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陽が沈み、綺麗な月が現れた、夜の二十時過ぎのこと。
タカキは、この日、トレーニングもかねて、公園をランニングしていた。
正確には、百メートル走を走るような速度で、公園を何周も走っていたのだが、十五周目を回ったところで、公園のベンチにいる男性が、ベンチから転げ落ちたところに遭遇した。
「……」
盛大に落ちたので、怪我をしているかもしれないと思い駆け寄る。
タカキは、酔っ払いらしき男性に、声をかけた。
「あの、」
「んあ、いっててて、」
無精髭を生やし、ぼさぼさの髪の毛に、くたびれたネクタイを締めている彼は、声をかけてきたタカキを、焦点の合わない目で見つめた。
「大丈夫ですか?」
「あ? 誰だ? 女神か?」
「人間の男です」
「ははっ、坊ちゃんか~、惜しいな。これで美少女だったら、恋が生まれたかもしれないのにな! ははっ、おげぇ」
恋が生まれる瞬間に吐かれたら、その瞬間に恋が終わるだろう。
ひょろひょろと縦に長い男が、ベンチに巻きつくようにして、しがみついている。
タカキは、放っておくことができず、彼をベンチに座らせると、コンビニへと走った。
「やべー……飲み過ぎた、頭が痛い」
「はい、これ、飲んで」
「あ? 水か?」
「そう。二日酔いになりそうなら、明日は、シジミの味噌汁飲むといいよ」
「シジミの味噌汁なんざ、定食屋以外で食べさせてくれるところあんのか?」
「今は、インスタントのカップで売ってる」
「……手作りがいいなぁ。手作りの味噌汁飲んだのなんて、何百年前の話しだろうなぁ」
「自分で一から作ると時間がかかるだろうから、砂抜きしてあるシジミを買うといいよ。あとは、クックパッドとか見たらできると思う」
「詳しいね。料理とかすんの?」
「時々」
「凄いなぁ。俺、史上最悪に不器用だから、作れる気がしないね。と言うか、キッチンなんて使ったことがねぇの。システムキッチンなのに、勿体ないと思わねぇ? どうして、使ってないんですかって聞いて」
「どうして、使ってないんですか」
「いずれ、可愛いお嫁さんが来て、あったかい料理をたくさん作ってくれると期待してたから、家を買う時に、最高級のお部屋にした馬鹿がこちらです」
「おめでとうございます。お嫁さんは?」
「いたら、こんなところでくたびれたサラリーマンしてねーだろ」
「成程。それじゃあ、可愛いお嫁さん見つけるの頑張ってください」
「ちょっと、待った」
タカキは、早々に立ち上がって、その場を離れようとした。
だが、男がタカキの肩を掴んだことにより、タカキはその場から動けなくなってしまう。
タカキが斜め上を振り返りながら、無言の訴えをかけると、男は、とんでもないことを言いだした。
「お前、俺の嫁にこないか?」
「いきません」
「即答かよ! まっ、冗談だけど!」
ボリボリと頭をかきながら、男はあっけらかんとした顔でタカキを誘う。
「ちょっと、お兄さんに付き合ってよ」
「怪しい人には、ついて行くなって言われてるんで」
「俺の名前は、倉木。ほら、これで知り合いになっただろう?」
「クラゲ?」
「くら……まぁ、いいよ。それでも」
「俺、お金持ってないですよ」
「大丈夫、大丈夫! カツアゲしようとか、微塵も思っちゃいないから! ただ、ちょっとだけ……シジミ汁作ってくれるだけでいいからさぁ~」
「今からですか?」
「シジミ汁飲まないと、俺、明日ここで冷たくなっているかもしれない」
「……」
怪しい誘いかと思いきや、わりとガチなトーンで懇願されてしまった。
どうやら、相当シジミ汁が飲みたかったらしい。
酔っ払い相手に、何を言っても無駄だ。
タカキは、仕方ないと諦めて、男に肩を貸した。
◇◇◇
クラゲの家は、公園から五分のところに建っている高級マンションだった。
「本当に、立派な家に住んでるんですね」
「だろ。一階は、スーパーと薬局。二階には、病院。近くには、大きな公園。駅から、徒歩二分! なーんで、こんないい部屋に一人で暮らしてるんだろうね~、俺」
「その内、見つかりますよ」
「つか、いつの間に敬語? フランクに行こうぜ〜! おじさん、寂しくなっちゃう!」
「……じゃあ、台所借りるよ?」
「あ、エプロンあるぜ!」
クラゲは、本当にタカキにシジミ汁を作らせた。
今日会ったばかりの人間を家にあげるのも物騒だと思うが、タカキはあまり深く気にしないことにした。
