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湖から巨大な影が浮かび上がる。
水面は大きく波立ち、畔に生えた草花を濡らした。
現われ出たのは山の様な巨体だ。
その体は固まった血の様に黒い。
体に纏う汚い泥の様な色をした粘液は光を浴びて、薄気味悪くてかっている
互いに離れた位置に付いている目は血走っていて、ヘドロの様に濁っている。
幅の広い口からは何本もの鋭い牙が何重にも連なって見える。
逆立った長い口髭が揺れる様子は、まるでミミズみたいに見えて、アリスは吐き気を覚えた。
悍ましい姿をしていると思った。
顔を顰めて、それを睨む。
「鯰の魔物か?」
アリスが呟く。
少なくとも精霊には見えなかった。
こんなにも醜悪で凶暴そうな姿をしているのが、女神に作られたとは到底思えなかった。
いや。思いたくもないとアリスは今の考えを訂正した。
「あれは毒沼鯰ね。予想通りだったわ」
エルメダは言った。
アリスの独り言の疑問に答えたのだ。
なるほどとアリスは頷く。
さっぱり知らない魔物の名前だ。
続きを催促する様にアリスはエルメダに視線を送った。
「毒沼鯰は毒沼に住んでる魔物よ。あんな姿をしているから、不気味なのよね」
湖に浮かぶ鯰を指差して、エルメダは流れる様に悪口を言う。
巨体の迫力を微塵も感じていなそうな様子に、やはりアラクネなだけはあるとアリスは思った。
だけど、それよりも気になる事をエルメダは言っていた。
「あんなのを他にも見た事があるの?」
湖面に浮かんだまま奇妙な沈黙を保つ巨大な魔物を指差してアリスは聞いた。
エルメダは頷かなかったし、首を横にも振らなかった。
ただ事情を話してくれた。
「前に行った沼地で何体か倒した事があるわ。ただし、あそこまで大きい奴はいなかったけれど」
「ふむ。なるほどね」
つまり目の前にいる毒沼鯰は異常な大きさなのだろう。
巨大な魔物と言うと、思い出されるのは大型のゴブリンだ。
アリスが初めて負けた、因縁のある相手である。
あれは普通のゴブリンとは桁外れの耐久力と攻撃力を持っていた。
確証はないけど、きっと上位の存在だ。
ならば目の前に現れた鯰も同じなのだろうか。
「アレは毒沼鯰の上位種なのかな」
アリスは何の気なしに呟く。
エルメダはそれを耳聡く聞き取り、それは違うと言った。
「アレは上位種ではないわ。魔物は進化すると多少なりとも姿を変える。だけどあの毒沼鯰はそのままの姿で巨大化しているもの」
確かに大型ゴブリンの姿は、普通のゴブリンの姿とは、少し異なっていた。
角が伸びて立派になっていたし、何よりも装備の種類と質が違った。
本来の毒沼鯰の姿をアリスは見た事がないけど、エルメダの言う限りだと目の前の奴と変わらないようだ。
大きさ以外は、だけど。
「じゃあ、つまり突然変異って事?」
アリスが言う。
するとエルメダは首を傾げた。
「それが分からないのよねぇ」
今度はアリスが首を傾げる。
通常の上位種ではないなら、所謂異常種と言う奴ではないのだろうか。
そう聞いてみると、エルメダは益々難しい顔をする。
「どうにも違和感があるわ。あの魔物は存在がとても歪なのよ」
その言葉の意味はさっぱり分からない。
魔物の歪さなんて聞いた事はないし、見落としがなければ情報サイトにも載っていなかったはずである。
アリスはクエスチョンマークを頭に浮かべて、なのにさも理解したかの様に頷く。
話が面倒になりそうな気配に、知ったかぶりを行ったのだ。
そんな事をしているアリスを冷めた目でエルメダは一瞥する。
本当に分かっているのかと疑いの目を向けられているのにはアリスも気付いて、反射的に顔を背ける。
あまりに分かりやすい反応に、エルメダは何も言う気がなくなった。
愚かな娘だと思いながら、心優しく見ぬふりをしてやる。
「と、ところで! あの魔物はどうして動かないんだろうね? 私たちに気付いているはずなのにね?」
自分から注意を逸らすべく、アリスは不思議がって聞いた。
棒読みと焦った表情の拙い演技は、到底見るに堪える物ではない。
呆れ果てたエルメダによって、アリスの頭に手刀が落とされた。
「痛ぁ……」
耳を萎れさせ、アリスは両手で頭を押さえた。
何だか視界が揺れている。
恐るべき力である。
