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地下は現実でアリスが住む国の様に和風の造りになっていた。
白色で女性のマークが描かれた赤い暖簾を潜り、入った部屋は脱衣所だ。
暖かい空気と微かな木の香りが漂う、どこか懐かしさを感じる空間。
アリスは前に温泉に行ったのは何年前だったかと、昔に思いを馳せる。
旅行に行かなくなって久しいが、またどこかに行ってみるのも良いかもしれないと思った。
(予想以上だ)
アリスは心底感心する。
もしかしたらここにも魔法道具が使われているのかもしれない。
そうでなければ、こんなに優れた空間は作り出せないはずだ。
魔法は応用力も高く万能の技術だとよく言われているが、ここまでするには必要になる魔力が多過ぎる筈だから。
(うーん。もしかしてこの宿屋って実は凄い?)
ここまでの設備を整えるなら、桁外れのお金が必要だ。
そんな事は初心者のアリスでも分かる。
それ程までに優れた設備だからだ。
並大抵の宿屋では用意出来ないだろうし、有名な所でもここまでするのは難しいかもしれない。
(ラドさんって何者だろう。人気のない宿屋の主人にしては資金力が多過ぎる)
しかし幾ら考えた所で答えは見付からない。
アリスの中でラドのイメージは優しい人で固定されているし、その評価が間違っているとも思えない。
だから例えば裏社会の首領の仮の姿だと想像しても違和感だらけ。
首を傾げる他にない。
(まあいいか。悪人じゃなさそうだし)
アリスは自分の勘に多大な信頼を置いている。
だからラドが悪人ではないと思った自分を信用する事にした。
まあ違っていても何ら問題はない。
その時は対処すれば良いだけだし、その方法は明快だ。
そうと決まれば後は早い。
アリスは自分の着ていた衣服を脱ぎ出した。
脱いだ服は脱衣所の籠に入れようかとも思ったが、それは止めた。
その代わりにインベントリに仕舞う。
(疑ってる訳じゃないけどね)
念の為。
とても良い言葉だと思う。
それにインベントリの方が籠よりも収納に適しているし、寧ろ籠を使う理由の方が少ない。
(さて入ろう)
アリスは浴室に続く戸を開ける。
途端に湯気と熱気が体を包む。
凄い湯煙で、視界が少し霞んでいた。
心地良い暑さだ。
浴室に入り、ちゃんと戸を閉める。
部屋を見渡せば、結構な広さがあった。
大部分を占める湯船は木の枠で囲まれていて、そこから溢れたお湯が床を濡らしている。
ラドは人工の温泉であると言っていたが、贅沢な事に掛け流しだった。
浴室奥の壁にある鼠の顔を象った彫刻から勢い良くお湯が注がれている。
思ったよりも高価な魔法道具が使われているのだろうか。
お湯の量が多い。
アリスは本格的にラドが何者なのか聞きたい衝動に駆られる。
人気のない宿屋の設備としては絶対に異常な高さの質だ。
(只者ではないんだろうなぁ)
ラドが本当はどんな存在なのか、アリスには見当が付かないが、それはもう間違いないだろう。
まだ少し気になっているが、いい加減にしておこうと思う。
今は風呂を楽しむ事に集中するべきだと考え直したのだ。
浴室入り口から左右の壁沿いには、板で仕切られた不思議なスペースがある。
各スペースは広めに取られ、中には木の椅子が置かれている。
上部にはノズルが下を向く様に取り付けられていた。
金属製の円形で、無数の小さな穴が開いている。
(あれ、もしかしてこれって)
これも現実で見た事がある。
アリスはその中に入って、正面の壁に付けられたバルブを緩めた。
するとノズルからまるで雨の様に、お湯が降り注いで来る。
(やっぱりシャワーだ)
お湯で濡れたアリスの肌を、雫が伝い落ちて行く。
良い具合の湯加減に弛緩した耳が垂れ下がり、ツインテールの様な姿になってしまった。
大きく息を吐く。
システム的にはステータスに何も異常はないが、それでも疲れてはいた様で、とても気持ちが良い。
アリスは目を細めて、しばしの間シャワーを楽しむ。
(そう言えば、これは普通のお湯が使われているみたいだ)
シャワーを浴びていたら、その事実に気が付いた。
なぜ分かったのかと言えばプラスの効果が掛からなかったから。
温泉は特殊効果を持つお湯だ。
薬効の変わりだろう。
必ず何らかの補助が付く。
しかしシャワーを浴びてもそれが付かないと言う事は、温泉が使われていない事を証明していた。
(ラドさんが拘ったのかな。それとも単なる偶然なのか)
何にせよ、アリスの感想はお金をかけているな、だった。
最早驚きはしない。
凄い設備だとは思うけど。
(さて。そろそろ湯船に浸かりたいな)
温泉に来てシャワーばかり浴びても仕方ないし。
でもその前に体を洗うのが先だ。
手で髪と耳を洗い流す。
丁寧にする。
耳は敏感なのかムズムズするが、それは我慢した。
それからインベントリに入れておいた小さなタオルを取り出した。
軽く撫でる様にして肌を拭く。
全く汚れてはいないけど、気分の問題である。
上半身から下半身へと場所を移していって、臀部の辺りで手に触れた違和感に、一瞬全身が硬直する。
何かと思ったが、よく考えれば自分は獣人であった。
アリスは自らの尻尾に触れて驚いたのである。
(びっくりしたー!)
