-13
部屋の明かりをつけないまま、クラゲは、リビングの扉を開けた。
「今日もべっぴんさんだなぁ、お月さんよ」
満月の光が部屋に差し込む。
薄暗い部屋の物がかすかに見える程度の明かりだが、クラゲには、それで十分だった。
元々ゆるんでいたネクタイを外して、髪の毛を搔き上げる。
「さて、と。そんで、ここ一週間ほど、俺を尾け回していた理由を、そろそろ教えてくれるのかい。……お嬢ちゃん」
クラゲが振り返ると、暗闇の奥から真っ白な服の美少女が現れた。
透明感のある肌に、黄金の瞳。
腰まであるストレートの髪。
時空移動石、クロノスだ。
「俺、ほんと、最近ガキに好かれるなぁ」
「私は、貴方の千倍、生きてる」
「……お姉様かよ」
クロノスのその言葉に、クラゲは肩を竦めた。
そして、ゆっくりと彼女に近づく。
「俺、人間以外の生き物と会うの、これで二度目なんだけどさ。君、珈琲は、飲めるの?」
クラゲの質問に、クロノスはコクンと頷いた。
「なら淹れるから、そこに座って。美しい、リトルレディ」
年上だと告げても、なお、彼女を小さな女の子扱いするクラゲに、クロノスは苦笑した。
無表情だった彼女の顔が緩んだのを見て、クラゲも微笑む。
あたたかいミルクコーヒーを彼女に渡して、クラゲはソファーに座る彼女の隣に腰かけた。
「随分と落ち着いているのね」
「多少の不思議な事には、耐性がついてるんでね」
「そう、助かる」
「見れば見る程、美少女だな」
「私を少女扱いするなんて、奇特な人間」
「君は、何者?」
「私は、ミネラル星という星から来た。貴方たちの言うところの宇宙人」
「宇宙人って、本当に自分のこと、宇宙人って自己紹介するんだな」
そう言って、クラゲはクスッと笑った。
「変?」
「変じゃないさ。俺は、地球人の倉……」
「くら?」
「クラゲだ。クラゲって呼んでくれ。最近つけてもらったあだ名なんだが、結構気に入ってるんだ」
「わかった。私は時空移動石、クロノス」
「よろしく、クロノス嬢」
「よろしく、クラゲ」
クラゲの差し出した手を、クロノスはしっかりと握った。
握手の文化は、宇宙共通らしい。
「何だか、ここ最近予感がしていたんだ」
「どんな予感?」
「世界が面白くなりそうな予感」
そう言って、クラゲは握っていたクロノスの手をひっくり返して、その手の甲にキスをした。
「予感が的中した」
「面白いかは、わからないわ」
「面白いに決まってるさ。俺の心臓は、嘘がつけないからな」
クラゲは、紳士的な振る舞いの後に、全てを受け入れるような口調で言った。
「それで、俺は何をすればいい?」
クロノスは、飲んでいた珈琲をテーブルの上に置いて1つずつ丁寧に説明をした。
ミネラル星で、起きたこと。
そして、どうしてミネラル星のミネラル戦士たちが地球に来たのかという事を。
「なるほど、つまりは、その逸れたミネラル戦士たちを探しているんだな」
「いや、だいたいの場所は把握しているわ」
「そうなのか?」
「けれど、彼女たちの前に、今、現れるわけにはいかない。彼女たちは強くならないといけないから。彼女たちが成長した、その時まで……私は陰から彼女たちを見守ろうと思っているの」
クロノスの瞳は、ぶれなかった。
本当はすぐにでも助けてやりたかったが、それでは彼女たちを地球に送り込んだ意味がない。
そのことを、彼女はよく理解していた。
「そのミネラル戦士の一人と一緒にいるのが、あのタカキだってのか」
「えぇ。タカキ少年とライトは、他のミネラル戦士を探しているから、あの子達の側で、密かにサポートするのが一番良いと思ったの」
「でも、それなら、俺なんかより、あのナイトとか言う青年の方がよかったんじゃないのか? 俺より近くにいるし、サポートにはもってこいの人材だろう?」
「あの少年は、タカキの今の状況を説明したら、まず間違いなく、ライトと関わるなと言い出すと思って……」
「あー……納得」
