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引っ張られている。
そんな感覚を受けた。
夢の中で揺蕩う一時を邪魔され、平穏が乱される。
急浮上して来る意識に身じろぎ、アリスはその原因を遠ざけようとした。
しかし深く寝っている以上、その試みは無駄だった。
原因に手首を捕まれ、アリスの抵抗は容易く封じられた。
眉を顰めて唸りながら、アリスは薄っすらと目を開けた。
近くには人がいた。
彼女の顔は非常に近くにある。
薄目が大きく開かれ、アリスは飛び跳ねる様に後ろに退がった。
しかし後ろは壁である。
柔らかいとは言えど頑丈なそれは後退を許さず、アリスは跳ね返されて元の場所に尻餅をついた。
幸いにも目の前も女性もアリスの奇妙な挙動に驚き、反射的に背を反らした結果顔も離していた。
だから額同士の衝突は起こらない。
アリスは頭が割れる様な痛みで悩まされる事にはならなかった。
「何してるのよ」
女性は呆気に取られて、口をポカンと開けていた。
赤い髪に白い肌。
寝呆けた頭でも記憶に強く残る容姿だ。
周囲をぐるりと見渡すと、全ては白の壁である。
唯一の出口であるカーテンが風に揺れ、そこから薄っすらとした光が入り込んでいる。
ようやく、アリスは思い出した。
「なんだ、エルメダか。びっくりした」
覚束ない緩慢な動きでアリスは壁を支えに立ち上がる。
その際に小さく呻き声が出たのは、変な姿勢で寝た為に体中に辛い痛みがあったからだ。
未だ眠気が蔓延る頭が鈍く動き始めた。
疑問が浮かび上がる。
アリスが寝ている間にエルメダはどうしてあんなにも顔を近付けたのか。
不健全な妄想がアリスの頭を占める。
次第に顔を赤くしていくアリスは、眠気なんか吹き飛んだかの様に慌て始める。
早口で進むアリスの話は、エルメダの気持ちは嬉しいという言葉から始まり、しかし自分はまだ恋に興味がないのだと締め括られる。
手を振って言うアリスは必死であった。
どうして良いのか分からずパニックになっている様でもある。
そこまでされれればアリスが何を誤解しているのか、エルメダにも分かってしまった。
「アリス。貴女の頭の中はきっとピンク色の花で溢れているんでしょうね」
辛辣な言葉がアリスの心に突き刺さる。
まるで自意識過剰の変態女とでも言われているかの様だ。
アリスはその暴言の威力によろめき、壁に背をついた。
それから暴言に対してぶつぶつと文句を言った。
「言いたい事があるなら、はっきり言ってみたらどうかしら?」
エルメダは意地悪そうに目を細めた。
顔を逸らして小さく文句を言っていたアリスは、余計に身を竦める。
滑稽な疑いから盛大に勘違いをした自分が何かを言える立場にない事は、アリスにも良く分かっていた。
だけどアリスは言い訳を始める。
心の中だけの話だが、そうでもしないとやってられないと思った。
(でも仕方ないじゃないか)
だって寝起きだったのだ。
アリスは朝が弱い。
頭は働かないし、体だって思うように動かせない。
頭に限れば朝も夜も同じだと言われる気もするが、それはまた別の話である。
兎も角、自分にとって寝起きとは何よりも厄介な時間なのだ。
アリスはそんな風に言い訳を終えた。
その頭の悪そうな内容を聞く者が居なかったのは、アリスにとって幸運だった。
もしエルメダが聞けば、より辛辣な言葉を槍の様に突き刺しに来ただろうから。
「それで、エルメダは私の眠りを妨害してまで何をしてたの?」
アリスはようやく疑問について聞いた。
ちょっと棘がある言い方なのは、暴言へのアリスなりの仕返しだ。
そのダメージはゼロに等しく、エルメダは全く気にしない。
ただ少しからかい過ぎたかなと思っただけだった。
不機嫌なアリスをこれ以上馬鹿にするのはよろしくない。
エルメダはそう考え、皮肉を交える事もなく素直に答えを返した。
「貴女の服を見ていたのよ」
エルメダはアリスの着ている服を指差して言った。
魔物との戦闘が影響しているのか、あちこちに解れが見える。
ズボンの裾に至っては擦り切れていて、どう見たって修繕が必要そうだ。
ただし生憎とアリスにそれが出来る技術はなく、<裁縫>と言うスキルだってないのだ。
序でに言えばお金もなく、新しい物を買えもしない。
「見窄らしいかい?」
自嘲気味にアリスが尋ねる。
エルメダは人差し指を顎に当てて何かを考えた後、いいえと言って首を横に振った。
「どちらかと言えばダサいわ」
「だ、ダサい……!」
アリスは肩を落とした。
溜息を垂れて、耳を落とす。
気持ちを凹ませたアリスを眺めて、エルメダは堪えきれずに笑った。
服に頓着なさそうな癖して、人の評価は気にするのかと思った。
頬を膨らませて睨んで来るアリスに、エルメダは面白がった笑いから、優しい微笑みに表情を変えた。
「アリス。喜びなさい」
エルメダは凛として告げた。
きょとんとした顔をアリスはする。
突然そんな事を言われても。
アリスは困って薄い愛想笑いを浮かべた。
「ここまで一緒に行動したのは、きっと何かの縁だわ。だから貴女に、私が服を作ってあげる」
「えっ! 本当?」
エルメダの宣言に、アリスはすぐに目を輝かせた。
服作りを得意としているのは、最初に会った時に話していた。
エルメダが作ると言う服に、アリスの期待は自然と高まる。
