2. 同業者たち
奈留がゲームのキャラクター役に就いてから、四ヶ月が経った。奈留が青年改めノゥエと始めて出会った頃は、まだ上着が手放せない季節だったのが、いまはもうすっかり夏だ。日焼けが怖くて、春先とは違う意味で上着が手放せない。
梅雨が明けたばかりの空は青く、雲ひとつない。燦々と照りつける陽射しを遮るものはなく、地上を行き交う人々は誰もが、茹だるような暑さに辟易とした顔をしている。今年は猛暑になることが梅雨入り前から言われていたが、どうやらその予想は的中のようだった。
だけど、世の中が初夏にあるまじき炎天下に根を上げているのも、現在仕事中の奈留には関係ないことだ。
「ねえ、ノゥエ。寒いんだけど!?」
奈留の叫びは、吹雪に呑まれて掻き消える。奈留がいま立っているのは、雪と氷に閉ざされた極寒の銀世界だった。
『そりゃ寒いだろうね。ここ、雪原マップだし』
奈留の聴覚へ直接語りかけられた言葉は、寒さに歯をがちがちと打ち鳴らしたり、寒風で唇を強張らせていたりする様子もない。むしろ、温かい部屋で呑気にゲームしているような調子だ。
いやまあ、“ような”ではなく本当にそうなのだろう。なぜなら彼は、氷雪の世界に棲まう危険な魔獣を倒しにきた討伐者ではないからだ。空調も温度管理も全自動で万全なアイソレーターに引き籠もっている、ただのネットゲーマーだからだ。
『まあでも、実際にはそこまで気温を下げているわけじゃないんだって。立体映像を作っている粒子が、皮膚に遍在する冷点を刺激して、きみに寒さを感じさせているだけ……だったかな』
「なんで説明が曖昧なのよ」
『だって、説明画像で見ただけだし』
「説明で見るのと、こうして実際に体感するのとじゃ大違いなんだからね!」
奈留の噛みつくような叫びはまたも、びゅうと勢いよく吹き抜けた吹雪によって掻き消される。だがそれでも、奈留の声は、ノゥエにだけはしっかり届くのだ。システム上、そういうことになっているのだ。
『まあ、凍死したりすることはないんだし、せめて楽しんでみたらどうだい?』
「自分は平気だからって、適当なことを言ってくれちゃって……!」
奈留は憎らしげに歯軋りするが、それだけだ。はあっ、と短い溜息を吐いて諦める。
「仕方ないか。そういうお仕事なんだし」
『最近は話が早くて助かるよ』
「四ヶ月もやっていれば、さすがにね」
奈留は苦笑しながら、雪の大地を奥へ奥へと歩き始めた。
苦笑しているのは奈留の意思だが、歩いているのはノゥエが操作しているからだ。首から上は奈留の自由に動かせるけれど、首から下はノゥエの自由なのだ。
さて、奈留がいま歩いているのは、ゲーム世界のなかでも北方にあたる雪国だ。普通だったら重たいコートを着込んでいないと出歩く気にもなれないような、万年雪と吹雪の世界だ。そんな極寒の土地を歩いているというのに、奈留が身にまとっている防寒具と言えば、厚手のマント一枚だ。システム的には、この一枚だけで寒さによる行動制限は解除されるのだけど、吹雪の中を実際に歩かされている奈留にしてみれば、
「心が寒い!」
と訴えずにはいられないのだ。
マントの下に着ているのは、タンクトップとスパッツに膝上ソックス、長手袋という下着に、胸当てや肘当て、脛当てといった部位毎に分かれている革鎧を重ねている――という装いだ。
寒冷地であるこのマップでは、防寒効果のある装備を身につけていないと動きが鈍くなってしまう他に、金属鎧を装備していると一定確立で凍傷状態になってしまうという制限もあるのだ。