ナイトと一度接触があるクラゲは、その言葉を聞いて、とても納得した。
「で、俺なら、いいと? 俺も結構、タカキ気に入ってるよ?」
「子ども嫌いなのに?」
「ひゅー、宇宙人って、どこまでわかるんだ?」
クラゲに、動揺した様子はなかった。
ただ、視線が少しだけ鋭くなる。
「私は、時を主る鉱物。対象物に触れれば、過去と現在、そして少し先の未来ならば、見ることができるわ。全てでは、無いけれど……」
「素直だね~。でも、そんな凄い力持ってあの子達に近付いたら、すぐバレるんじゃない?」
「私は、ミネラル戦士ではないの。だから、ライトも私の気配には、気付けない」
クロノスは、クラゲに頭を下げた。
「さっきは、あんな言い方をしたけれど、私はあなたが子供嫌いだから、貴方を選んだわけじゃないわ。貴方となら繋がれると思ったから、来たの」
「わかったよ。クロノス嬢の代わりに、タカキの戦いをサポートすればいいんだろう。でも、今の俺で大丈夫かな? 俺、結構、筋肉落ちたぜ?」
「見たところ、今は大分筋肉が衰えているけど、昔は違った。なら、肉体の時間を昔に戻せばいいだけよ」
「簡単に言うけど、それって魔法って言うんじゃねーの?」
「体験した方がわかるかもしれない。クラゲ、そこに立って?」
ソファーから立ち上がると、クロノスは、クラゲを窓側に立たせた。
「こちらを向いて、私から目をそらさないで」
「仰せのままに」
クラゲが頷くと同時に、クロノスは力を発動させた。
マンションの一室が黄金色に輝く。
時の魔法エネルギーがクロノスの身体から溢れ出た。
「――クロノス・ペルパタオ」
クロノスが呪文を唱える。
すると、部屋の時計の針がピタリと止まった。
携帯の時間も止まる。
クロノスから、出る光が、クラゲを包み込むと、その肉体をどんどん変化させていった。
手足が縮み、骨格が変わっていく。
細胞が逆流しているようだった。
髪も短くなり、大きな瞳が露わになる。
「……っ!」
時が戻っていく。
そうピュアだった、あの日まで。
「……マジかよ」
光が消え、窓ガラスに映る自分の姿を見て、クラゲは流石に驚いた顔をした。
目の前には、目の大きな少年の姿が映っている。
細い手脚。さらさらの黒髪。
「これ、俺が小学生の時の顔だぜ? すげぇ、魔法って、本当にあるんだな!……って、なんだよ、その顔」
クラゲが興奮した様子で振り返ると、そこには、あまり嬉しそうではないクロノスの表情があった。
真顔……と言うよりは、若干悲しそうな瞳をしている。
「もう少し、大きい青年を想像していたのだけど……貴方が心からピュアだった時って、随分と前のことだったのね……」
「いや、最近のガキは、もっと早くから絶望してたりするぞ?」
「ピュアな心を持つ時間が減っているだなんて……瞳の輝きは、どこへ行ったの」
「おーい、戻ってこい」
ピュアな頃に戻すと言っても、クロノスは、高校生くらいの青年を想像していたらしい。
まさか、こんな小さな時まで戻さないといけなくなるとは、予想外だったのだ。
「これって、そのミネラル・ライトちゃんとタカキみたいにクロノス嬢と融合したってことか?」
「いいえ、違うわ。私の力で貴方の体内の時計を戻しただけ。私と貴方が融合する事もできるけど、今はまだ、その時ではないでしょうから」
「いずれ……か。ま、この姿なら十分に戦えるから問題はないわな」
「その姿なら、どのくらいのレベルで戦える?」
「わかんねーけど、少なくとも、今このマンションから突き落とされても、生きてる自信はあるぜ」
超高層マンションの高い窓から外を見渡して、クロノスは答えた。
「それは、中々のものね」
「へへっ、よっと!」
クラゲは、二、三回、床から跳ねると、大きくジャンプして、部屋中を飛び回った。
まるで、忍者のような動きに、クロノスがニコリと笑う。
「表情が明るくなったわ」
「この姿のせいじゃね? 身体が自由に動くって最高だな~!」
