
「中国では、古来より琥珀という宝石は、虎が死んだ後、その身が地球に還り、石となったものだと考えられてきた。だから、琥珀は、昔から貴重な宝物として扱われてきたんだ」
「霊験あらたかなものだったんだね」
「あぁ。ヨーロッパの方では、魔除けとして身に付ける奴の方が多かったらしいがな」
コーブツが普通に話しているので、タカキは内心、ホッとしていた。
「落ち着いた?」
「……」
「琥珀の力なら効くんじゃないかと思って」
「……チッ、テメーは、本当に憎たらしい人間だな」
髪の毛をぐしゃぐちゃと掻き毟って、コーブツはずれた眼鏡を乱暴に手のひらで押しあげた。
そのまま、キッとタカキを睨みつける。
「安眠効果も期待できるらしいよ」
「残念だったな。こっちは、毎日安眠してんだよ」
「その眼で言っても、説得力ない」
「……」
「そんな顔してたら、大好きな鉱物たちも心配するよ」
タカキのその一言が、決定打となった。
一瞬、部屋が静まりかえる。
コーブツは、大きな溜息を吐きながら、湯呑みを流し台に置いて、言った。
「……鉱物の研究を続けるのは止めろって言われた」
「誰から?」
「知らねぇ奴。けど、なんで、俺の研究に対して口出されなきゃいけねーんだよッ、くそが! シネ!」
頭をおさえるコーブツを見て、タカキは、ふと天井を見上げた。
「コーブツの夢は、あの時から、ずっと変わってない?」
「は? 当たり前だろ」
「なら、俺は応援する」
「……」
「コーブツは、コーブツの好きな研究をするべきだ。誰に言われても、それを止める必要はないと思う」
「テメーが、語るな」
「うん」
「言われなくても、俺が俺の考えを変えるわけねーだろ。次に何か言ってきたら、八つ裂きにしてやる」
「コーブツが人間を相手にするなんて、珍しいね」
「……ソイツの研究資料をいくつか、読んだからな」
「なんだ。同じ鉱物学者だったのか」
「……あぁ」
「その様子だと、相手は、アマチュアの鉱物博士じゃなさそうだね」
「知らねーよ。他人だ。興味もねぇ」
「そっか」
タカキは、コーブツの性格を少し理解していた。
コーブツが、こんなに心乱されるのは、珍しい。
おそらく、タダの鉱物学者ではないのだろう。
タカキは、そう予測していた。
そして、それは、当たっている。
タカキは、シンクの中の湯呑みを洗いながら、言った。
「今日は、瞳さんは帰ってくる?」
「あぁ」
「じゃあ、帰るよ」
「だから、さっさと帰れっつってんだろ」
「うん。長居してごめん。じゃあ、また」
「ケッ、シネ」
タカキが、キッチンから出て行こうとした、その時。
後ろから、コーブツがタカキの背中に声を投げた。
「今日は、持ってねぇ」
「……え?」
「次来た時にやる」
「……」
「その時まで、待ってろ」
それが、あの御礼のお菓子のことを言っているんであろうことは、すぐに理解できた。
だけど、コーブツの口から、そんなことを言われると思っていなかったタカキは、思わずキョトンとした顔をする。
「なんだ、その顔」
「……驚いてる」
「お前が驚くなんて、珍しいな」
「コーブツがそんなこと言う方が珍しいだろ」
「そんなことって、何だよ」
タカキは、一度下を向いた。
そして、ゆっくり顔をあげる。
「“待ってろ”って、初めて言われた」
タカキは、珍しくコーブツの前で、満面の笑みを見せた。
その顔を見て、コーブツは、眉を寄せる。
「それの何が嬉しい」
「コーブツには、わからないと思う」
「わかんねーな。理解する気もねぇ」
「また、来るよ」
タカキは、そう言って、振り返り際に小さな声で言った。
「待ってて」
その瞬間、コーブツの目が見開く。
キッチンの扉が閉まり、タカキの姿が完全に見えなくなってから、コーブツは自分の頭をおさえた。
「あのクソが、何が、俺にはわからないだ……!」
コーブツの言う“待ってろ”と、タカキの言う“待ってて”には、実は、同じぐらい重要な思いが込められていた。
コーブツの言いたかった言葉と、タカキが言いたかった言葉。
その意味がわかったコーブツは、一人舌打ちを鳴らした。
「チッ、俺にわからないことがあってたまるか。あの馬鹿が」
タカキに悪態をつきながら、コーブツは、自分のスマフォを取り出した。
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「ざまぁみろ」
不敵な笑みを浮かべたコーブツは、ようやく“らしさ”を取り戻したのだった。