まあ、そんな制限がなくとも、奈留は――というかノゥエは、最初から防御力より素早さを重視した革装備を奈留にさせている。この雪国マップでのクエストを攻略しようと決めたのも、わざわざ新装備を用意しなくとも良いから、という理由だった。
雪国という設定のマップとはいえ、いつも吹雪いているわけではないが、特定種類の敵NPCを倒していくことで、吹雪になる確率を上げていくことができる。いま急速に天候が崩れて吹雪き始めているのも、奈留本人が特定エネミーの討伐を進めているからだった。
「ねえ、ノゥエ。すごく吹雪いてきてるし、もう十分なんじゃない?」
『うん……あっ、もう一匹、発見! あれで最後にしよう』
ノゥエが言うや、奈留の身体は勝手に動き始める。奈留には、いよいよ強まっている吹雪のせいで周りがほとんど見えないけれど、ノゥエには敵の位置まではっきり見えているようだ。ゲームによくある、周辺の地形や物体の位置を表示するマップでもあるのかもしれない。
奈留にしてみれば、暗闇の中にいるのと変わらないような吹雪の中を無理やり走らされているわけだが、なかなかどうして落ち着き払ったものだ。
操作キャラクターになったばかりの頃は、見えない力で勝手に動かされる感覚に慌てたり、酔ったりしていたものだけど、就職して四ヶ月目ともなれば、慣れたものだ。
無駄に手足を動かそうとしたりせず、心の底から全身を脱力させて、ノゥエの操作に身を任せている。
(吹雪だからかな。いつもより、流れるプールにぷかぷかたゆたっている感がすごいや。あっでも、いまはプールよりも温泉に入りたいな。温泉マップって、ないのかな?)
のほほんと無意味な思索に耽る余裕さえあるほどだった。
ノゥエが操る奈留は、吹雪に臆することなく突き進んでいき、エネミーの姿を肉眼で捉える。ずんぐりと太った人間大のクリオネといった風体の、弱そうというか愛らしい姿のエネミーだ。その見た目から想像できるように、この敵はいちおう敵性エネミーではあるけれど、向こうからプレイヤーの操る|キャラクター(PC)に襲いかかってくることはない。むしろ、PCを見つけると、背中を向けてふわふわ逃げ始める。地面すれすれを浮遊して移動していて足跡を残さないから、視界の悪い吹雪の中で見失ったら追跡は不可能だろう――が、この敵は決定的に移動速度が遅いのだった。
いまも、雲呑の皮みたいな小さい羽根をぺちぺち一生懸命に羽ばたかせて、迫り来る奈留から離れようとする。だが、『雪原適性』の特徴を有したブーツを装備している奈留は無慈悲に追いすがり、腰の銃鞘から抜いた拳銃の口を巨大クリオネの背中に向ける。
奈留の指は躊躇いなしに引き金を引いた。
拳銃といっても片手に収まらない大きさ、ちょうど大型のヘアドライヤーくらいの大きさだけど、奈留は片手で軽々と構えている。大砲のような音を轟かせる射撃の反動にも、銃を支える腕はまったくぶれない。
これはべつに、奈留の腕が重量挙げの選手級に強靱だからだ、などという理由ではない。奈留のキャラクターとして設定されている筋力が、この大型拳銃に設定されている重量よりも大きいからだ。
奈留がいま感じている拳銃の重さは、畳んでいる状態の折り畳み傘くらいだが、もしも筋力の値がこの銃を持つのに必要な値を下回っていたなら、銃はダンベルのような重さに感じられていたはずだ。
ノゥエ曰く、
『立体映像を構成している粒子が、キャラやアイテムに設定された値に応じた度合いできみの筋肉や神経を刺激し、重さを感じさせているんだ』
ということらしい。
彼の言う“粒子”とやらは、立体映像を作ったり、温度や重さを感じさせたり――と何でもありのようだ。
話を戻そう。
