62
暴走を弱めた邪竜は、クレーターの中で荒い呼吸をする。
さっきまでの二足歩行を止めて、前足は地面に着けている。
堅固な守りである鱗の内側を竜の炎で焼かれるのは、いかに竜と言えど大きなダメージになったらしい。
口から白い湯気を上げながら、鋭い牙の合間からはドロドロとした濁った赤い血を垂らす。
見るからに瀕死の状態である。
しかし目に宿る憎悪は薄れるていない。
そればかりか最初よりも強くさえなっている様だ。
憎悪だけではない。
邪竜の中には数多の負の感情が融合し渦巻いている。
負以外の感情がないのかもしれないとアリスは思った。
邪神に乗っ取られるとは、そう言う事なのかもしれない。
負の思念に支配され、自分の本来の意思を失うのだ。
悍ましさに震えた。
(まるで捨て駒じゃないか)
上位者の望むままに使い潰される、都合の良い操り人形。
水の精霊は、邪神に乗っ取られれば自我は消されると言っていた。
酷い話だと改めて思う。
しかし同時にチャンスだとも思った。
本来なら竜は深い叡智を持つとされる。
肉体も頭脳も優れる怪物こそ竜なのだ。
だが邪竜の思考は鈍い。
密着された敵に対処が出来ない程、その知恵は失われている。
(哀れだ)
黒い加護に侵される前の竜の境遇をアリスは知らない。
興味はあるが、知る術は自分にない。
もしかしたら何かしらの悲劇的な結末の所為で、女神に反する邪悪へと身を落としたのかもしれない。
あるいは、単に身勝手で、力だけを欲した可能性もある。
アリスは邪竜の思いに想像を巡らせて、それを鼻で笑った。
理由など今となってはどうでも良い事だった。
邪竜は街を破壊した。
女神教に仇なし、今もテレリや街の人々に危害を加えようとしている。
ならば邪竜とはアリスにとって倒すべき害悪でしかなかった。
(どこを攻撃するのが効率的かな)
アリスは顎に手を当てて考え込む。
足を攻撃し続けるのは安全だが長い時間が掛かってしまいそうだ。
両手足を地面につけている今なら、胴体にも手が届きそうだ。
問題点は危険である事か。
あの巨体で伸し掛られてしまえば、地面の染みになるのは間違いない。
では、やはり足か。
そう考えた時に、鎖を巻き付けられた邪竜の頭部が目に入る。
(あれ。頭って今なら安全じゃない?)
あの鎖のお陰で邪竜はブレスを吐けない状態にある。
口も開けないから噛み付かれる心配も、食われる心配もいらない。
後は振り落とされる事にさえ気を付けていれば、幾らでも攻撃し放題だ。
アリスは早速行動を始める。
再びクレーター内部へと下りて、衰弱した邪竜へ駆け寄った。
叩き付ける様に落とされた前足での攻撃を掻い潜り、アリスはジャンプして邪竜の首を捕まえる。
力任せに登り切る。
<怪力>のスキルの影響なのか、体が軽く楽に登れた。
落ちない様にして、這うように頭部を目指して進む。
邪竜の動きに合わせて、首は大きく振られるので、予想以上に安定しない。
迷惑な事に、図体がでかい分、動きの幅も大きいのだろう。
それでも何とか頭部まで辿り着くと、そこは尖った鱗で凹凸が酷い。
下手に殴れば自分の手を傷付けてしまいそうだ。
アリスは周りを見渡した。
(ああ。あの辺りが良さそうだ)
目星を付けた場所へ慎重に向かう。
ここで落ちたら台無しだ。
目の上から背に向かって生える逞しい角を手摺り代わりする。
アリスが陣取ったのは人間で言う額の辺りだった。
真横に角があり、それを掴めば振り落とされる可能性が減らせる。
それに比較的滑らかな表面で足場にするのも殴るのにも、都合が良い。
アリスは試しに一撃を見舞う事にする。
左膝を付き、右足を立たせる。
左手で角を掴んだまま、右手は石のように握り締める。
振り下ろした。
鈍い音が響き、硬い物を全力で殴った衝撃が重く腕に伝わった。
邪竜は蹌踉めく。
声が出せるなら空気が震える大音量の咆哮が轟いたに違いない。
初めて邪竜に動揺が走る。
積み重なったダメージは無視の出来ない値になっていた。
だから邪竜は大翼を広げる。
(まさか、空を飛ぶ気か!?)
