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「今のは、何だったのかしら……」

「さあ?凄い事が起きたのは何となく分かるんだけど」


 平穏を取り戻した湖で、アリスとエルメダは言葉を交わす。

 インベントリに入れていたタオルで髪や耳の水気を拭きながら、アリスはさっきの光景を思い出し、体に震えが走る。

 ここだけ終末を迎えた様な湖の騒乱と、真冬の夜風を浴びた様に冷たい濃い魔力の波。

 これらの現象がこちらの世界から見ても異常であるのは、まだこちらに来てから日が浅いアリスでも分かる事だった。


「冷たい魔力だったね」


 二の腕を摩りながら呟く。

 未だに寒さを感じていた。

 寧ろ異変の後、湖は一層冷え込んでいる様に思える。

 マントを着ているのに、これだ。

 もし用意してなければな、より酷い目に遭っていただろう。


「ええ。体が冷えちゃったわ」


 エルメダは口ではそう言っているが、アリスは本当はどうだろうと思った。

 自分よりも薄着なのに、微塵も寒さを感じていない様に見える。

 魔法防御的な存在をアリスは疑う。

 パラメータは完全にマスクデータで、情報サイトでもずっと検証中の項目だったはずだ。

 確実に存在するだろうから、種族間で差があって当然だ。


(獣人は論外として、アラクネはきっと高いんだろうな)


 魔法防御があると仮定して、アリスは自分たちのパラメータについて考えを巡らせる。

 獣人の魔法に関係する能力の低さはとても有名だ。

 しかし、きっとアラクネは魔法に馴染み深いのだろう。

 アリスは毒沼鯰との戦闘風景を見ていてそう思った。

 あの膨大な数の糸を両手だけで操るのは流石に難しいはずだ。

 アリスはそれに魔法の補助があるに違いないと睨んでいる。

 だから魔法防御も高いんだろうなと考えたのである。

 勿論それは仮定の話であって、事実を探求する気は、アリスには少しもない。


「あの魔力は誰のだろうね?」


 そう言えばとアリスは首を傾げた。

 最初は毒沼鯰の物だと思った。

 ダメージを受け過ぎて本気を出した。

 そう思ったから慌てたのだ。

 でも真実は違っていた。

 魔力の主はその強大な力を操り、容易く巨大な魔物の命を絶った。

 あの鯰も強かったはずなのに、呆気のない最後だった。


「アリス……。貴女、まさか気付いてないの?」

「へ?」


 呆けた声を上げる。

 まるでエルメダは魔力の主の正体に心当たりがある様な言い方をしている。

 アリスは言われた言葉を嚙み砕き、意味を汲み取ろうとした。

 しかしその前に、エルメダが我慢出来ずに口を開いた。


「貴女がここに来たのは何の為よ。あれは間違いなく」


 しかしエルメダが答えを言い切る前に、唐突に言葉を止めた。

 アリスを呆れて見ていた視線を移し、湖の方に向ける。

 アリスも釣られてそこを見る。


「わぁお!」


 水の如く流れる様な青髪の美女がそこに立っていた。

 いつの間に現れたのか、アリスには分からなかった。

 だがそれを疑問に思うより早く、女性の美しさに感嘆する。

 街で見かけたメイドにどこか似ている容姿の女性は、アリス達に向かって歩いて来ていた。

 ドレスを来ているのに、女性の歩みはしっかりしていて、軽快だった。

 女性はすぐ側で立ち止まった。

 人形の様に無機質な表情で、アリスとエルメダを交互に見る。


「ふむ。なるほどな」


 何かに納得したらしく、女性は呟く。

 アリスは手を強く握り、手の平に爪を立てた。

 それは女性の声を聞いた途端、意識が朦朧として、目の前の女性に全てを捧げたくなった所為だ。

 何らかの状態異常を受けたのは明白だ。

 だから自分にダメージを与えてまで抵抗したし、そうでなければ危なかった。

 確証は無いが、アリスはそれを確信する。

 危うく心を持って行かれる所だったと、顔を引き攣らせた。


「魅了の力よ。アリス、大丈夫?」


 エルメダも辛そうにしながら、アリスの強く腕を掴んで言った。

 その痛みが、現実を認識させてくれる。

 アリスは何度も頷いて答える。

 たったこれだけの事で、喋る事も出来ない程に、アリスの気力は尽きていた。


「ああ、忘れていた。人と話すのは久しくてな」


 女性から再び発せられた言葉は、もう不思議な力は込められていなかった。

 助かった。アリスは胸を撫で下ろす。

 次は抵抗出来なかっただろうから。


(今のは何だったんだ?)