奈留の放った銃撃は、巨大クリオネっぽいエネミーの背中を直撃する。エネミーは、ぴぃ、っとヒヨコみたいな悲鳴を上げて、海老反りに飛び跳ねる。それと同時に、数字が浮かび上がって消える。いまの銃撃で与えたダメージの量を示す数値だ。
ダメージの数値はかなり高い。
奈留がいま撃った【魔砲銃】はその名の通り、魔術を撃ち出す銃だ。システム的に言うなら、魔術属性の遠距離攻撃が出来るのが特徴だ。
巨大クリオネは、じつは柔らかそうな見た目に反して物理ダメージに対する耐性がかなり高い。魔術属性での攻撃が出来ないと、ちまちまと小ダメージしか与えられないでいるうちに逃げられてしまうことになりかねない。
だからこそ、奈留は――というかノゥエは魔砲銃を撃ったのだが……。
『うぅ……ッ』
目論見通りに大ダメージを出したノゥエが、なぜか身を切られたように呻く。そして、魔砲銃を構えているのとは逆の手で、腰の反対側に提げていた銃鞘から二丁目の銃を抜いて、撃った。
今度の銃は【火薬銃】だ。要するに、普通の銃だ。攻撃対象に与えるダメージも当然、物理属性だ。背中に弾丸を食らった巨大クリオネも、今度は派手に飛び跳ねて痛がる動作を取らないし、浮かび上がった数字も低い。
それでも、続けて三発の銃撃を浴びせたところで、巨大クリオネは独楽のようにくるくるとまわって、粒子に分解していくように消えた。
『【火薬銃】四発で落とせれば、【魔砲銃】を撃たなくても済むのに……!』
ノゥエはまたも呻く。
二発目以降の攻撃に【魔砲銃】を使わなかったのは、【魔砲銃】の弾丸となるアイテム【晶石】が、【火薬銃】の【弾丸】よりもずっと高価だからだ。
費用のことを考えれば、【火薬銃】での攻撃だけで仕留めたいところだけど、時間をかければ巨大クリオネに逃げられてしまう。その妥協点が、【魔砲銃】一発と【火薬銃】三発なのだった。
「……そんなに弾代が惜しいんだったら、銃なんて使わなければいいのに」
奈留は次なる巨大クリオネを探して雪中行軍させられながら、見えない相手に向けて溜息を吐く。
『うるさいなぁ。接近戦、苦手なんだよ。銃が一番、ぼくに合っているの!』
「だったら、弾代で四の五の言わないでよ。耳元で呻かれたり叫ばれたりするの、気色悪いんですけど」
『え? ぼく、呻いたりしてる?』
「自覚なしか! ……まあいいや。まだ目標数に足りていないよね? 早く終わらせて、早く街に帰らせてよ」
『はいはい、分かったよ』
ノゥエの溜息を聞きながら、奈留は勝手に動く身体に連れられて、いま倒した巨大クリオネのいたところへ向かう。そこには、分解消滅した巨大クリオネの代わりに、片手で持てるペットボトル大の瓶が浮かんでいる。巨大クリオネの落とすアイテムである【氷結晶の瓶詰め】だ。
奈留が手を触れると、その瓶は粒子に還元するように消えた。【氷結晶の瓶詰め】は、奈留の所持枠――見ない鞄のようなもの――に格納されたのだ。
ドロップの取得を確認すると、ノゥエと奈留は次の巨大クリオネを探して、また吹雪の中を歩き始める。
吹雪が先ほどよりも弱まっているように感じるのは、奈留の気のせいではない。
奈留がいま受けている依頼の概要は、
「氷雪の精霊が大量発生したせいで、この地は酷い吹雪に見舞われてしまった。精霊を倒して、この吹雪を晴らしてくれ」
というものだ。北国の酒場で、天候が吹雪のときにしか発生しない希少な依頼である。
成功報酬は悪くないし、討伐対象である“氷雪の妖精”こと巨大クリオネは攻撃してこないので、返り討ちに遭う危険もないという、“安全”な依頼だ。
ただし、視界の悪い吹雪の中を探し回らないといけないうえに、物理耐性を突破する手段を用意していないと、倒す前に逃げられてしまう。
