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地球は、今日も平和だった。
「行ってきます」
壁に貼ってある一枚の写真の裏側に向かって、タカキは言った。
タカキは、今年の春で大学二年生になった。
薄茶色の髪は、母親譲りだ。
ネープレスな髪型のタカキは、誰から見ても好青年のイメージしかない。
ただ、年の割には、童顔だった。
その上、平均身長より背が低い為、周りからは、よく高校生や中学生に間違えられている。
しかし、そのことについて、本人は全く気にしていなかった。
釣り目の大きな瞳は、緑色に輝いている。
眉毛は太く、キリッと上がっていた。
色白の肌は、傷一つ無く美しい。
タカキは、理由あって、この河童荘と言うアパートに一人で暮らししている。
ボロくて、今にも幽霊が出そうなアパートだが、タカキ自身は結構気に入っていた。
そんなタカキの日課は、まず、この写真への挨拶から始まる。
しっかりと拝んだ後に、タカキは準備をして家を出た。
「タカキ〜、おはよぉ~ちゃん」
「キョウカさん、おはよう」
「これあげるぅ~! はい、今日はクリームパン!」
隣の203号室に住んでいるキョウカさんは、いつも明け方に仕事から帰ってくる。
帰宅がてら、コンビ二で朝ご飯を購入する彼女は、貧乏学生のタカキに、よく、こうしてパンをお裾分けしてくれるのだ。
刺繍が細かくセクシーなベビードールに身を包んでいるキョウカさんは、長い髪をかきあげながら、タカキにパンを差し出した。
「ありがとう、キョウカさん」
「ふふっ、いってらっしゃぁい」
お色気たっぷりのキョウカさんは、ニコニコしながらタカキに向かって、得意のウィンクをした。
手を振りながら、タカキは、ボロボロの階段を下りていく。
一階に辿り着くと、一部始終見ていた親友のナイトが思い切り顔を歪ませていた。
「……おはよう、どうした?」
「どうしたもこうしたもないよ。おはよ」
「?」
「まーた、隣の人からパン貰ったのか」
「キョウカさん?」
「はぁ……他人から貰ったものを、無闇に口に入れたりするなよ」
「隣人だから、他人じゃない」
「パンぐらい、俺が買ってくるのに」
「それはいい」
タカキは、スッパリと断った。
クリームパンを頬張りながら、大学へと向かう。
だいたい同じ授業を取っているので、大学へ行く時は、ナイトと一緒に行くことが多かった。
「というか、あのアパート、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫」
「嘘付け。隣の人なんて、引っ越ししてから、一度も顔を会わせたことないんだろ?」
「201号室の人は、見たことないけど、203号室のキョウカさんとは毎朝話してるし、101号室の管理人の山田さんは、オカマバーの店長してるらしい。102号室の澤田さんは、NASAで働いてたって言ってた。103号室のご夫婦は、最近プチトマトの栽培を始めたって」
「待て待て待て!! 要は、201号室は身元不明で、203号室はホステスで、101号室はオカマで、102号室は大嘘つきで、103号室は野菜好きの良いご夫妻ってことだろう?!」
「103号室以外の人たちも、いい人だよ?」
「信用できるか! なんだよ、NASAって! NASAで働いてた奴がこんな所にいるわけないだろう?! と言うか、日本に何しに来たの?!」
「働くのに疲れて、バカンスに」
「それで、このアパートに?!」
「五年前くらいに、引っ越してきた」
「バカンス長すぎるだろう! 世間では、それをニートって言うんだよ!」
ナイトは、やれやれと頭をおさえた。
タカキは、キョトンとした顔で首を傾げる。
「まぁ、いいや。タカキは、今日もアルバイト?」
コクンッ。とタカキが頷くと、ナイトは「そっか、」と肩を竦めた。
「……?」
「いや、タカキと放課後も遊びたいなって、思っただけ」
「ごめん」
「謝るなよ。それに、タカキは生活の為に働いてるんだし……偉いよなぁ」
タカキが首を横に振ると、ナイトは苦笑した。
タカキは、無口なわけではない。
ただ、ベラベラと余計なことは話さないタイプなだけだった。
どちらかと言えば、人の話を聞く方が得意だったりする。
無表情にも見えるが、慣れた相手だと結構表情を出すので、無愛想というわけでもない。
「あー、俺も、タカキと同じところで、バイトできたらなぁ」
「ナイトも忙しいだろ?」
「んー、まーね……」
ナイトは、何とも言えない顔をした。
瀬文城騎士。
それが、ナイトの本名だ。
