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閉じていた目を開いたら世界は色を失っていた。これは失恋を意味してるのだろう。オレの隣には愛してやまないはずの人がいない。彼女は今はこの国の王太子の隣に。こんなことあってたまるか。
けれど相手は殿下だ。一侯爵のそれも令息だとしても、王家を前にしては無力だ。誰かが言った彼女は不誠実な女だと、目覚めた今ならよく考えれば分かる。彼女は、我が国レイシェス王国を傾国させる程の悪女だ。この国の要職につくであろう子息達を侍らして、その姿はまるでどこかの女王のようだ。
「オレは何かを間違えていたんだな……」
彼女の隣に居れば必ず聞こえてくる声、婚約者のいる殿方に近付くなんて、ふしだらな女だと侮蔑するあの人の声が、頭の中で警鐘を鳴らす。あの人、公爵令嬢リリーナ・メイガスの言葉は正しかった。そしてオレの胸にその言葉は沁みた。
だからオレ、イルーゼ・カルネスはアイリスと距離を置くことを決めた。彼女の取り巻きをやめるために。そしてリリーナという人を知るために。
リリーナはとても美しい女性だ。銀糸の様な髪、アメジストの様な大粒の瞳は、少しつり上がっていて、凛とした彼女に似合っている。白磁の様な肌は染み一つなく滑らかだ。そうまるで月の女神の様な美しさだ。
そして彼女はこの学園エステルの生徒会の副会長だ。ここはレイシェス王国に存在する学園の一つで、学力や魔法そして家の格式など、選ばれた人間にしか通えない学園である。王国の縮図であり、生徒会が自治権を握っている小さな国家そのものだ。その副会長と言えばおのずと分かるだろう。リリーナは王妃の立ち位置にいる。
未来の国母になるべき人、気品と威厳を持つ最も気高い人、それが彼女だ。だというのに彼女の伴侶たる人、レイシェス王国王太子殿下リチャード・レイシェスは、リリーナを見ることはなく、アイリスに夢中なのだ。
この都市の王の位置にいるリチャードが、婚約者を蔑ろにしているのは悪評として囁かれている。そしてリリーナの健気な姿に、学生達は奮い立たされ、彼女を全力で支えていた。
ここまで民に好かれている王妃候補は他にいない。アイリスにうっかり惚れてしまい、恋に盲目になっていたオレは、彼女一人に生徒会の仕事を押し付けた。この罪は消えないだろう。
だからオレは彼女の為に、力になろうと誓い、アイリスから離れることを心に決めた。たかだか侯爵令息に何ができるかは分からなかったが、やれることは沢山あるだろう。まずはそこからだと思った。
久しぶりに向かった生徒会室への道、少しだけ懐かしく感じるのは、オレがそれだけアイリスに夢中になっていたということだ。気を引き締めて扉を開けると、書き物をしていた彼女が顔を上げ、一瞬だけ目を見開いた。
「呆れた。一番最初に正気に戻ったのが、女たらしのイルーゼ、あなただなんて世界も終わりだわ」
「うわぁ凄い言いようだね」
「仕方ないじゃない。女性関係で貴方の信頼性はゼロよ」
「ふーん、オレってそんなにチャラチャラして見えるのか? まあ皆が噂してるような事実は一つも無いけどね。現にオレには婚約者すら居ないしね」
「それもそうね」
クスリと笑った彼女の顔は、それは可愛らしくて、思わず顔が赤くなるところだった。
「疲れてるだろ? お茶にしないか?」
「いいわね助かるわ」
給湯室でお湯を沸かし、お茶を入れ、角砂糖の代わりに蜂蜜を手に現れれば、彼女はほっとしたのか席を立って、応接用の椅子に腰かけた。
「それで話しがあるのではなくって?」
「ああ、君は殿下のことをどう思っているのかい?」
「随分率直に聞くのね。浮気と言うならばそうなのでしょう。けどこの国には側室という制度があります。彼女が正妃を狙わぬ限り、私は二人の邪魔をするつもりはありません。だから現在の関係でいいと思っています。だって政略結婚に愛はないでしょ? それに幼い頃から私の人生は決まっていたのだから抗うつもりもないわ」
「もしかして自分の人生を諦めてる?」
「ええ」
そう言い儚く笑った彼女はとても綺麗で、支えたいという気持ちが膨れ上がった。