「私にはわからないけれど、子どもから見る世界は、やっぱりキラキラと輝いているものなのかしら?」
「さぁな。でも大人になると、分厚いレンズをかけさせられたみたいに濁って見えている気はする」
そう言って、クラゲは、膝小僧の出ている足をぶらぶらと揺らしながら、カウンターに座った。
「身体が軽そう」
「軽い、軽い!」
「地球人とは、思えない動きね」
「普段は、くたびれたサラリーマンだけどな」
「タカキのこと、守ってくれる?」
「正直ガキの言うことは、あまり聞きたくなかったんだけど、クロノス嬢は俺より年上だし、何よりも、美しいレディーだ」
クラゲは、カウンターから飛び降りると、クロノスの前に跪いて、その手をとった。
そして、手の甲に再びキスをする。
「レディーの頼みは、断らないのが、イギリス紳士の絶対条件なのさ」
その言葉に、クロノスは、ホッとした顔をした。
「女でよかったのね」
「それに大前提として、俺は面白いことは見逃したくない性質なんだ」
「面倒ごとには、進んで巻き込まれに行くの?」
「そういうこと!」
クラゲは屈託のない少年の顔で笑った。
「ところで、クロノス嬢は、ここに住むのか?」
「居ても構わないのなら、そうしたい」
「ちなみに他に寝床は? 今まで、どこにいたんだ?」
「寝床は無いわ。今までは……あなたがよくいた公園とか?」
「よく、今まで無事だったなぁ、おい」
クラゲは、頭をおさえた。
どうやら、宇宙人には、危機感が無いらしい。
「よし。ここに住もう」
「ありがとう」
流石のクラゲも、こんな美少女を一人公園でホームレスさせるような甲斐性無しではない。
幸いにも、部屋は余っている。
「この家のものは、好きに使っていいよ。あ、でも、ご近所さんになんて説明するかな」
「説明が必要?」
「君の姿は、他の人間には?」
「見えるわ。でも、時空間に身を隠すこともできるから、貴方に支障があるようなら、外では隠れてるようにする」
「いや、それじゃあ、つまらないじゃん?」
キョトンとしたクラゲの言葉に、クロノスは目を瞬きさせた。
「つまらない?」
「せっかく地球に来たのに、隠れてばかりじゃつまらないだろ。堂々と歩けばいいよ」
クラゲの言葉に、クロノスは驚いていたが、当の言った本人は、不思議そうに首を傾げていた。
「ただ、普段の俺とクロノス嬢が二人で歩いていたら、ロリコンと疑われて、お巡りさんを呼ばれかねない。もし、俺がお巡りさんに連れて行かれそうになったら、全力で弁護してほしい、そこは頼むぞ!」
「私は、貴方達の世界では、何歳くらいに見える?」
「今の俺と同じ年くらいだろうなぁ」
「だいぶ幼く見えるのね」
「十八歳で俺がガキ作ってたら、可能性的には、俺の子でもいけるのか?」
「外では、パパと呼んだ方がいい?」
「……やめてくれ。それは、想像以上にダメージがでかい」
あぐらを掻いて座りながら、クラゲは項垂れた。
「そうだなぁ、じゃあ、クロノス嬢が大きい俺の近くにいる時は、俺のことは親戚のお兄さんって事にしておいてくれ」
「親戚のお兄さん? 親戚って?」
「なんて説明するかな……家族の家族みたいな? 血の繋がりって言うと重いか。とにかく、親戚だって言っておけば、家族のように親しい間柄だから、連れてかれる事はないと思う」
「クラゲが大きい時には、そうするわ」
「逆に俺が小さい時には、一緒に手を繋いで歩こうぜ。傍から見れば、かわいいカップルに見えるだろうよ」
「いいわ」
「え、いいの?」
「公園で見た子ども達も手を繋いでいたわ。それが、普通なんでしょう?」
「普通……はは、そうだな。子どもだったら、男も女もねーよな」
「?」
クロノスの言葉に、クラゲは苦笑しながら頷いた。
大人になると、そんな普通なことも忘れてしまうのだ。
「そういえば、クロノス嬢は、飯は普通に食べるのか?」
「食べれるけど、必要はないわ」
「食費がかからないのか。燃費がいいな」
「そうね」