名前の漢字が騎士とも読めるため、周囲からは「ナイト」と呼ばれている。
セブキ財閥と言えば、高級ホテルを経営していることで有名だ。
世界に名高いお金持ちである。
ナイトは、そのセブキ財閥の御曹司だった。
アッシュグリーンの髪色に、濃い茶色の瞳と長い睫。
短い髪は、毎朝しっかりとセットされている。
タカキ以外の人の前だと崩れることのない「鉄壁の微笑み」を浮かべるナイトは、まさに非の打ちどころのないイケメンだった。
そんな財閥の御曹司のナイトは、本来なら遊んでる暇もないくらい忙しい。
「……」
「そんな顔しないでも、わかってるよ。会社のパーティーには参加しなくちゃいけないし、習い事だって、沢山ある。だけど、成績は落とせないし、課題もいっぱいだ。でも、せっかくの大学生活なんだから、少しくらい遊んでもいいだろう? それに、俺の父さんも、友達と遊ぶ時間は大切にしなさいって、言ってくれているから、大丈夫」
「来週の土曜日なら、バイト入ってない」
「え!」
「何処か行くか?」
タカキがそう言うと、ナイトは何度も頷いた。
大学では、王子だの、御曹司だの言われているナイトが、こんなに感情を出して喜ぶことは、滅多にない。
「じゃあ、俺プラン考えとく! 行きたいところあるなら、教えて!」
「わかった」
ナイトの機嫌が浮上したので、タカキはニコリと笑った。
その瞬間に、ナイトがドキッとした顔をする。
「あのさ、タカキって、そこまで口数多くないのに、なんで、そんなに表情豊かなの?」
「表情豊かか?」
「差が激しいのかな? 真面目な顔してる時と、ニコニコしてる時の差が凄い」
「そうか?」
自分の頬を抓って表情筋を確かめてみるが、タカキには、よくわからなかった。
ただ、ナイトはいつも笑っているけれど、その笑顔が貼り付けているような笑顔であることを、タカキは見抜いている。
それでも時折、タカキの前では本当の顔で笑っているから、タカキからソレを指摘したことはない。
知られたくないことや、話したくないことくらい誰にでもある。
タカキは、いずれナイトが話したいと思った時に聞くようにしようと思っていた。
◇◇◇
「一本!!それまで!!」
審判の合図と共に、試合が終わった。
タカキは、対戦相手に手を差し伸べ立ち上がらせると、礼儀正しくお辞儀をした。
「すげぇよな、タカキさん! 見たか、あの動き! 人間の速さじゃねぇよ」
「俺、この間、柔道の試合も観に行ったけど、自分よりも三倍くらいデカイ相手を投げ飛ばしてたんだぜ!」
「俺が観に行った試合では、ブラジリアン柔術で相手を一撃で床に沈めてた!」
「すげー!あの人、いくつ極めてるんだよ!」
「でも、どこにも所属していないんだろ?」
「不思議だよな、デカイ大会には出ないし、出るとしたらこういう練習試合とかだけらしいぜ」
「勿体ねぇよなぁ~!」
タカキの噂が流れる中、タカキは一人淡々とロッカーに着替えに行っていた。
道着を脱いで、タオルで汗を拭いていると、更衣室のドアの方からパチパチと拍手の音が聞こえてきた。
「練習試合、連戦連勝おめでとう。相変わらずだな」
「……ありがとう」
タカキの拭っていたタオルを取り、代わりにナイトは、ミネラル飲料を手渡した。
「それにしても強いよな、どこで習ったんだ?」
「昔、学校で習った」
「空手も柔道もブラジリアン柔術もか? 確か、弓道と剣道とサバットとカポエラーもやってたよな?」
「全部習った程度だから、そんなにできる方じゃない。俺より強い人、沢山いたし」
「お前の通ってた学校、どうなってるの?」
ナイトは、やれやれと頭を掻いた。
「ところで、土曜日だけどさ、お台場にVR会場ができたんだけど、知ってる? バーチャルリアリティーで見られるプラネタリウムとか、凄く楽しそうなんだけど、どう?」
そう言いながら、ナイトはタカキに入場チケットを見せた。
すでにチケットを用意しているあたりが、ナイトらしい。
「チケット代」
「招待券だから、いいよ」
「……昼飯、俺が出す」
「ククッ、タカキって、ほんと律儀だよな」
「土曜日、楽しみにしてる」
「俺も!」
ナイトの手からチケットを1枚取ったタカキは、ニコリと笑って答えた。
◇◇◇
金曜日の夕方。
ピンポーン。
タカキは、ある家のインターホンを鳴らした。
すると、インターホンのカメラがタカキを認識した瞬間、自動で解錠した。
「お邪魔します」
誰の姿も見えないが、タカキは律儀にそう言って、ドアを開けた。
もちろん、何の返事もない。
タカキは慣れた様子で、部屋の奥へと進んで行く。