要するに、非常に面倒で疲れるのだ。そのため、“安全”ではあるが、“美味しい”とは言えない依頼だった。
「ああもぉ……あと何匹倒せばいいの? 寒いし、単調だし、もう帰りたいよぉ……」
『いまさら泣き言を言わないで欲しいな。この依頼を受けたのはそもそも、きみが、戦闘が楽なのじゃなきゃ嫌だ、と言ったからでしょ』
「うっ……確かにそう言ったかもしれないけれど、でもそれは戦闘だけのことじゃなくて、もっと全般的に楽したいという意味での発言よ。こんな雪山サバイバルみたいなことがしたいだなんて、一言も言ってないし!!」
『でも、いま帰ったら依頼失敗だよ。ここまで頑張ったの、全部台無しになっちゃうよ。それでも帰る?』
「ううぅ! 帰らないわよ! やればいいんでしょ、頑張ればいいんでしょ!」
『もう少しだし、よろしく頼むよ……ああ、ほら。もう一匹、発見だ。いくよ』
「はいはい!」
奈留はその後も吹雪の中を歩きまわり、巨大クリオネを見つける端から倒してまわった。
倒すにつれて吹雪はどんどん弱まっていき、最後には粉雪がひらひらと舞い落ちる程度になる。そしてそれも、何匹目かの巨大クリオネを撃破したのと同時に降り止んだ。
薄雲がみるみる晴れていき、青空から降り注ぐ金色の日差しが一面の銀世界をきらびやかに照らし出す。
『どうやらこれで、依頼完了みたいだね』
「うん……」
ノゥエの安堵した声を聞きながら、奈留も頬を緩めて微笑む。マラソンを完走したときのような達成感を感じていた。
「……でも、二度はやりたくない。わたし、マラソン嫌い」
奈留の慨嘆に、
『うん。稼ぐためだけのプレイは、あんまりやらないようにしよう』
ノゥエもしみじみと同意した。
◆
雪原地域で一番大きな街マップに帰還した奈留は、その足ですぐ、街中で最も賑わっている大きな店に入った。
その店は酒場だ。パーティーが出来そうなくらい広い店内は、飲み食いする多数の男女で賑わっている。彼らは皆、奈留と同じくキャラクター役を引き受けた人々だ。
ノゥエに以前聞いたところ、キャラクター役は全員、奈留と同じ世界の地球人なのだそうだ。飲み食いしている連中のなかには、金髪だったり青い瞳だったりする者もいるけれど、黒髪に黒い瞳の者も少なくない。日本人だとはっきり分かる者もいる。だけど奈留に、それを確かめるために声をかけるつもりはなかった。
キャラクターの中の人について詮索するのは礼儀に反する、とノゥエに言われていたからだ。
『ゲームを楽しんでいるときに、ゲーム外の話をされるのは興醒めだからね』
ノゥエとそんな話になったとき、奈留は次のように反論していた。
「……それ、あなたたちプレイヤー側の事情よね。わたしたちキャラクター側は仕事としか考えていないわけで、別に興醒めとかしないんですけど」
この反論は、ノゥエのさらなる反論を誘発させてしまった。
『それは間違いだよ! きみは確かに、仕事感覚で割り切ってキャラをやっているかもしれないけれど、皆が皆、そうだというわけじゃない。ゲーム世界の住人として、心から冒険を楽しんでいる人だっているんだ。いや、比率から言えば、心から楽しんでいる人のほうが多いはずだよ。そういう統計、どこかで見たことがあるもん!』
口調が子供っぽくなるほど向きになって言い返すノゥエに、奈留はすっかり呆れてしまった。
「ああ……そう……はいはい、分かった。もう言わないから、この話はこれで止めにしましょう」
『いや、まだ――』
ノゥエは話し足りなさそうだったけれど、奈留は無理やり話題を換えた。
「それより、さっさと席に着かせてよ。もう本当、立っているだけでもきついんだけど」