クラゲは、どことなく不思議な雰囲気を持っている。
それこそ、クラゲのようだ。
ゆらゆらと、揺れていて、掴めない。
今も、台所に立つタカキを見ながら、吐き気と戦っている。
「うぷっ、わりっ! トイレ」
「どうぞ」
タカキの家ではないのに、何故かタカキが許可をしてしまった。
相当、飲んだのだろう。
アルコールの消化を助けるための料理も作ろうと、タカキは少し買い込んでいた。
「ふぁー……スッキリ」
やがて、全てを出し切って、だいぶスッキリした顔の男がトイレから出てきた。
清々しいような、気の抜けたような顔を見て、タカキは眉をあげる。
「シジミ汁できたけど、今飲む?」
「飲む! 二杯入れて!」
「二杯?」
「一緒に食べるだろ?」
「!」
当たり前のように、言われて、タカキは断るタイミングを見失ってしまった。
タカキが、流されることは、珍しい。
言われるがままに、シジミ汁を茶碗に二杯注ぎ、おまけのおつまみも出した。
「お、これは?」
「卵焼きの間に、蜂蜜で漬けた梅とシソを挟んだもの。どれも、お酒を分解するのに適した食材だから、ちょうどいいかなって。あと、白米のおにぎり」
「お前……マジで、嫁になるか?」
「ならない」
「冗談だよ、いただきます!」
ちゃんと手を合わせて、いただきますを言うクラゲの姿を見て、タカキは、どこか安心した。
怪しい人には変わりないけれど、どうやら悪い人ではなさそうだ。
「なぁ、名前聞いてもいいか」
「タカキ」
「タカキか。タカキは、あそこで何してたんだ?」
「ランニング。走り込みしときたくて」
「大会でもあるのか? 陸上部とか?」
「いや、部活には入ってないよ」
「高校で、それだけ身体鍛えようとしていて、部活に入っていないなんて、勿体ないな。それとも、あれか。外で習い事とか、チームに所属してるのか?」
「あの、」
「ん? あ、待った。これめちゃくちゃ美味い! ヤバい、身体に染み込む……!」
話の主導権も、すっかり奪われていた。
「ごめんな、美味しくて、すっかり夢中になっちまった」
「いえ、美味しかったなら、よかった」
「いい子だなぁ。お人好し過ぎて、おじさん、ちょっと心配になるぞ」
「連れてきたクラゲさんが言うの?」
「それ、なんかいいな。クラゲさんって、あだ名。俺にぴったり」
クスクスと笑うクラゲは、本当に美味しそうにタカキの作ったご飯を平らげていく。
予想以上に箸が進んでいるのを見て、もう少し何か作ればよかったと、タカキは後悔していた。
「あのさ、タカキは、一人暮らしなのか?」
「え、」
「こんな時間まで、連れまわしているのに親御さんに連絡を入れる気配が一切ないし、料理も凄く手際が良かったし、下で買い物するときも、手慣れてたからさ。何となく、一人で暮らしてるのかなって」
「一人暮らしだよ」
「マジか。若いのに、大変だな」
「若いと言っても、俺、大学生だから」
「え?」
「大学生二年生」
タカキの言葉に、クラゲは、細かった目を大きく見開いて、パチパチと瞬きをした。
「マジ?」
クラゲの質問に、タカキはコクンっと頷いた。
「マジかー」
「俺が高校生だったら、夜まで連れまわしたってことで、クラゲさん捕まってもおかしくないと思う」
「さっきまで、酔ってて、そんなとこまで考えられなかった」
「犯罪者一歩手前」
「だよな~、はは、タカキが大学生でよかったよ」
そう言って、クラゲは思い立ったように、タカキに言った。
「あ、酒飲む? 大学生なら飲んでもいいよな?」
「いえ、十九歳なんで」
「十代か! わっかいなぁ~」
「クラゲさんは、いくつ?」
「二十九歳。ちょうど、タカキとは、十歳違い」
「そうだったんだ」
「俺、実年齢より老けて見られるんだけど、タカキは実年齢より下に見られるわけじゃん? 俺らが二人でいたら、絶対通報されるよな」
「次に会った時は、声をかけないでおくよ」
「やめて、寂しい! そういう気遣いは要らないから!」
クラゲが文句を言いながら、拗ねたような顔をした。
すると、タカキもおかしくなって、クスッと笑みを零す。
その顔を見て、クラゲは、タカキの頭をポンッと撫でた。
「なーんだ、ちゃんとガキの顔できんじゃねーの」
「クラゲさん?」
「妙にませたガキだと思ってたけど、良い顔で笑うね、お前」
口端を吊り上げて、ニヤリと大人の色気で笑うクラゲを見て、タカキは、目をぱちくりと瞬きさせた。
「クラゲさんって、モテそう」
「嫌味か! こんな高級マンションに一人で住んでる、俺に対する嫌味か!」