「なら、たまには、俺のお茶に付き合ってくれ」
「もちろんよ」
「あと、俺の家には、たまにタカキが遊びに来るだろうから、その時は、奥の部屋にでも隠れていて欲しい」
「そうね。あの少年なら、気づきそうだけど」
「気付いたところで、勝手に部屋を漁るような奴じゃないから平気さ」
クラゲがそう言うと、クロノスは、首を傾げながら言った。
「出逢ったばかりなのに、随分と彼のことがわかっているのね」
「そう思うか?」
「えぇ、まるで長年の友のようよ」
クロノスの言葉に、クラゲは苦笑した。
「昔、友達だった奴に、目が少し似ているんだ。あいつ。だからかもな」
クラゲの瞳に、ゆらりと影が映った。
複雑そうなその表情を見て、クロノスは、クラゲの隣に腰掛けながら尋ねた。
「ザックのこと?」
「……やっぱり、お見通しか」
「貴方たちに何があったのかまでは、見えてないわ。私が見えたのは、貴方が子どもが嫌いだと思っていた強い感情の記憶の部分だけよ」
「そうか、」
クロノスは、同じくらいの背丈のクラゲの頬に、手をあてた。
「教えてって言ったら、貴方は答えてくれる?」
その問いに、クラゲは、天井を見上げながら、答えた。
「Zachary。あだ名はザック。俺の……親友だった男の名だ。あいつとは、俺がまだ小学生の時に知り合った。俺は、HeavensCollegeでも、飛び抜けた問題児で、よく学校を抜け出しては、外の世界で遊んでいた。俺がその時、ハマっていたのはバスケだった。公園で、バスケをしている時に、出逢ったのが、ザックだ。ザックは、親の都合で他国から来ていた外国人だった。最初の出会いこそ、衝撃的だったけど、俺たちはすぐに仲良くなった。俺があいつに勉強を教えて、あいつが俺にバスケを教えてくれたんだ」
クラゲにとっては、人生を変えるような出会いだった。
まさか、“外にいる人間”に、バスケを教わることになるなんて、思いもしなかったからだ。
それも、同じ年の人間に。
クラゲは、学校でも優秀な生徒だった。
そのせいか、同じ歳の生徒を見下す面があり、生意気そのものだった。
だが、ザックは、そんなクラゲの鼻先をポッキリ折っていったのだ。
「あいつは、凄い奴だった。バスケが上手いだけじゃなく、人としても、尊敬できる奴だった。同じ年なのに、すでに“感謝”を知っていた。人に親切で、優しくて、俺は、どうしてそんな気持ちになれるのか、不思議で仕方なかった」
クラゲにとって、ザックは、不思議な生き物だった。
「ザックが苛められている場面に遭遇したことがある。理由は、バカみたいな内容だった。肌の色とか、髪の色とか。ジンジャーボーイって、あだ名をつけられて笑われてるのを見た時は、さすがにキレて、言ったやつをボゴボコにしてやった」
「そんな喧嘩をして、ザックには怒られなかったの?」
「見てないところで、やったに決まってるだろう。嫌われたらイヤだし。まぁ、翌日からザックを見て逃げる彼奴らの姿を見て、薄々気付いてはいたと思うけど」
どんなに虐められても、ザックは決してそのことを誰かに言いつけたりはしなかった。
「あいつは、笑って大丈夫だと言っていたけど、俺はそのことを不満に思っていた。そのことだけじゃない。理不尽なことを言われたり、不平等なことを強いられている姿を、それから何度も目にした。それなのに、あいつは、ちっとも不幸そうに見えなかった。つまらないと学校を抜け出している俺なんかよりも、ずっと人生を幸せに生きていたんだ」
ザックは、明るい少年だった。
優しく、穏やかで、だけど、芯が強くてブレない。
そんな彼を見て、クラゲは、己の中の常識が変わっていくのを感じた。
「あいつといると、世界が少しだけキラキラして見えた。それは、あいつの瞳がただ真っ直ぐに夢を追いかけていたからだと思う。強い信念を持つ瞳と、努力する姿に動かされない奴はいない。だから、あいつにある時、聞いてみたんだ。どうして、そんな理不尽で、不平等で、非常識な世界で、楽しそうに笑っていられるんだって。そうしたら、あいつなんて言ったと思う?」