奈留はまだ、店に入ってすぐのところに突っ立ったままである。
『……そうだね』
ノゥエが頷いた気配に続いて、奈留の両足は店奥のカウンター席へと向かった。
腰を落ち着けると、カウンター上にメニュー表がぱっと浮かび上がってくる。どのメニューを選んでも、体力の回復度合いなどは料金毎に一律だ。ただし、味はそれぞれに違っていて、これがどの料理もなかなかに美味しい。そしてしかも、店毎に用意されているメニューが少しずつ異なっているものだから、初めての店に入ってメニューを眺めるだけでも結構楽しいのだ。
『何か食べたいものはある? 依頼達成でお金も入るし、好きなのを頼んであげるよ』
「じゃあ、これ。地中海風イカスミ鍋」
『え……地中海って確か、海沿いの温かい地域だよね。せっかく北国まで来ているんだから、もっと北国っぽい料理じゃなくていいの?』
「温かいお鍋が食べたいの! っていうか、わたしの好きなものを頼んで良いって言ったの、そっちでしょ。文句を付けるな!」
『はいはい』
ノゥエの呆れ声を聞きながら、奈留の手はお品書きに書かれた品名に指をなぞらせる。するとカウンターの内側に立っていた店員が滑るようにしてやって来ると、両手のなかに現れた料理の皿を、奈留の目の前に置いた。
一人用の土鍋に並々と湛えられた真っ黒な汁は、お世辞にも良い見た目ではない。だが、鼻先に漂ってくる湯気の匂いは、食欲を大いに刺激するものだった。
「あっ、ねえねえ。わたし、自分で食べたいからさ、身体の自由を返してよ」
『はいはい、了解』
ノゥエがそう言うと、ぱちっと静電気が走ったような感覚が奈留の首筋を駆け上がった。かと思ったら、腰ががくんと落ちた。危うく、糸の切れた操り人形そっくりの動きで崩れ落ちて、黒い土鍋に顔面を突っ込んでしまうところだったが……咄嗟に肘をついて、事なきを得た。
「危なかった……もうっ! 主導権をこっちに戻すときはカウントダウンして、って前から言ってるでしょ!」
『あ、ごめん。また忘れちゃってた』
「んもう!」
『ごめんごめん。そんなことより、早く食べないと、せっかくのお鍋が冷めちゃうんじゃない?』
「冷めるわけないでしょ。本物じゃないんだから」
料理も店員も立体映像だ。
この世界の大抵のものは、五感を刺激する立体映像で作られている。四ヶ月もこの世界に日参していれば、奈留にもそれくらいのことは、いちいち考えるまでもなく分かるようになっていた。
立体映像とはいえ、手で触れることも出来るし、触れば温かさも伝わってくる。持ち上げることも出来る。もちろん、味や匂いだってあるし、食べ応えだってある。ただ、いくら食べても腹に溜らないだけ――食べた気になるだけだ。
「いくら食べても太らないなんて、最高! カロリーを気にせず食べまくれるなんて、幸せ!」
ゲームのシステム的には、ただの疲労度回復行為にすぎない食事も、奈留にとってはゲーム中で一番の幸せを感じるひとときなのだ。
「……うん。イカスミ鍋、美味しいじゃない! この濃厚な旨味は、肝を漉したものも混ざっているのかな。具材も、烏賊を始めとした魚介の他に、玉葱、ポロ葱、パプリカ、トマトと洋風でまとまっていて面白いわ。でも凄いのは、これだけ洋風の鍋なのに、そこはかとなく和風の味わいなのよね。きっと、鰹と昆布で出汁を取っているからだわ。それに、隠し味の醤油が絶妙な仕事をしているのね!」
思わず料理の感想を滝のように語ってしまうくらい、奈留は心から鍋料理を味わっている。
『いつもながら、本当、美味しそうに食べるよね』
ノゥエの声は少し笑っている。
「不味そうに食べるより良いでしょ」