 心配が消えた所で疑問を浮かべる。

 エルメダは魅了の力と言っていた。

 つまり魅了状態になりかけたのかなとアリスは思った。

 確かに女性に跪き、奴隷として生きても良いとさえ思ってしまったのは事実である。

 なるほど。コレが魅了か。

 厄介な状態異常を知って、アリスは心底恐ろしく感じた。

 抵抗出来て良かったと深く安堵する。


「貴女は、水の精霊ね?」

「えっ!?」


 エルメダが腹立たしそうに女性を睨み付けながら言った。

 それは予想だにしなかった言葉で、アリスは声を上げる。

 エルメダの鋭い眼光が女性からアリスに向く。

 まるでその目は「まだ気付いてないのかポンコツめ」とでも言っているかの様に思える。

 アリスは肩を震わせた。


「如何にも、その通りだ」


 エルメダの質問の形を取った断定に、女性は肯定を示す。

 何でもない事の様にあっさりと、自らを精霊と名乗ったのである。

 アリスは目を大きく見開いた。

 探していた存在が現れたのだ。

 抱いた驚愕も一入だった。


(この人が、精霊?)


 アリスは女性の姿をまじまじと見る。

 上から下まで視線を下ろし、そして今度は下から上へと往復させた。

 だけど人間にしか見えない。

 肌も髪も、確かにこの世の物とは思えない綺麗さだけど、姿形は人間と全く同じである。


「随分と気になっている様だな」


 薬を貰う用事を忘れて、アリスは女性の観察に夢中だった。

 卑しい意味はなく、人間と精霊の違いを見破ろうと躍起になっていた。

 しかしその行動を止める声が、観察対象から飛んで来た。

 すぐにアリスは女性を見た。

 女性もアリスを見ていた。


「あ……」


 目と目が合う。

 そしてアリスの口からは声が漏れた。

 呆然として意図せずに発せられたそれは、寧ろ音と言った方が正確だ。

 小さな音はすぐに消え失せる。

 硬直した体で、瞼さえも動かせず、アリスは女性の目を見続けた。

 怖くて怯えていても、しかしそれから目を離す事は出来なかった。

 どんな恐怖を抱いても、それには耐え難い魅力があった。

 女性の目の奥には深淵が広がっていた。

 極まった叡智と、積み重ねた歴史。

 それらは神秘を伴って、愚かなアリスの精神を蝕む。

 心が崩されていく。

 粉々に砕かれていく。


「アリス!」

「あだっ」


 叫び声と共に、後頭部に感じたのは重い衝撃。

 勢いを堪え切れずにたたらを踏み、アリスは頭を両手で押さえる。

 目を潤ませて、暴力の主であるエルメダを振り返った。


「痛いよ」

「文句を言わない!全く。馬鹿だとは知ってたけど、ここまでとは少しだって思わなかったわ!」


 非常に怒った様子で、エルメダは激しい口調で言う。

 アリスは泡を食ってそれを止める。

 落ち着いてと言うと、それは更に火に油を注ぐ形になった。

 烈火の如く燃え盛る怒りに、アリスは涙目になって反省の言葉を口にする。


「精霊の目を見続けるなんて、どんな危険な行為だと思ってるのよ。貴女も精霊を探していた位なんだから、伝説を知っているでしょうに」


 アリスは苦笑いを浮かべた。

 怪訝そうに見て来るエルメダに、アリスはゆっくりと首を振った。

 気不味そうに目を反らす。


「私、伝説は知らないよ」

「はあ?」


 アリスは頬を搔く。

 だって文字読めなかったんだもん。

 可愛らしく言ったが、それはエルメダには逆効果だった。

 呆れ果てて、エルメダは言葉を失う。

 兎耳も下げて、アリスは何だか申し訳なく思って俯いた。


「……精霊の目は、全ての知識を映すと言われているわ。その知識は膨大で、人の頭では収まり切らないともね」


 エルメダが口を開いた。

 アリスは耳を澄ませてそれを聞く。

 説明してくれるみたいだから、絶対に聞き逃さない様に。


「でも精霊の目を覗いてしまうと、知識は目から制限なく侵入して来る。伝説ではその所為で何人もの英雄が廃人と化したと書いてあるのよ」

「なるほどね」


 あのまま見続けていたら、アリスも同じ末路を辿ったのだろうか。

 どうなんだろうと思った。

 普通の死亡扱いになるのか、それとも別にバッドステータスが付くのか。

 少し気になったけど、実験なんて馬鹿な真似はしない。

 それは別に取り返しのつかない事になるのを恐れた訳ではない。


「エルメダは心配してくれたんだね」

「はあ!?」


 アリスは嬉しそうに言った。

 エルメダは驚いた声を出した。

 照れた様に顔は赤く、アリスはそれを見てより嬉しくなる。


「やめてその顔。寒気がするわ!」

「酷いなぁ」

「ええい。笑うな、変態!」


 アリスに何を言っても通じないと悟ったのだろう。

 エルメダは暴言を打ち切って、強引に話を修正に移った。

 精霊の女性に向き直り、放置する形になった事に対し、エルメダは謝罪を口にする。

 なおアリスは完全に無視されて、しょぼくれた顔をしていた。


「うん?話し合いはもう終わったのか?」


 精霊はちょこんと首を傾げる。

 綺麗な容姿だが、可愛らしい仕草だとアリスは思った。

 危ない物を見た目の保養には丁度良い。

 その姿はしっかりと目と記憶に焼き付けた。

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