アリスは慌てて角にしがみつく。
計算外の行動だった。
てっきり地面に居てくれる物だと思っていたのに、裏切られた思いだ。
邪竜の羽ばたきによって起こった風は土埃を舞い上がらせる。
不味い。
アリスは顔を曇らせる。
空の上でも攻撃は出来るが、倒してしまうと地上まで真っ逆さまだ。
折角の経験値が失われてしまう。
邪竜の前足が宙に浮かび始めた。
アリスは飛行を止めようと眉間に蹴りを入れる。
テレリから放たれる氷の魔法も翼を撃つ。
しかし邪竜は止まらない。
今にも飛び立とうと空を見上げた。
邪竜が地を離れる間際、それは起こる。
地面から何本もの糸が現れた。
宝石の様に透き通った赤い糸は、邪竜の両翼の皮膜を貫く。
そのまま翼の骨に巻き付くと、糸は再び地面に潜った。
それは何度も繰り返されて、翼には何重にも糸が巻き付いていた。
まるで地面と翼を縫い合わせる様に。
アリスはハッとして辺りを探すと、遠くに赤いアラクネの姿を見つけた。
(エルメダだ!)
顔を綻ばせる。
頼もしい味方の参戦だ。
この糸の綺麗な赤を見れば、誰の援護なのかすぐに分かった。
エルメダの蜘蛛の様な色をしていたから。
アリスは角から手を離す。
邪竜が地面に囚われたお陰で、揺れはほぼ無くなった。
これで思うように攻撃出来る。
頭頂部に歩いて行った。
そして、踏みつける。
手よりも足の方が力が強い。
<浸透勁>はどちらでも作用するので、基礎威力が大きそうな足を使う。
落ち着いていた邪竜がもがく。
何とか糸から脱出を図ろうとしている。
しかしそこへ駄目押しの魔法が放たれた。
クレーターに氷が張られたのだ。
力を込めようとすれば足を滑らせ、まともな抵抗は出来ないだろう。
またしても伸びてきた糸が、両手足を拘束する。
(うわぁ。えげつない)
アリスはエルメダの追撃に顔を引き攣らせる。
確かに邪竜は全力で戦うべき相手だが、ここまで封殺されているのを見ると、流石に気の毒に思えてくる。
しかし手と足を封じられても、邪竜は諦めなかった。
尻尾を振り回して、自分の行動を妨げる全てを薙ぎ払おうとする。
糸が伸びたが、間に合わない。
だがそれでも邪竜の反撃は失敗に終わる。
天から落ちて来た白い稲妻が邪竜の尻尾を焼き切ったからだ。
凄まじい破裂音がして、その時には尾は吹き飛んでいた。
近場にあった建物を破壊して、地面に落ちた。
驚くべき威力を秘めた、誰かの魔法だ。
正体不明の助力に感謝しながら、攻撃の為にアリスは右足を上げた。
すると白い光が足に纏わり付く。
何だこれ。
「微力ながら、お手伝いさせて頂きます」
凛と澄んだ女性の声が聞こえた。
そっちに目を向ければ、見覚えのある顔がいた。
10代目聖女である。
なるほど。これが聖属性の力か。
アリス軽く頭を下げて、足を振り下ろした。
何度も何度も、ひたすらに攻撃を続ける。
満身創痍でありながら、邪竜はしぶとかった。
数え切れない蹴りを放ったのに、まだ息は続いている。
だが終わりは必ずやってくる物だ。
最後の一撃を放った時、アリスは肩で息をしていた。
「あっ……」
足場を踏み抜いたような感覚。
不意打ちのように訪れたそれに息を飲み込んだ。
重力に引っ張られて、弾けた光の中を落ちる。
氷の地面に尻餅をついて、アリスは悲鳴を上げた。
邪竜は消失してた。
光の粒子も既に失われつつある。
何とも唐突な幕切れに溜息が出た。
臀部から氷の冷たさが伝わって来る。
しかしアリスは立ち上がれなかった。
全身に一気に押し寄せた疲れで、そんな気力がない。
目の前に黄金のオーブが転がっている。
それを目で追いながら、アリスはまた溜息をもらす。
(達成感がまったくない!)
作業的な戦闘風景を思い出しながら、唇を尖らせた。