そして、ある扉の横の白い壁の前に立つと、扉を無視して、その白い壁にコンコンッと2回ノックをした。
すると、壁から、モニターとテンキーが現れた。
『暗証番号ヲオコタエクダサイ』
「えっと、――――」
パスワードは、毎回変わる仕組みになっている。
テンキ―で16桁の番号を打つと、今度は壁からキーボードが現れた。
「今回は、このタイプか……」
タカキは持っていた携帯とテンキーをコードで繋げて、解析を始めた。
目の前のモニターには、暗証番号ではない不思議な言葉の羅列が映し出されている。
それを目で追いかけながら、タカキは目にも止まらぬ速さでキーボードを打ち出した。
一分後。
『暗証番号ヲ確認シマシタ。扉ヲ解錠シマス。』
暗証番号タイプのセキュリティなど、タカキには数分で解析できるものだった。
白い壁がテトリスのように割れ、みるみる内に左右に開いていく。
そうして現れた廊下を、タカキは、当たり前のようにして進んだ。
「コーブツ、持ってきたよ」
「あぁ?! なんだ、また、お前入ってきたのか?! クソッ! 何度、暗証番号変えても無駄じゃねーか!」
「これと、これが頼まれてた本のコピー。あとコレは、夕飯」
「寄越せ! そんでもって、用が済んだなら、お前は、さっさと帰れ」
タカキが買ってきたMASのハンバーガーに噛り付きながら、コーブツと呼ばれた男は、お礼も言わずに、資料を読み漁った。
真っ黒な黒髪に、真っ黒な瞳。
分厚いレンズの眼鏡をかけた彼は、いつも白衣を着ている。
その姿をジッと見ていると、タカキの方を見ずに、コーブツはタカキに向かって、キャラメルを指で掴んで、差し出した。
タカキは、何の躊躇いもなく、それをコーブツの手から食べる。
これが、口に出しては言わないコーブツなりの御礼の仕方だった。
コーブツは、タカキの同級生だ。
タカキは、中学の時に、海外から理由があって引っ越してきた。
中学生の頃からタカキとコーブツは、とても頭が良く、周りから一目置かれていた。
二人とも常に一位だったので、中学では二位が出ないことで有名だった。
口数少なくとも周りから慕われてしまうタカキに対し、周りとは完全に線を引き、人と関わることを拒絶したコーブツ。
変わり者扱いされていたコーブツだったが、不思議と苛められることはなかった。
「コーブツは、普通とは違う」
その認識が広まっていたせいか、コーブツと積極的に関わりたいと思う人間は周りにいなかった。
だが、そんなコーブツもタカキとは普通に関わっていた。
本人曰く、ペアを組まされたりする時に、いちいち誰かと関わるのが面倒だったらしい。
決して仲が良かったわけではないけれど、周りから見たら、二人は、いつも一緒にいるイメージだった。
当然、高校受験でも県内一の学校にトップで合格。
二人とも入試は満点だったが、首席として人前で挨拶するのをコーブツが死ぬほど嫌がったため、首席の挨拶は、タカキがした。
高校三年間も中学と似たようなものだったが、一つだけ違っていたのは、コーブツが女子にモテ始めたことだった。。
クールなところがかっこいいだの、将来有望だの囃し立てられ、積極的に絡まれるようになると、いよいよコーブツは不登校になった。
コーブツは、人間が大嫌いだった。
だが、学校側も首席のコーブツを高校中退させるわけにはいかなかった。
テストをやれば、満点を取るのは、当たり前。
コーブツにとって、学校の授業など、もはや関係なかった。
結局、学校側は何としてでもコーブツを退学させない為にありとあらゆる手を尽くした。
しかし、当の本人は、全く学校に対して興味も愛着も無く、大学も行かないつもりでいた。
だが、タカキの一言で、コーブツのそんな考えも変わることとなる。
「日丸大学の学生しか閲覧を許可されていない専用大学図書館の秘蔵庫に、確かコーブツが興味ありそうな鉱物に関する資料が沢山あったよ」
「行くわ」
コーブツの唯一の興味の対象が「鉱物」だった。
こうして、タカキの神の一声により、コーブツはあっさりと受験を決めた。
それ以来、タカキは高校を卒業するまで、ずっと教師たちに感謝され続けたのだった。
コーブツは、高校の間、気まぐれに授業に参加した。
そういう日は決まって、タカキと共に帰り、鉱物について論議する。
頭の良いコーブツにとって、タカキは唯一、話が成立する相手だったのだ。
そんな二人は、無事に日本で一番の日丸大学に合格したのだが、案の定、コーブツはすぐに研究室をジャックし、更には自宅の研究室を広げて、新たな作業場を作ってしまった。
もちろん、研究費は全て大学持ちだ。