『それもそうだ。でも、きみの食べっぷりを見ていると、ぼくのほうまでお腹が減ってくるな……少しご飯休憩にするから、ぼくが食べ終わるまで自由にしていて良いよ』
「あ、だったら、わたしも一度、部屋に戻らせてくれない?」
『え、どうして?』
「いちいち聞くな! ってか、いつものことなんだから、好い加減、察するようになりなさいよ!」
『あ、トイレか。ごめんごめん』
「だから、いちいち言うな!」
と言い返している間にも、奈留の視界は一瞬ふっと暗転する。次の瞬間には、奈留は自室のソファで目を覚ましているのだった。
奈留は用を足したついでに食事も済ませて戻ってくると、ゲームの中でもまだ半分近く残っていたイカスミ鍋もぺろっと平らげた。
『きみたちの世界の、甘いものは別腹、という格言は知っていたけれど……甘くないものでも別腹に入るんだね』
ノゥエに苦笑されたのだった。
『それにしても……』
食後のコーヒーをゆったり啜っていた奈留に、ノゥエが話しかけてくる。操作権を手放していると暇なのだろう。
「なぁに?」
『いつも思うんだけど、トイレだったら、いちいち退席しなくても構わないんだよ。酒場にはだってトイレはあるし、なんだったら野外でそのまましちゃっても問題ないんだけど』
「ぶっ!!」
奈留がコーヒーを吹き出した音だ。コーヒーもまた仮想のものだったから、カウンターを汚したりすることなく粒子になって消える。おまけに、気管に入って咽せることもない。だから、すぐさま言い返すことだって出来るのだ。
「馬鹿じゃないの!? ゲームの中でするってことは、あんたに見られてる中でしろってことでしょ。そんなの出来るわけあるかぁ!!」
『ぼくは気にしないのに』
「わたしが気にするわ! ってか、あんたも気にしろ! このっ、常識知らずの甲斐性なしの引き籠もりネトゲ野郎!」
『随分な言い様だね。ぼく、仮にもきみの雇用主なんだけどな』
「雇用主だからって、女子のトイレを見ようとするが許されると思っているわけ!?」
『見ようとするなんて言っていない。気にしない、と言ったの。それと、女子という形容が許されるのはせいぜい学生の間だけだと認識していたのだけど?』
「うっさい!」
奈留の怒声に、ノゥエは鼻息で笑う。不毛な言い合いにこれ以上付き合う気はない、という意思表示だった。
『さて、食後の休憩ももう終わり。操作権、返してもらうよ』
「どうぞお好きに、雇用主様!」
嫌みったらしく言った奈留の背筋が一瞬、ひくんっと小さく跳ねた。
首から下の自由がなくなって、自分の身体が自分の意思とは関係なしに動く奇妙な感覚にも、もはや戸惑うことのない奈留だった。
『さて、これからどうしよう? この街でもうひとつくらい依頼を受けてみるか、今日の内に暖かいところに戻るか……』
ノゥエは独りごちながら、奈留の身体を酒場の玄関口へと向かわせる。と、背後から奈留の肩を叩いて呼び止める者があった。
「はぁい、こんにちは。どうも、どうもぉ」
「……はい?」
いかにも軽薄そうな呼び声に、奈留はくるりと振り返る(ノゥエが振り返らせた)。
声をかけてきた相手は、奈留とそう歳の違わないだろう女性だ。話しかけてきた態度や身につけている装備から、店員などのようなNPCではなく、奈留と同じ|操作キャラクター(PC)だと一目で分かった。
温かそうなもこもこの耳当てに、マフラー。両腕にも同じ素材のアームカバーをしていて、足下はルーズソックスに踝丈ブーツだ。
――と、ここまでは雪国の街に似合った服装と言えたが、肝心の胴体を覆っている布の面積が問題だった。