「いや、本当に。なんか、変なオーラ漂わせてるし」
「変なオーラ?」
「身長高い。何センチ?」
「いきなりだな。183センチ。体重69キロ。昔は、これでもバスケやってたんだよ」
そう言って、バスケのシュートを打つフリをした。
なかなか、フォームが様になっている。
「仕事は、システムエンジニア系。ブラック企業に勤めて、早五年。給料は、まぁまぁ。嫁は無し。恋人も無し。残業続きで、身体はボロボロ」
「転職しようとか考えないの」
「うーん、これ言ったら、嫌われちゃうかもしれないから、言いたくないなぁ」
タカキをチラリと横目に見ながら、クラゲは試すようにそう言った。
それを聞いて、タカキは真っ直ぐな目で答える。
「嫌いにならないよって、言って欲しい? それとも、言いたくないなら、言わなくていいよ、が正解?」
「おっと、そうくるか」
「嫌いになるほど、まだ、クラゲさんのこと好きだと思ってないし、言いたくないようなことを無理に話させるつもりもないよ」
「うーん、それが、本当の答えね。なるほど、なるほど」
クラゲは、「ご馳走様でした」と手をあわせると、食器を持ってキッチンへと向かった。
タカキも後をついていくが「俺が洗うから大丈夫」と言われたので、大人しく、キッチン前のカウンターに座った。
「ちょっと、待っててな。後少しくらい大丈夫だろ?」
「何が?」
「お家に帰るの。それとも、門限とかある?」
「ない」
「なら、一杯美味しい珈琲を淹れよう、俺の大好きな豆の珈琲だ。美味いぞ」
クラゲは、まったりとした雰囲気のまま、まるでどこかのカフェのマスターのような顔で、珈琲を淹れ始めた。
「あ、タカキ珈琲飲めた?」
「うん」
「なら、よかった」
「本格的だね」
「イギリスで美味い珈琲を飲まされて育ったからな。自然と身体が覚えたんだよ」
「イギリスに住んでたんだ」
「おう、イギリスはいいぞ。アフタヌーンティーのお陰で紅茶の方が有名だが、昔はコーヒーハウスってのがあってな、時代によっては、珈琲の方が主流だった時もあったぐらいなんだ」
「そうなんだ。俺も小さい時、イギリスにいたけど、珈琲は飲んでなかったから知らなかったな」
「イギリスにいたのか? なんだ、タカキとは共通点が多いな」
クラゲは、嬉しそうにそう言うと、タカキに向かって訊ねた。
「White?(ホワイト)」
「え、」
「イギリスでは、珈琲を淹れる時に、ミルクは必要か、そうでないか、こう聞くんだ」
「じゃあ、white coffee please.(牛乳入りの珈琲下さい)」
「OK!」
クラゲは、ミルクを淹れた珈琲を作って、タカキに差し出した。
「ちなみに、世界的に、ホワイトコーヒーと言えば、マレーシアのイポー・ホワイト・コーヒーの方が有名だ。この話の続きは、いるかな?」
「Please give me some more.(もっと、欲しいな)」
「よし、じゃあ、話そう! ホワイトコーヒーが何故、生まれたか。意外に思うかもしれないが、アメリカでもマレーシアでも、ブラックコーヒーという言葉は、ほぼ使われていない。何故なら、殆どがブラックコーヒーでないからだ。コンビニに売っている珈琲の殆どに、砂糖が入っている。純粋なブラックコーヒーとなると、飲める場所は、海外では限られた店だけになっているのが、常識だ。そんな中、マレーシアでは、ある変わった焙煎のやり方を始めた」
「珈琲の焙煎の仕方が、何か違うの?」
「そうだ。通常の珈琲は、豆をただ、焙煎するだけだ。だが、マレーシアでは、珈琲の豆を焙煎する時に、マーガリンと、砂糖と、小麦を加えるのが、一般的だった。しかし、ある時、マレーシアのある店の店主が、ほぼ、少量のマーガリンのみで焙煎したもので珈琲を作った。これが、ホワイトコーヒーだ。ホワイトコーヒーは、マレーシアがこれまで焙煎して出してきたコーヒーよりも、色が薄く、白っぽくなったと言われている」
「だから、ホワイトコーヒーって、名前がついたのか」
「だと、思うだろう? だが、違うんだ。ホワイトコーヒーを見るとわかるが、大して、白くない。中国語で「白」という言葉が「何も加えられていない」という意味を持っているんだが、実は由来は、ここからきているんだ。焙煎時に、砂糖やら小麦やらを加えていたが、マーガリン以外には、殆ど何も加えていない珈琲。それが、ホワイトコーヒーになったんだ」
「中国語が由来だったんだ。マレーシアには、華僑も多いって言うからね」