授業に関しては教科書を読んで、毎回、長い論文のようなレポートを提出することで、単位を貰っている。
まさに、特例中の特例だった。
天才が集まると言われている大学で、鉱物界の鬼才と呼ばれた男、コーブツ。
現役鉱物研究者として活躍する傍ら、海外からも注目されている。
しかし、当の本人は、鉱物博士だろうと名誉教授だろうと「人間」に関わる気は、一切なかった。
「コーブツ、」
「うるせぇ、喋んな、シネ」
「……」
コーブツは、資料を読むことに夢中だった。
タカキが声をかけても、振りかえろうともしない。
機嫌が悪そうなコーブツだが、タカキには、少し違って見えた。
「コーブツ」
「うぜぇ」
「機嫌いい?」
「……チッ」
舌唇を、人差し指で叩く癖は、コーブツのご機嫌な時に出るものだ。
タカキの言葉に、コーブツは一瞬目を細めた。
生意気な奴だと言いたげな視線を送りつける。
コーブツは、資料を乱暴に机の上に放り投げて立ち上がると、すぐに自信満々のしたり顔になった。
「フッ、まぁな。俺は、先日とんでもない発見をした。それ以来、心が浮かれてしょうがないんだ」
「何か見つけたの?」
「これだ」
「……?」
「角島の祠で見つけた、新種の鉱物だ! おそらく、他の海から流れ着いてきたのだろう。こんなに、小さいが間違いなく新種のものだ……!」
コーブツのテンションが高い時は、いつも鉱物に関する発見があった時だけだった。
鉱物だけが、コーブツの心を動かすのだ。
コーブツにとっての鉱物は、人生の全てであり、もはや性の対象ですらあった。
目を輝かせながら、蕩けきった顔をしている。
完璧に興奮しきったコーブツが、息を荒くしながら、見せてきた鉱物は、小星型十二面体の形をした美しい鉱物だった。
「見ろ、この輝き、半透明な鉱物の中に淡い薄紅色と琥珀色の光が混じり合って、最高に美しいだろう……! こんな完璧な小星型十二面体のシルエットは、見たことが無い! しかも、削った様子がないんだ! まるで、奇跡を見ているようだ。これを俺が見つけることができたのも、俺が鉱物を愛しているから。鉱物も自ら選んで俺の元に来たんだろう。あぁ、美しい……! これがあれば、俺は、いくらでも……っ」
パクンッ。
「ぱくん……?」
「……あ、」
「ぬ、ああああああああああっっ?!!」
タカキは条件反射で、コーブツが自分に差し出してきたものを口の中に入れてしまった。
金平糖のようなそれは、タカキには一瞬お菓子に見えてしまったのだ。
「何やっとるんじゃ!! この愚かな人間風情が!! 俺の愛する鉱物に、なんてことを! しかも、新種の鉱物だぞ?! 新種だぞ?!すなわち、処女の鉱物に、こんな真似をするなんて、テメー非常識にも程があるだろう?! 吐け! 今すぐ吐けぇぇええ!!」
「コーブツ……」
「言い訳は聞かん!!」
「これ、舐めたら溶けちゃった」
「なんだと?!」
ベッと、舌を出して見せると、コーブツはタカキの口を両サイドに開きながら、じろじろと中を観察した。
「溶けた?! まだ細かく調べてなかったが、まさか、岩塩のように塩のような物質でできていたのか……? いや、溶ける速さからすると、コキンバイトの可能性も……馬鹿な。この湿気の多い日本に、あんな完全な状態で存在するはずない。可溶性があり、かつ日本でも見られる鉱物と言えば、アルノーゲン、コピアパイト……いや、あれも放射状に集合した結晶として、ある程度の形で残ることはあるが、小星型十二面体の形で発見されることはまずない。誰かが切り出したものだとすれば、相当な技術の持ち主だ。鉱物の結晶を壊さずにあれだけサイズで精巧な形を作るなんて……。いや、しかし、待てよ。俺が見つけたのは、角島の祠だ。あそこは、海も近い。今の鉱物が水に溶ける可溶性を持った鉱物だったとしたなら、俺が見つけた時には、すでに形が崩れていてもおかしくはないはず。誰かがあの場所に鉱物を置いて、その後、30分もしない内に、俺が見つけたという仮説を立てたならば、或いは可能性が出てくるかもしれないが、おそらく確率にしたら、相当低い数字になるだろう。……というか、場合によっては、お前死ぬぞ」
「!」
「あ、でも、お前、毒に耐性あるんだっけ」
「ちょっとなら……」
「なら、問題ないか。言っておくが、もし万が一お前が死んでも、俺には関係ない。それよりも、俺は、お前が俺の見つけた新種の鉱物を食べたことの方を訴えてやる」
「コーブツ、」
「あぁ?!」
「食べて、ごめんなさい」
「シネ」
当然のことながら、許してはもらえなかった。