あのお茶会の後オレはずっと考えていた。どうしたらリチャードと彼女をくっつけられるかである。こんな時いつも思う。オレが本当にチャラチャラしていたら、恋という気持ちを理解できるのにと、だがそれができないのが現実でオレは頭を悩ませた。
リチャードからアイリスを引き離すのは容易ではない。彼女の側にべたべたと張り付いていた身だから分かる。アイリスは引き離しにかかればかかるほど、惹かれあうのだ。まるでそれが恋の障害の一つであるというように……
そして気になるのが、リリーナは学園内の生徒から慕われているにもかかわらず、何故か悪評が目立つのだ。彼女自身が何かをしたわけではないというのに、アイリスに嫉妬し苛めているなどという不名誉な噂が立つのだ。そしてその噂の出所を探すが見つからないという。ならば彼女の噂を変えてしまうのはどうだろうかと考えた。リチャードから心が離れたような噂。
それを考えた瞬間オレはいいことを思いついた。オレの武器は他人から女たらしだと思われていることだ。リリーナの側に女たらしのオレが居れば、婚約者であるリチャードを見捨て、リリーナはイルーゼを撰んだという噂が立つと確信したからだ。
オレは早速、彼女に疑問を抱かせないように動き出した。
まずは彼女の近付くことだ。今や彼女以外誰も居ない生徒会室に通うことから始めた。
「あら、今日も来るなんて思わなかったわ」
「これでも一応この生徒会の会計だからね」
そうしてじっと彼女の目を見つめ続けたら、彼女の方が折れた。
「分かりました。イルーゼあなたをまだ許せませんが、償いの時間を上げます。この生徒会で働いて貰えますか?」
「勿論ですリリーナ様、償いとして私は決してあなたを裏切らないと誓いましょう」
「分かりました。その償いが形になることを願っていますよ」
さてまずは信頼を作るところからだ。彼女に認められなければ共に行動などできはしない。今は黙々と作業に徹するしかない。生徒会の仕事は思った以上に滞っており、彼女一人でこの膨大な書類の山を片していたことに驚愕した。すると彼女はクスリと笑って言った。
「戦争が始まれば王の仕事は王妃に託されるのよ。だからこのくらい何ともないわ。」
少しの強がりと真実が込められた言葉にはっとする。彼女は決して強いわけではない。強くあらねばならない立場であるから、過酷な王妃教育を受け、そう見える努力をしてきたのだ。だからこそ何が起きても揺るがないでこれた。今の彼女の置かれている立場では、怒りや悲しみを抱くことはできない。ましてや、嫉妬などもってのほかだ。だというのに、あのでたらめな噂、彼女はどれだけ傷付けられてきたのであろうか。その細い肩にどれだけの重荷があるのか。そう考えてしまうとかける言葉が見当たらない。
「イルーゼ何を考えているの?」
「君のいつもしている努力について考えていた。」
「私の努力? 不思議なことを言うのね」
「不思議? 君はリチャードに蔑ろにされているのに、王妃教育に励み、屈する事なく闘い続けている。そしてこの状況に不満の一つも溢さない。それはなんでだろうと思ってね」
「それは私にだって不満の一つや二つあります。けれどそれを口にすることを許されていないのよ。私は完璧でなくてはならない。そういう運命だから……」
「だからと言ってこの状況を許される筈がない。それに君はもっと我が儘を言ったりしてもいいと思うし、泣いたり叫んだり怒ったりしても、誰も君を責めたりはしないよ」
「そうかしら……」
「ああ、君が人目を気にするのなら、ここで吐き出せばいい。オレは君が頑張っているのを知っているから」
「そう……なら少しだけ私を見ないで……」
背を向ければ彼女の嗚咽が聞こえて、オレは息をついた。やっぱり彼女も人間だ。たとえ親が決めた縁組みだとしても、彼女なりに向き合おうとした婚約者が、自分を蔑ろにした事に傷付かない筈がない。
女性を守りたいと思ったのは初めてだった。オレにとって女性というのは面倒で手のかかる存在だったから、こうして彼女のことを思うのは、とても珍しいことだった。
「イルーゼ、ありがとう。もう大丈夫よ。」
振り返ると彼女はまだ涙の残る顔で笑った。その姿にドキリとし、彼女はこんな顔をして笑うのかと、思わず見惚れてしまう。それくらい彼女の笑みは愛らしく美しかった。