「中国人のことを華、外国に移住していることを僑、その漢字を足して、華僑。日本語もそうだが、漢字は、やはり言葉として美しいな。分かりやすいし、意味が深い」
珈琲を飲みながら、タカキは、クラゲとカウンター越しにそんな会話を広げていた。
少しの会話から、たくさんの知識に繋がるのは、楽しい。
クラゲの淹れた本格的な珈琲を飲みながら、タカキは、ふと思ったことを口に出した。
「クラゲさん、」
「ん?」
「俺と友達になろう」
「はい? どうして、そうなった」
「怪しいなんて言って、ごめんなさい」
「いや、怪しかったと思うぞ? いたいけな大学生を連れ込んで、飯を作らせたあげく、お茶に付き合わせてるんだから、むしろ全力で責められる立場だ。結構、性質の悪い酔っ払いだったと、これでも少しは反省しているんだけどな」
クラゲはそう言って、キッチンからタカキの方に回ってきた。
タカキにクッキーを差し出しながら、苦笑する。
「あんまり、簡単に大人を信じたらいけないぞ」
「うん、わかってる」
「そうか。でも、タカキは純粋過ぎて、心配になるな」
「クラゲさんも、濁ってないよ。まるで、まだ何も加えられていない、珈琲みたいだ」
「……!」
クラゲは、面食らったような顔をした。
動揺した顔が見れるのは、きっと珍しいことなのだろう。
タカキは、その顔をまじまじと見つめた。
「白クラゲさん」
「お前、本当に十九歳?」
「学生証見る?」
「いや、遠慮しとくよ。はー……怖いわ。おじさん、若い子と話したの久しぶりだけど、こんな子いるんだねぇ」
クラゲは、くしゃりと自分の髪の毛を乱暴に掻き上げた。
「さっきの話、やっぱり聞きたい」
「さっきの話?」
「なんで、転職しないの?」
「あー……聞いちゃう?」
「嫌いにならないよ」
「……俺、本当に、今時の子どもが怖くなってきたわ」
そう言いながら、クラゲはタカキの隣に腰掛けた。
「俺、趣味で仕事してんだ」
「趣味?」
「そう。本当はいつ辞めてもいいし、転職先なんてごまんとあるし、金なんていくらでも稼げると思ってんの」
「そうなんだ」
「なら、なんで、そんなブラック企業で働いてんの? って、思うだろう。なんでかって、それを、俺が望んだから」
「どういうこと?」
「ブラック企業の特徴は、理不尽、不平等、非常識の三つがお約束だ。俺がホワイトな企業に就職して、正攻法で仕事していたら、いくらでも利益が取れるし、社会的にも上の地位に、簡単に上がれる。だけど、それじゃあ意味がないわけ。作業効率が悪いルールの中で、バカみたいに理不尽な中で、生きなきゃ、ダメなんだよ」
「何がダメなの?」
「面白くないだろう。簡単に、上がれたら。ゲームと同じ。苦戦した方が楽しいに決まってる」
「自分の能力は、隠してるの?」
「5%くらいの能力で、仕事しているだけだよ。お陰で、大分疲れる」
「それが、クラゲさんの望んでいること?」
「おう。な? 性格が悪いだろう」
クラゲは、笑い飛ばすようにしてそう言ったが、タカキは笑わなかった。
クラゲの言葉には、所々引っかかる点がある。
タカキは、真剣な目でクラゲを見て言った。
「そこまでして、知りたかったことがあったんでしょ」
「……お前、本当にピュアなだけ? それとも、わかってやってる?」
「知りたかった答えは、もう見つけられたの?」
タカキの言葉に、クラゲは、やれやれと溜息を吐いた。
「それは、まだ内緒」
「わかった」
「物わかりが良いね」
「聞きたいことは聞けたから」
「そっか、お前、いい子だな。ほんと」
クラゲは、苦笑しながら、タカキの口元にクッキーを突き出した。
それを、何の迷いもなく、タカキは口に入れる。
「おじさん、タカキのそういうところ、ほんと、心配だよ?」
「また、珈琲飲みにきてもいい? 代わりに、シジミ汁作るからさ」
「いいけど、いいのか?」
「クラゲさんがベンチにいて、俺がたまたまその前を通ったら、声をかけるよ」
「おじさん捕まらないように、次からネクタイはちゃんと締めとくわ」
「うん」
クラゲの家を出る時。
靴を履くタカキの背中に向かって、クラゲは、もう一度あの言葉を投げかけた。
「なぁ、」
「何?」
「お前、俺の嫁にこないか」
「シジミ汁、そんなに気に入ったの?」
タカキの返事を聞いて、クラゲは意味深に頷きながら、笑った。
「ククッ、やっぱり、面白い奴だな」
「また、来る」
「おう、またな」
こうして、クラゲとタカキは、友達になったのだった。




