7
「よし、説明を始めよう。俺はこの宿屋の主人であるラドだ。よろしくな」
「アリスです。よろしくお願いします」
アリスが鍵を受け取ったのを確認すると、ラダは説明を始めた。
カウンターに置いたお金に関しては、アリスの見ていた限りだと確認されていない様だったが、どうなのだろうか。
もしかしたら客には知られず確認する宿屋秘伝の技術があるのかもしれないと勝手に納得しておき、ラドの話に集中する。
「アリスの部屋は3階の奥の角部屋だ。喜べ。裏庭が見える1番良い部屋だぞ」
「良い部屋なのに、あんな値段で大丈夫なんですか?」
「勿論だとも。弟の紹介で来た奴に普通のサービスしか提供出来ないのは我慢ならん」
新しい事実の発見だ。
ラドとロイは兄弟だったらしい。
良く似ている訳である。
納得した。
アリスはなるほどと頷く。
お人好しは血筋か。
「簡単な食事なら頼まれれば出せる。これは宿代に含まれるから、追加の金は必要ない。遠慮はいらんぞ。どうせ大した物じゃないからな」
「はい。有り難く頂きます」
「うむ。食べてくれた方が無駄にするより余程良いからな」
運が良い事に食費まで浮くらしい。
アリスは小躍りしたい気分である。
兎耳が先走って楽しそうに揺れているが、そんな些細な事はこれっぽっちも気にならなかった。
しかし、本当にこの宿は大丈夫なのだろうか。
客は少ないのだろうに、こんなサービスしてくれて。
「この宿屋の目玉は地下にある。他には中々ない施設があるんだ」
「地下に、ですか?」
若干不思議そうに首を傾げてアリスは聞いた。
その通りだとラドは頷く。
「ここの地下には風呂がある。これだけでも珍しいだろうが、勿論それだけじゃない。うちでは温泉を使っているんだ」
「温泉! それは凄いです」
予想外の答えだった。
温泉もそうだし、風呂がある事もだ。
このゲームでは基本的に宿屋に風呂はない。
風呂に入りたいなら浴場に通わなくてはならないのである。
お金はかかるし、遠いしで、アリスの最も悩ましい点だったのだが、それが解決してしまった。
喜びで目が輝いている。
「でもこの街って温泉が湧くんですね。知りませんでした」
アリスはふと我に返って呟く。
街の周りは平原で、近くに山はない。
火山と温泉はペアだと思っていたアリスには衝撃的な話だった。
しかしラドは苦笑する。
申し訳なさそうな表情をしている事が気掛かりだ。
「どうしたんです?」
「あー、すまん。言いにくいんだが、ここの温泉は天然物じゃないんだ」
「は?」
愕然。
アリスはポカンと口を開けて間抜けな様子で固まった。
天然ではないと言う事は、人工温泉と言う奴だろうか。
ファンタジーの世界でそんな技術があるとは思わなかった。
「偶然会った変な奴から魔法道具を買ってな。それが温泉を生み出す力を持っていたんだ」
「ああ、そうなんですか」
凄い奴がいるものだ。
温泉を生み出すなんて魔法道具の事をアリスは聞いた事がないし、間違いなく作られた物だろう。
魔法道具は制作するのが難しいのは有名で、その値段は一流の武器よりもずっと高い。
もしその魔法道具が人工の物だったなら、アリスは是非ともその変な奴と知り合いになりたいと思った。
「その変な奴はこの街に?」
「さて、どうだろうな。旅の商人だと言ってたし、あれ以来一度も見ていない。今はどこかを旅してるのかもしれん」
「なんだ。残念です」
居ないらしいと分かり、目に見えてアリスは落ち込んだ。
見つけたとして魔法道具を買えるだけのお金はないけど、それでも居場所さえ分からないのは残念だった。
その内会えれば良いんだけれど。
このゲーム世界は広大だし、会えないかもそれないと不安を感じたが、アリスは気を取り直した。
巡り合わせに期待していよう。
「後はだな。そこの入り口の近くに掲示板があるだろ」
「はい。ありますね」
ラドが指を差した場所には、冒険者協会でも見た掲示板があった。
幾つか掲示もあるみたいだが、協会と比べて数は少ない。
依頼だろうか。
魔物の名前が大きく書かれているのは読み取れた。
