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目が覚めた時、視界に移ったのは見覚えのある部屋だった。
しかし馴染み深い訳ではない。
アリスの家はもっと物が少ないし、記憶通りであるなら目覚めるのは自分の寝室の中ではなく、VRマシンの中である筈だ。
ただこの部屋はそのどちらでもない。
ゲームの中で泊まった宿屋の部屋だった。
窓の外は明るい。
つまり夜が明けるだけの時間が流れている。
なのにログアウトされていないという事は、何かしらの不具合が起きたのだと推察出来る。
(んー? バグかな)
事実を確かめるべく、システムパネルからログアウトを試みた。
しかしその挑戦は未遂に終わる。
ログアウトの項目が無くなっていたからだ。
(ああ。これはバグだ)
特殊なイベントが発生した可能性も少し疑っていたが、その可能性は完全になくなったと考えて良いだろう。
緊急用のログアウトボタンが消えているとなると、随分と重大な不具合である。
本来なら多少は不安になるのだろうが、アリスからしたらそんなに問題視する事ではない。
特に予定もないし、寧ろゲームで遊べる時間が増えて嬉しいとさえ思っている。
それに食事をしなくても生命維持に支障がない事も、平然としていられる理由の大きな要因だ。
と言うのもアリスを含むプレイヤーが使うVRマシンはあらゆる点で最高の評価を受けているが、特に使用者の安全の項目では他の製品と隔絶した差がある。
例えゲームに夢中になり過ぎて食事や睡眠を忘れようとそれが使用者への悪影響にならない様に、マシンが自動で調整してくれるのだ。
これが発売された時、世間では良くも悪くも大きな話題になったのはアリスも記憶に新しい。
あまり面白味のない議論は兎も角、このマシンが受けた評価に誇張が無かったのは事実だった。
だからこの不具合がどれだけの期間続いたとしても、アリスには何ら被害を及ぼさないのである。
(あれ? メールが来てる)
システムパネルを閉じようとした時、アリスはそれに気が付いた。
重要とタイトルに入っていて、とても目を引く。
時間を見る限り、受信したのは日付が変わったのと丁度同じタイミングだ。
このメールの内容がログアウト出来ない不具合についてである事は明白。
アリスは早速メールを開こうとして、奇跡的な致命的大失態を演じる。
「ああっ!」
メールを開こうとして、開くと書かれたボタンを押そうとした。
しかし誤って隣にある削除のボタンを押してしまったのだ。
まあ、この程度の操作ミスは起きておかしくは無い。
問題なのはそれからだ。
削除のボタンを押した途端、本当に削除するのかと確認画面が出て来た。
勿論ここで冷静に否定のボタンを押していれば、アリスはちゃんと重要なメールを読む事が出来ただろう。
だけどアリスは焦っていた。
大切なメールを消しかけた事実は、容易にアリスの心を動揺させたのだ。
結果、軽快な音と共にメールボックスは空になる。
呆然とアリスはその画面を見続けた。
「……いや。手はある」
自分に言い聞かせる様に呟かれた声は微かに震えている。
アリスはゆっくりと無意味な位に慎重な動作で、ゲーム外部にある情報サイトを開こうとした。
メールや不具合の内容について説明されていると思ったからだ。
けれどその行動も徒労に終わる。
ログアウトが不能になった余波なのか、外部に接続出来なくなっていた。
思わず天を仰いだ。
勿論そこには宿屋の木の天井があるだけ。
答えはない。
「まだだ。最後の手段が残ってる」
本音を言えば、これは使いたくなかった。
アリスは他のプレイヤーと交流が出来る、ゲーム内掲示板を開く。
掲示板は苦手だった。
例え相手が目の前にいなくても、現実に存在する人たちと言葉のやり取りをするのは気恥ずかしい感じがして。