取り敢えず残った肌をタオルで洗い、濡れたタオルをそのまま首から掛ける。
尻尾は手で洗う。
耳よりも感覚が鋭かったから、タオルじゃ刺激が強過ぎた。
手で触れただけでも背筋にゾクゾクとした奇妙な感覚が走る。
少し涙目になりながらも、丁寧になんとか尻尾を洗い終え、アリスはようやくシャワーのバルブを締めた。
(まさかお風呂の度にこれをするのか……?)
未来に軽く絶望し、それを振り払う様に楽しい事を思い浮かべる。
これから本命なのだし、憂鬱な気分は忘れるべきだ。
湯船の淵まで向かい、アリスは木枠に腰を下ろした。
まずは足だけをお湯の中に入れる。
温泉の熱さが肌に突き刺さる様だ。
温泉特有の感覚に、さっきまで垂れ下がっていた兎耳がピンと張られた。
(矢の痛さに比べれば我慢出来るけど、熱いねぇ)
どちらかと言えば苦手な感覚だが、温泉と言えばこれである。
熱さを我慢して湯船の底に座ると、絶妙な高さの湯量で、肩の辺りまでお湯に浸かれた。
肩に掛けていたタオルを外し、畳んで頭の上に乗せる。
意味はない。
単純に好みの問題である。
(ああ。極楽)
アリスの口元は緩み、目を閉じているその姿は、まるで微笑みを浮かべている様な表情をしていた。
のんびりと流れる時間を無為に過ごしながら、ふと思い立ってステータスを開いた。
(ん。バフだ。自然回復力の上昇か)
それなら怪我の後に入るのが良いかもしれない。
最も重い怪我を治すには力不足の様だから、軽い怪我限定だけど。
しかし、それでも充分な効力だ。
明日になったら宿が延長出来るのか聞いてみようと思った。
(さてと。そろそろ出よっと)
アリスは立ち上がって、またしてもシャワーに向かった。
温泉から出たらシャワーを浴びる。
それでは温泉に入った意味がないと言われた事もあるが、こっちの方がアリスの好みだった。
さっとシャワーで流して、軽く水気を拭いてから、アリスは脱衣所に戻った。
インベントリからバスタオルを取り出して、今度はしっかり体を拭く。
後は服を着るだけだが、残念ながら持っているのは元々着ていた服だけ。
お風呂上がりに外着を着るのは不本意だけど無い物は仕方がない。
その内にパジャマでも買わないといけないなと思う。
服を着て、後は全てインベントリの中にしまった。
(髪が湿ってるけど、まあいいか)
温泉は有っても、ドライヤーは無かった。
有ったら間違いなく世界観に似合わない精密機械に、アリスは微妙な表情を浮かべた事だろう。
その点で言えば浴室も怪しいが、それはそれ、これはこれ。
都合のいい頭をしている。
着替えを終えたアリスは、そのまま自分の泊まる部屋に行く事にした。
少しきつめな階段を登り、指定された3階に辿り着く。
(確か奥の部屋だったな)
明るい通路を進む。
窓から見える外の景色は既に真っ暗だ。
宿屋に来てから意外にも長い時間が経過していたらしい。
長湯し過ぎたかなと思う。
風呂前よりも体が疲れている様に感じるのは、その所為もあるのかも知れない。
(あ、ここだ)
少し歩いて、アリスはようやく部屋の前に到着した。
貰った鍵の番号も一致している。
早速鍵を開けて、アリスは部屋の中に入る。
しかし外と同じく真っ暗だ。
殆ど物が見えない。
(えっと明かりを点けるのは、石だったっけ?)
通路の光を頼りに目を凝らして見ると、部屋の隅に置かれた小さな机に、幾つもの石が積まれていた。
一見するとただの石だが、これが明かりになる事をアリスは知っている。
真ん中に設置されているテーブルに、水が入ったガラスの瓶がある。
アリスは石を1つ取って、そのガラス瓶の中に入れた。
途端に部屋は明るくなる。
石が光っているからだ。
この石は光石と言って、水に浸けると光を放つ特性があった。
(思ったより明るいな)
瓶の近くに用意されていた黒い布は光の調整の為に使うのだろう。
ここら辺は他の有名宿と同じだ。
未知の魔法道具が使われていない事に安心と僅かな失望を感じた。
そうして自分が毒されている事に気が付き、苦笑を零す。
(変な宿屋だ)
アリスは深くそう思った。
(んー。今からやるべき事はなさそうだな)
ならばもう寝よう。
アリスは部屋の鍵を閉め、ベッドに向かった。
よく見ても綺麗に整えられている。
素晴らしい事だ。
アリスは上着を脱いで、肌着だけの格好になる。
清潔なベッドに外用の服で寝るのは、アリスの心情が許さなかった。
アリスはベッドに潜り込む。
その際にガラス瓶に布を被せるのを忘れない。
再び部屋は暗闇に包まれたが、先程とは違って少しの明るさも存在する。
穏やかな静寂に満たされた部屋には、それから些かの間をおいて、小さな寝息が聞こえて来た。
安寧の夜は過ぎ去り、そして波乱の朝を迎える。