だけどそれは忽ちの内に消え失せ、代わりに瞳に不安が宿った。
「でも私、お金ないや」
心に諦めが渦巻く。
残念だけど、お金がない以上は買えないのだから。
お金が貯まったら依頼しよう。
今買えないのは悔しいが、他にどうする事も出来ない。
お願いしようとエルメダを見ると、彼女は不思議な事に苦笑していた。
「心配しなくて良いわ」
アリスの頭をエルメダは優しく撫でた。
アリスだって背は小さくない。
しかしそんなアリスでも見上げる程に背の高いエルメダは、簡単にアリスの頭を撫でる事が出来た。
アリスは気持ち良さそうに目を瞑り、その感覚を楽しむ。
どうしてだろうと思った。
けれどそれを質問するよりも、少しでもこの癒しの時間を楽しむ事にアリスは全力を尽くす。
現実だと触れられる事も嫌だったのに、今はとても心地良い。
獣人だからだろうか
答えがどうであれ、この至福の前には些細な事だとアリスは思った。
「私がアリスの為に作ろうと思ったんだから、お金なんか取らないわ」
「ううむ。でもそれは申し訳ないよ」
エルメダの言葉は嬉しかった。
それこそ我慢も虚しく口元が緩み笑みを浮かべてしまうくらいに。
でもアリスは断ろうとする。
拘りとかプライドとか、そんなカッコ良い理由ではない。
根が小心だから、無料で貰うのは抵抗があるだけだ。
「もう。本当に変な事で強情よね」
エルメダは呆れながら首を振る。
そして溜息が吐かれた。
アリスはそれに嫌な予感を覚える。
エルメダが行動する度に、その予感は強くなっていった。
「仕方ないわね。ここまで断られると流石に腹立たしいから、無理矢理にでも着てもらうわ」
エルメダは手を素早く動かせた。
殴り合いには自信があるアリスでも見切れない速度だ。
風が吹いた様に髪が靡いた。
気付けば手足が両方とも動かなくなっている。
見れば何重にも糸が絡み付いていて、テントの天井から吊るされていた。
「はあ!?」
「あら。この状態で服を脱がすのは難しいわね」
エルメダが分かり切った事を大真面目に呟いた。
動揺したまま両手を交互に見ながら、アリスは困惑の声を零している。
「ねえ。新しい服を着せてあげるから、今着ている服は切って良いわよね。これじゃ脱がせられないし。大丈夫。勿論きちんと縫い直すから」
「いや駄目だよ。何言ってんの?」
動揺は一周回って冷静な言葉を返した。
怪力で糸を千切ろうとしても、逆に腕が切断されそうで、下手な抵抗は止める。
離せと言ってもエルメダは聞く耳を持たず、不気味に糸を取り出し始めた。
あれで服を切断するつもりだ。
アリスは確信した。
「分かった! 分かったよ。自分で着るからこの糸を外して」
「そう? それなら良いわ」
布を擦る音が鳴り、拘束が外れた。
糸で締め付けられていた部分を摩る。
それからアリスはエルメダから自分の為に作ったらしい服を受け取った。
「あれ。これって……?」
「何よ」
「いや。もう作ってたんだね」
服を見た感想を一先ず置いておき、アリスは別の事を質問した。
てっきりこれから作る物だと思っていたのに、既に作ってあったから。
アリスはそれに少し驚いていた。
「糸を操るのは得意なの。沢山操って同時に編みこむだけだから、時間はそんなに掛からないのよ」
エルメダは自慢する訳でもなく、事実を教える様に淡々と言った。
「でも早く作ったとは言っても、性能は良いはずよ」
アリスは服を着替えながら、エルメダの話に耳を傾ける。
カーテンで仕切られているから変に緊張もせず、落ち着いて着替える事が出来ていた。
「だって元がアラクネの糸だもの。素材が良いから、どうやったって人の作る物には劣らないわ」
「やっぱりお金を払った方が良い気がして来たよ」
「はいはい。着替え終わったかしら?」
アリスは肩を竦めた。
まるで相手にされていない。
お金ないから払えと言われても困るのだけど。
「うん。多分着替えたよ」
「ふぅん。なら開けるわよ」
自分の体を見下ろして、不備がないのを確認する。
服が特殊だから、正しく着こなせたのか自信はない。
カーテンが横に引かれた。
「やっぱり。思った通りだわ。中々良いじゃない」
エルメダは何度も頷く。
実に満足そうな顔をしている。
対してアリスは違和感を抱いていて、顔色を曇らせている。
「ねえ。これサイズがぴったりなんだけど」
「あら、不満だった?」
アリスが不思議そうに言う。
するとエルメダは首を傾げた。
サイズの合わない服が欲しかったのかと頓珍漢な考えを浮かべた。
「いや。そうじゃなくて」
アリスは慌てて否定する。
俯き気味に原因を言った。
「ほら。その。胸の部分とか、さ」
「ああ。そういう事」
アリスは頬を赤らめていた。
何でそこで顔を赤くするのか疑問だったけど、エルメダはそれは聞かない。
アリスが自分を見ていないのを良い事に、エルメダはニヤリと笑う。
悪戯を考えた顔だった。
「そんなの触れば分かるわよ」
「触ったのかよ!? 寝ている時か!」
「うふふ。嫌ねぇ。ちょっとした冗談よ」
アリスは胸を両手で隠しながら、壁際まで後退る。
エルメダは曖昧な笑みを浮かべながら、嘘か誠か分からない口調で冗談だと言っている。
疑わしそうにアリスが見ても、クスクスと笑うばかり。
確実にからかわれている。
アリスは耳をピンと立て、頬を膨らませた。