それに掲示板の仕組みもよく理解出来ておらず、敬遠していたから。
(匿名なら私だってバレないはずだし、メールの事を質問しよう)
自分の失態を知られるのは嫌だから、名前が出る所は使わない。
アリスはそんな制限の下、最も勢いのある質問掲示板を覗いた。
そこにあったのは交流の場ではなく、狂乱の修羅場。
引き攣った笑みのまま、アリスの表情は固まった。
荒れに荒れ狂っていた。
意味不明な文字の羅列を書いている者、これでもかとばかりに罵詈雑言を撒き散らす者。
これではまともなやり取りは不可能だろう。
(もしかしたら重要な用事が有ったのかも)
それならここまで荒れているのも理解が出来た。
このゲームをしている人が自分の様な暇人ばかりで無いのは至極当然の話だ。
恐らく首が懸かっていたのだろう。
そう考えると、アリスにはこの人たちが哀れに思えた。
そっと掲示板を閉じる。
メールを消してしまったのは、きっと些細な事だったのだ。
発狂していた人に比べれば、自分の過ちなど問題にもならないのだ。
だからシステムが正常になるまで気長に待ち続ける事にする。
時間は腐るほどあるから。
逃げではないとアリスは言う。
しかし今後アリスが掲示板を覗く事がないのは確定事項だった。
(問題は無事に解決したし、朝食でも食べに行こうかな)
少しだけ肌寒さを感じていたから取り敢えず服を着る。
姿見の前でおかしな箇所がないのを確認し、アリスは部屋を出る。
メールの内容は依然として謎のままだが、アリスはもう気にしない。
他に取れる手段がないからだ。
ちなみに直接人に聞くという手は使えない。
アリスには他人に自分の失態を晒す真似が出来ないから。
(そう言えば、お肉を食べたいって言ったんだっけ)
昨日のやり取りを思い出す。
ラドは良い物を用意すると言っていた。
楽しみに思いながら、階段を降りる。
酒場に入ると、カウンターには既にラドが立っていた。
「おはよう。良く眠れたか?」
「おはようございます。熟睡出来ました」
「そうか。そりゃ良かった」
ログアウト不能というだいぶ重い事態なのに、アリスはのほほんと言った。
本当に少しも気にしていない様子だ。
「タイミング良く来たな。朝食は出来ているぞ。食うか?」
「はい。食べます」
「よし分かった。適当に座って待っててくれ」
ラドはそう言って厨房に姿を消す。
言われた通り、アリスは端のテーブルの席に着いた。
少しして、ラドはトレーを持ってやって来た。
トレーには皿とグラス、瓶がある。
焼けた肉の香ばしい匂いが漂って来た。
唾を飲み込んだ。
皿の上には大きめのパンが乗っている。
その横にタレのかかった肉が盛られていた。
「美味しそうです」
「そうだろう。俺が作る料理は絶品だからな」
ラドが自信たっぷりに言うのも分かる。
パンも肉も、両方とも凄く美味しそうだった。
「食べ終えたらそのままで良いぞ。後で片付ける」
「はい。分かりました」
ラドが去ると、アリスは手を合わせる。
「いただきます」
パンを齧る。
柔らかくふんわりとした食感。
微かな甘みも感じられる。
次にフォークで肉を食べる。
歯応えがしっかりしていて、ちゃんと肉を食べている感じがする。
それなのに、まるで溶けてしまったかの様に口の中から消えてしまった。
その上で濃厚なタレが肉の旨味を引き立たせている。
アリスは夢中で食事を続けた。
無心に料理を食べ続け、最後にお茶で喉を潤す。
量があったはずなのに、綺麗に完食されていた。
「ご馳走様でした」
再び手を合わせ、アリスは席から立ち上がる。
「ああ、美味しかった」
満足そうに頷く。
ラドがそのままで良いと言っていたし、アリスはその言葉に甘える事にした。
まだ朝早い時間帯だが、次の予定は決まっている。
冒険者協会に向かう事にする。
ビースト平原でレベル上げをしようと考えていた。