「わからない」
「バスケが楽しいと、全てを忘れてしまうんだと。世界一の馬鹿だと思ったね。それと、同時に、こいつには、一生勝てないと思った」
ザックは、将来バスケット選手になることを夢見る少年だった。
才能に溢れていたが、残念なことに、彼の家は、そんなに裕福ではなかった。
その為、ギフテッド・チャイルドとして、HeavensCollegeに入学することはできなかったのだ。
「勿体ないと思ったけれど、学費が払えないんじゃ仕方なかった。よっぽどの才能があれば、免除の道もあっただろうけど、バスケの才能だけでは、HeavensCollegeへの入学は、許されなかった。だけど、あそこが世界の全てじゃない。たとえ、学校の外だろうが、中だろうが、プロのバスケプレーヤーには、なれる。だから、俺たちは約束したんだ。絶対に二人で、プロになろうって」
それは、二人だけの約束だった。
それまで不真面目に生きていた問題児のクラゲにも、初めて、本気でなりたいものができたのだ。
「俺は、その後、本気でバスケを練習するようになった。そのせいで、なかなか外に出られなくなったけど、あいつとした約束があれば、会わなくても平気だと思っていた。中学までは、マメに連絡を取っていたけれど、高校になってから、全く連絡を取らなくなった。理由は、俺がHeavensCollegeに監視されていたからだ。あそこは、そういう場所だからな。結局、真面目に勉強して、ストレートで大学を卒業して、プロになった」
プロになった日のことを、クラゲは今でも鮮明に覚えていた。
「俺とザックは再会したのは、入団が決まった瞬間だった。あの時の興奮ったら、なかったぜ。絶対に来ると思っていた相手が、目の前に立っていたんだ。俺は胸を震わせた。ようやく、こいつとバスケができるんだって」
だが、その幸せと興奮は、そう長くは続かなかった。
クラゲの表情に影が落ちる。
「入団から、一年半が過ぎた時。俺たちが将来を期待され、雑誌のインタビューにも出始めていた頃だった。あいつが事故にあった。目の前で車に轢かれそうになっていた女の子を助けたらしい。その時、ザックは、左足を失う怪我を負った」
その時、側にクラゲはいなかった。
クラゲが事故のことを知ったのは、ザックが病院に運ばれた後のことだった。
「世間は、ザックを英雄として報道した。女の子は、無事で、彼女の家族も喜んでいた。でも、あいつは夢を失ったんだ。俺は、どうしても、それを良しと思えなかった。今まで、あいつがどんな理不尽な目にあってきたと思う。どんな不平等な世界で戦ってきたと思う。そんな中、あいつは夢を諦めず、ようやく手にした場所があったんだ。それなのに……っ」
クラゲは、自分の目を手で覆った。
彼女が無事でよかった。
ザックは英雄だ。
そんな言葉が耳に入る度、心がめちゃくちゃにされるようだった。
まるで、心がミキサーにかけられたみたいに、ぐちゃぐちゃになる。
彼女が無事で良かったとは、思う。
だけど、そうじゃなかった。
そこじゃないのだ。
それが、素晴らしい事だと言われるたびに、それだけで消せない思いが、クラゲの胸を締めつけた。
「何故、神様は、あいつの目の前で、あの子を飛び出させたんだ……ッ! あいつがそんな場面に遭遇したら、助けることなんてわかっていた! どうして、ザックじゃなきゃダメだったんだ! ザックには、未来があったのに。ようやく手にした自由があったのに。どうして、あいつから、それを奪うようなことをするんだ! 社会に不平等があるのも、理不尽な人間がいるのもわかる。だけど、どうして神様までもが、そんな未来を選ばせるんだ。……俺は、どうしても、その感情を捨てきれなかった」
ザックは、当たり前だが、引退を表明した。
そして、それと同時に、クラゲも、引退を宣言したのだ。