何だか防御系のスキルが欲しくなってきたアリスだった。
「よく見なさい。あの魔物、随分と消耗しているみたいよ」
潤んだ瞳を指で拭い、アリスは言われた通り目を凝らした。
そして確かにと言った。
泥色粘液によって気が付き辛いが、よく見れば傷だらけである。
特に右側部に刻まれた大きな裂傷からは絶え間なく血が流れていた。
肌の色と大して色が変わらないから、見分けも付きにくいけど。
「冒険者と戦ったのかな? 傷の大きさ的に魔法みたいだけど」
「いいえ、違うと思うわ」
アリスの考察にエルメダは否定的だ。
何でかとアリスが聞くが、エルメダは口を閉ざして、理由を教えてくれる気はなさそうだった。
その代わり、驚くべき事を口にする。
「あそこまで弱っていれば、私たちでも討伐出来そうね」
目を丸くしてエルメダの顔を見上げる。
正気かと言いそうになって、慌てて飲み込む。
エルメダに悪口的な事を言えば何倍にもなって自分に返って来る事を、アリスはこれまでの道中で既に学んでいた。
でも素直にはいそうですかと頷く訳にもいかず、恐る恐る尋ねる。
「まさか、本気?」
エルメダは鼻で笑った。
まるで当たり前だろうと言うかの様に。
アリスは巨大な魔物を指差した。
「あんな大きな魔物とどう戦うのさ。だって、一軒家よりも大きいんだよ」
「だから何よ。家を潰すのなんて簡単でしょうに」
アリスの言い訳は、エルメダには届かなかった。
だから無慈悲に切り捨てられた。
小刻みに左右に首を振る。
そんな重機みたいな事はしない。
そもそもあれは魔物で家では無いのだ。
例えからして可笑しいとアリスは声を大にして言いたかった。
「いや、でも。私の攻撃は届かないぞ」
幾ら魔物が巨大とは言っても、広大な湖の中央付近に居る。
魔法が使えなければな、まともな遠距離攻撃手段を持たないアリスでは、自慢の馬鹿力も持ち腐れだ。
「確かにそうかもね。貴女は魔法を使えるほど賢くなさそうだし」
魔法を使わないのはスキルがなくて魔力が少ないからだ。
賢さ以前の問題で、これが種族の特性なのだから仕方がない。
そもそも魔法に賢さが必要だと言う話事態が出鱈目であると、一応アリスは知っていた。
そうでなくければ、魔物は魔法を使えないはずなのだから。
「なら適当に石でも投げてなさいよ」
雑な物言いに、流石にアリスも不満の声を上げた。
あの巨体に石をぶつけた所で、てんで意味がなさそうだ。
しかし他に代案は思い浮かばないから、石拾いをしてこようと思った。
粘液で防がれる未来しか見えなかったけど、やらないよりかはマシであると考える事にする。
「ところでエルメダ。何であの魔物と戦うの?」
アリスは聞いた。
エルメダが影の正体に興味を持っていたのは知っている。
だけど態々倒そうとするとは、正直に言って思っていなかった。
本当に馬鹿な娘ね。エルメダは言った。
「だって毒を持った巨大な魔物よ。それが街の近くに潜んでるなんて嫌な話だわ。見つけた時点で駆除は確定。見逃すなんて選択肢がないのよ」
「あ。真面目な理由だ」
答えは極めて良識な物だった。
てっきり興味本位で戦闘をしようとしているのだと思っていた。
だからアリスはとても驚く。
アラクネの暴虐性を垣間見たのだと考えていた事は、自分だけの内緒にしておこうと心に決める。
失礼な事を言って精神的にダメージを負うのは損でしかない。
(エルメダは私が思うよりも、ずっと優しいのかもしれないね。口も態度も乱暴だけど)
アリスはエルメダを少し見直した。
外見よりは劣っていても、心も少しは綺麗なのだろうと。
微笑みを浮かべるアリスに、エルメダは顔を向けた。
「私はいつだって真面目でしょう?」
エルメダが惚けた様子で面白い冗談を言ったので、アリスは笑ってやった。
そしたら再び手刀を落とされた。
痛い。さっきよりも凄く痛い。
アリスは地面に膝を着いて、その痛みに耐えた。
「なぜだ!?」
「当然の報いよ!」
アリスの叫びは一瞬で蹴散らされた。
エルメダは頬を膨らませ、顔を上げたアリスに追撃を喰らわす。
額に炸裂したデコピンに、短い悲鳴を上げてアリスは背中から地面に倒れた。
(さっきのは取り消し! 少しも優しくない!)
地面に転がりながらアリスは思う。
これから戦闘だと言うのに、実に緊張感のないやり取りだった。