「あそこには買い取りをしているアイテムを載せている。協会と同じ値段だが、偶に持って来てくれると嬉しい」
「ふぅん?」
アリスは首を傾げる。
不満に思った訳ではなく、アイテムの買い取りまでして大丈夫なのかと思ったからだ。
既に料金が驚くほど安いのに、こんな支出まであって。
「まあ基本的に食料系のアイテムだ。それも長期の保存が出来る奴だけな。店売り品を買うよりも安上がりなのさ」
「なるほど」
「それに必要な物しか掲示してないし、いざとなれば協会に売れる。言っちゃなんだが俺に損は無いぜ」
「あはは。凄く正直ですね」
開けっ広げに言い放ったラドに、アリスは面白そうに笑った。
好感の持てる素直さだ。
商売人としては致命的な気もするが、それは考えない事にする。
最初に抱いた警戒は薄れていた。
「一応これでこの宿についての説明は終わりだ。何か質問はあるか?」
「いいえ。大丈夫です」
「そうか。久し振りの接客で少し不安だったんだが、何とか形にはなったか」
説明の出来よりもっと不安になるべき事を口走っていたのをアリスは聞き逃さなかった。
呆れた目でラドを見る。
明日は安全にビースト平原でレベル上げをする気だったから、丁度良い。
掲示にあるアイテムを手に入れたらラドに渡す事を決めた。
お人好しなのはアリスも同じだった。
「さて、そろそろ良い時間だが……。アリスは夕食はいるか? パンと平原兎の焼肉なら用意出来るぞ」
平原兎の焼肉。
今の自分も兎だがそんな事はどうでも良く、なんとも魅力的な響きだ。
しかしアリスは首を横に振る。
食事をするには問題があった。
「いいえ。今日はとても残念ですが、食べれません。お腹が空いてません」
アリスがゲームを始めて数時間が経っているが、事実である。
確かに上位種のゴブリンと戦っていた時には空腹を感じていたが、死に戻ってからは治った。
死亡時に巻き戻されるのは経験値や怪我だけでなく、満腹度もその内の1つなのである。
「なんだ、そうなのか。なら明日の朝食はどうする?」
「食べます。お肉がいい」
「ははは。了解した。良い奴を用意しておこう」
快活な笑いが響いた。
アリスも朝食への期待から耳がピンと立っている。
(美味しいのかな。どんな味がするんだろうな)
実に楽しみだ。
ゲームとは言え味覚がしっかりと機能するのは、最近では当たり前の話。
しかしアリスにとっては初めての事だから、期待感は大きいのである。
「風呂はいつでも自由に使っていいぞ。タオルも幾つか売ってるから、もし必要なら言ってくれ」
「あ、それは欲しいです」
流石に宿屋に風呂があるとは思わず道具を用意していなかった。
ここで買えるのは助かる。
「分かった。大きいタオルと小さいタオルがある。大きいのは50イェンで小さいのは15イェンだ。どうする?」
少しアリスは考える。
どちらも最低1枚は欲しい。
しかし多めの初期資金があるとは言っても、安定的な収入がある訳ではない。
贅沢はするべきではないだろう。
「……じゃあ、大きいのを1枚と小さいのを2枚下さい」
「うむ。それなら80イェンだが、アリスは久し振りの客だからオマケして40イェンでいいぞ」
「いえ、ちゃんと払います。そこまでされるのは悪いので」
突拍子のない提案を即座に否定し、インベントリから硬貨を取り出す。
大きな銅貨が8枚、アリスの手の中に入っていた。
これは女神硬貨と呼ばれる特別な硬貨で、破壊も複製も出来ないらしい、最も流通していて、最も信用出 る貨幣だ。
創造神である女神様からの贈り物だとも言われている。
金貨、銀貨、銅貨があって、その中で更に大小に分けられる。
「むぅ。遠慮せんでも良いのに」
「無理です。流石にしますよ」
自分の所為でこの宿屋が潰れでもしたら、罪悪感が酷いだろう。
アリス己の心の安寧を守る為、大切なお金でもしっかりと払った。
「では、私は早速お風呂に行きます」
「おう。湯はかなり熱いから気をつけるんだぞ」
ラドと別れ、アリスは玄関とは別の扉から酒場を出る。
上に繋がる階段と、下へと続く階段がある通路に出た。
お風呂は地下だ。
アリスは階段を下りて行った。