現役選手として、期待されていたクラゲの引退は多方面から問題視された。
だが、誰もクラゲの意見を変えることはできなかった。
「もちろん、ザックとは喧嘩になった。ザックは、俺は大丈夫だから、お前は、バスケを続けてくれと俺に言った。だが、その言葉で、俺はキレてしまった。あいつにとってのバスケは、そんなに簡単に諦められるものじゃなかったと知っていたからだ。それなのに、大丈夫だと言った、あいつに腹が立った。絶望の中で叫ぶ“大丈夫”という言葉に、一体どんな意味がある。ただの強がりだろう。何故、何かを責めたりしない。どうして、こんな状況なのに、笑おうとする。そう思ったら、もう冷静ではいられなかった、俺は、あいつに向かって叫んだんだ。『俺の夢は、ただのバスケの選手になることじゃない。お前と、プロになって一緒にバスケをするのが夢だったんだ』と。その時の、あいつの顔は、今でも忘れない。傷付いたような、絶望したような、震えた目をしていた。どんな理不尽なことを言われても、笑っていたのに。俺があんな顔をさせた。……親友だった俺が、多分、あいつを一番深く傷つけたんだ」
「後悔してるの?」
「どこから? あいつが事故にあった時から? それともあいつと出会った瞬間から? もしくは、俺が生まれてきたこと?」
「そんな目をしないで。あなたの瞳は、大きくてキラキラと輝いているはずよ」
そう言ったクロノスの顔を見て、クラゲは苦笑した。
「あぁ、この頃の俺は、何も知らなかったからな。絶望も理不尽も不平等も。逃げる苦しみも、償えない罪の重さも」
小さな手のひらを見ながら、クラゲは、その手をギュッと握りしめた。
「わからないんだ。あいつが、どんな状況でも、笑っていた理由が……俺には、理解できない。あれから、逃げるようにして、日本に来た。今のブラック企業に入社して、もう何年も過ぎたが、未だに、その気持ちはわからないままだ」
「ザックの気持ちを、理解したいから、今の会社に入ったの?」
「どうだろうな。ただ不平等で理不尽な世界にいたら、何か分かるかもしれないと、働かない頭で考えていたのは、確かだ。俺なんかが、理解はできないだろうが、せめて……あいつが言った、大丈夫の意味くらいは、理解できるようになりたいと思ったのかもしれない。言い訳にしか聞こえないけどな」
「そんなことない。もし、あなたの中にピュアな心が残っていなかったなら、私は、貴方の時間を戻せる事ができなかった」
「どういう意味だ?」
クロノスは、ソファーから降りて、クラゲの前に跪いた。
そして、今度はその手を持ち上げて、クラゲの真似をする。
手の甲にキスをおとし、クロノスは言った。
「貴方の心に残っているの。最高にピュアで、汚れていない愛が。きっと、あの少年にも、それが見えているわ」
「少年って、タカキか?」
「えぇ、そうよ。白クラゲさん」
「……!」
クラゲは、ビクリと肩を揺らした。
そんな事はないと、力なく首を横に振る。
自分にピュアな心が残っているなんて、信じられなかった。
「私は、嘘をつかない。つく必要がないからよ」
「だけど、俺は……」
「貴方が知るべきなのは、あの時の、彼の気持ちではないわ。本当に知るべきなのは、貴方自身の気持ちよ」
手を両手で丁寧に握られ、クラゲは眉を寄せた。
苦しそうに顔が歪む。
「俺、俺の気持ち……そんなのは、とうの昔に忘れたよ」
「感情には、愛や喜びだけでは、感じられない想いがある。悲しみや、怒りも、時には必要で、それが愛に繋がることもあるということを、知って欲しい。貴方達人間は、宇宙の中では、そんなに強い生物ではないけれど、他の惑星の住民たちが持っていない唯一の力をもっているわ」
「唯一の力?」
「えぇ、私たちはその力を求めて、地球に来たの」
クロノスは、そう言って、空に浮かぶ月を仰いだ。
クロノスの透き通るような瞳に、月が浮かぶ。
クラゲは、そんな彼女を見ながら、静かに目を閉じた。




