20
早朝。まだ外は薄暗い時間帯。
アラームに起こされたアリスは不機嫌そうに口を尖らせる。
寝癖によって乱れた髪を手櫛で梳かす。
撫でつけては跳ね、押さえつけては跳ねる。
髪を整えるのに苦戦しているらしい。
何度も無意味な行動を繰り返す。
でも気にした様子はない。
ベッドの上に下着姿のまま胡座を組みながら大きく欠伸した。
(眠い)
アリスの気持ちはそれだけだ。
これから行う冒険への興奮や、恐れ。
そんな物はどこにもない。
小さな欠伸を連発しながら目を擦る。
喉から低い唸り声が出た。
長く寝たのに眠過ぎる。
(いや。長く寝過ぎたのかも?)
靄が立ち込んだ様に眠気で淀んだ頭でそんな結論を下した。
波の様に押し寄せては引いてを繰り返す眠気に思考が揺られる。
意識が途切れ途切れになりつつある事を自覚する。
アリスは自分の頬を叩いた。
意図したよりも大きな音が鳴る。
浅い痛みを感じた。
でも肌の表面しか痛くないのに、針で突き刺される様な鋭い痛さだ。
目尻に浮かべた涙を拭う。
望んだ通り眠気は吹き飛んでいた。
その代償は目に見える形で現れていた。
(おっと。これは綺麗な紅葉マークね)
両頬は赤く染まっていた。
手の平の形がくっきりと残っている。
アリスは白い肌では余計にそれが目立ってしまう。
早く治れと念じながらそこを撫でる。
指の腹で優しく摩る。
回復に関するスキルなんて持っていないから、勿論赤色は残ったまま。
その行動で得られたのは痛みを紛らわせる程度の効果だ。
こんな状態で人前に出るのは恥ずかしいなと思う。
だけどそうは言ってられない。
諦めたとばかりに溜息。
今日は予定が詰まっている。
ベルとの約束と、薬草採取の依頼。
この2つをするのだ。
眠気が消えて、ようやく現実を見据える。
途端に緊張がやって来た。
一定のリズムを刻む心音に耳を澄ませる。
鼓動がいつもよりも速い。
ほんのちょびっとだけ。
(なんでだろう。嫌だって気持ちが薄くなってる)
不思議だと首を傾げる。
ほぼ確定している森での野宿が、昨日はとても嫌だった。
碌な装備はなく、スキルもない。
絶対に大変な夜になる。
そんなのは考えなくとも明白だ。
朝日を迎えるまでに幾つもの難関が予期される。
自分以外に人気のない静寂の暗闇。安息を妨げる魔物の襲撃。硬い地面の寝床も苦痛になる。
これだけ嫌な要素が思い付く。
でもアリスは寧ろ、この冒険と言うには小さな冒険を、段々と楽しみに思い始めていた。
(きっと開き直ったって感じだ)
正しい答えは分からないけど、恐らくそんな所だろう。
考えるのに飽きて、適当に思い付いた説を正当化させる。
アリスは頬を撫でる手を止めた。
まだ赤い手形は薄れていない。
凄く痛かったから、そんなすぐには治らないだろう。
<格闘術>の影響か、<怪力>の影響か。それとも単に力み過ぎたか。
兎も角、これからは気を付けて行動しようと心に留める。
自滅したくないし。
(さてと。そろそろ行かなきゃ)
寝ていた事で強張った筋を伸ばす。
軽いストレッチをしながら時間を見て、そう思った。
昨日の内に準備は終えている。
樽は井戸水で満たしたし、部屋にあった光石をランプの予備として確保もした。
思い付く限りの事はしたと思う。
それで十分なのかは知らないけれど。
これだけやって失敗するなら潔く諦めようと思った。
諦めて、別の手段を考える事にする。
成功させる気しかないから、無意味な仮定の話だ。
一通り体が解れたのを確認して、ベッドから立ち上がった。
服を着始める。
いい加減、室内での下着姿に抵抗が薄れてきている気がする。
(お金が貯まったらパジャマ買おっと)
それだけは決めておく。
良い服があればいいけど。
そう思ってもあまり期待は抱かない。
幾ら魔法なんて未知の技術があっても、その他の技術が発展した現実よりも優れた衣服が街のその辺で売っているとは考え辛い。
姿見を見ながら服装を整える。
右足を軸にしてクルリと一回転。
変な所はないみたいだ。
(なら良し。出発しよう)
満足だと頷いた。
アリスは部屋を出て、階下の酒場に向かう。
部屋の鍵は忘れずに掛けておく。
私物は何も置いてないから、盗みの心配なんていらないのだけども。
1段飛ばしで階段を降りた。
酒場の扉を開けると、やはりそこにラドはいた。
日も明けきっていないのに、働き者だなと思った。
「おはよう。今日は随分と早いな。その頬っぺたどうした?」
「おはよう、ラド。これはちょっと事故ったの。気にしないで」
砕けた口調でアリスは言った。
しかしそんな事は気にも留めず、適当な椅子に座る。
心得たとばかりにラドは厨房に向かった。
すぐに出て来た時、その手には朝食が乗せられたトレイを持っていた。
受け取って礼を言う。
よしてくれと照れた様に手を振るラド。
そう言えばとアリスは続けて、疑問をぶつけた。
「ラドはちゃんと寝てる? いつも酒場にいるみたいだけど」
「ああ。勿論だ。しっかり寝ている」
頷く姿を疑わしそうに見つめた。
ラドは困った様に頭を掻く。
「実は色々とあってな。短い時間の睡眠で十分なんだ。だからずっとここにいる様に見えるのかもな」
快活な笑みを浮かべて言った。
アリスはおざなりな返事をする。
言葉の意味を汲み取ろうと頭を働かせたからだ。
でもさっぱりと分からない。
結局、アリスはスキル的な何かだと思う事にした。
<不眠>とか言うスキルも確認されていたし、あながち間違いではないかもしれない。
朝食を手早く食べて席を立った。
空が段々と明るみ始めている。
良い時間だ。
「ちょっと待てアリス」
出発するべく玄関の戸を開けようとした所、声がかかった。
「何?」
売り返ってラドを見ると箱を持っている。
焼けた肉とタレの香ばしい匂いがする。
ご飯は食べたばかりだよ。
ちょこんと頭を斜めに倒す。
「どうしたの?」
「遠出するって言ってたろ。だから弁当を作ったのさ」
差し出された白い箱を思わず受け取った。
見た目よりもずしりとした重さが腕に伝わる。
<怪力>の力で硬貨みたく軽いが、随分な量が詰まっているらしい。
「いいの?」
「当たり前だ。食事は宿代に含まれているって言っただろう。昼飯も同じだ」
ラドは大袈裟に頷く。
「それに食料を調達してくれたからな。昨日なんか青牡牛の肉だぞ。これくらい当然だろ」
アリスは苦笑する。
その分サービスして貰ってるんだから、贔屓目に見てもお相子だ。
でも弁当は有難く貰っておく。
昨日買った食料分が無駄になったが、いずれ使う事もあるだろうと思う事にする。
弁当をインベントリに仕舞い、アリスは街に出る。
未だ薄暗い道を進んだ。
(人が全然いないなぁ)
大通りまで来て、周りを見渡す。
普段は沢山の往来があるここもほとんど人気がない。
僅かな数の商人らしい人が疎らにいるだけだ。
まだ早い時間だから多くの人が起きていないんだろう。
いつもはアリスも夢の中にいる頃だ。
新鮮な気持ちで南門へと歩き出す。
そんな時だった。
すぐ前に人の姿があった。
(危なっ!)
慌てて道を譲って、その場を退いた。
平時とは違う周りの光景に夢中になり過ぎて、注意力を欠いていた様だ。
すれ違う形になった今の人も、そうだったのかもしれない。
この珍しさに目を奪われたのだろう。
謝ろうと思って、アリスは後ろを振り向く。
そして息を呑んだ。
その人も振り返っていてアリスを見ていた。
目を丸くしているのは驚いたからに違いない。
でもそんな事よりも、アリスはその人の容姿に見惚れてしまった。
(綺麗な人……)
月光の様な銀色の髪が風に揺れていた。
太陽の輝きをも霞ませる透き通った黄金の瞳が自分を映している。
幻想が人の形を成したかの様な美しい女性だ。
アリスは頭が真っ白になって、体は硬直する。
口は開いては閉じてを繰り返すだけで、まともに音を発しない。
刹那の静寂。
女性は驚愕の表情を消し去り、柔和な笑みを代わりに浮かべた。
その微笑みは再びアリスを見惚れさせる。
次いで優雅な会釈をした。
それが自分が謝罪をしていない事を気が付かせ、アリスは慌てて頭を下げた。
慌て過ぎて、不格好なくらい深いお辞儀だ。
やっと顔を上げた時、女性の姿はどこにも無くなっていた。
閑散とした元の通りだけがそこにあった。