彼女が着ているのは、Y字型の紐みたいな水着……いわゆるスリングショットという奴だった。雪国の街に暮らす人物として設定されたNPCが、そんな姿をしているはずがなかった。だから、PCだとすぐに分かったのだった。
相手の見た目に唖然としていた奈留に、相手はにっこり微笑みかけてくる。
「突然すいません。じつはあたしたち、いま、リーグのメンバーを募集している最中なんです。良かったら、一緒に遊ぶ仲間になってくれませんか?」
リーグとは、要するにチームのことだ。同じチームに所属している仲間同士は、ログイン状況を確認し合えたり、離れた場所にいても容易に通話できるようになるのだ。
「え……っと……」
奈留はまだ呆気に取られた顔のまま口をぱくぱくさせていたが、相手には、奈留が答えるまで黙って待っているつもりはないようだった。
「あたし、あなたを見た瞬間にビビッと来ちゃったの。あなたなら絶対、あたしたちのリーグにぴったりのメンバーになってくれるって!」
「ぴ、ぴったり……?」
意味ありげな言いまわしに、奈留は眉根を寄せる。
「あたしたち、露出度の低い防具は着ないぞリーグなの!」
相手の女性は、待ってましたとばかりに、そう答えた。
「は……」
奈留は今度こそ本気で、呆気に取られてしまっていた。
口をあんぐりと明けたまま、彼女の姿を改めてまじまじと見つめる。
雪国の酒場という舞台にまったくもって似合わない過激な水着姿の彼女は、奈留の視線をむしろ堂々と胸を張って受け止めている。
「ねえ……恥ずかしくないの……?」
奈留が思わず率直な疑問を投げかけると、相手はなぜかますます得意げに語り出した。
「もちろん恥ずかしいですよ。でも、それが良いんです!」
けして巨大ではないけれど小振りでもない乳房を持ち上げるように胸を張っている。頬は赤らみ、愛らしい瞳はうっとりと潤んでいて、ひどく色っぽい。
「ひとつまみの塩が西瓜の甘さを引き立てるように、このちょっぴりの恥ずかしさが気持ちよさをぐんっと際立たせるのです! ですから、羞恥心がないのは駄目です。羞恥心を忘れることなく、しかして呑まれることなく飼い慣らすのです。それが出来たとき初めて、人は見られることの……見せつけることの素晴らしさに気がつくのです!」
女性は両手をがばっと広げて、恍惚の顔をする。自分の熱弁に酔いしれているようだった。奈留はもう完璧にドン引きだった。いますぐ、ここから逃げたくなっていた。
「あの、ごめんなさい。わたし、そういうのは興味ないので……」
唇を引き攣らせつつ謝絶の言葉を口にしていた奈留の耳に、ノゥエの声が呑気に響いた。
『いいんじゃないかな、べつに。せっかく声をかけてくれたんだし、試しに何日か入団させてもらってもさ』
「……え?」
奈留には、ノゥエが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「えっと、ごめん。いま、なんて?」
聞き返した奈留に、ノゥエはこれまた呑気に答えた。
『前からリーグというのにも興味はあったんだ。ただ、なかなか機会がなかったし、もう少し強くなってから探してみるのもいいかなと思っていたんだよね。だから、せっかく誘ってくれたんだし、体験入団くらい良いんじゃないかと思うんだ』
「……それ、本気で言っているの?」
『え、うん。そうだけど……』
「絶対に嫌!」
奈留は大声を上げていた。
目の前で返事を待っていた相手だけでなく、たまたま近くを通り過ぎようとしていた客までもが、ぎょっとした顔を振り向かせてくる。
今更の説明だが……ノゥエの声は、奈留にしか聞こえていない。プレイヤーが出来るゲーム内への干渉は、自身の操作キャラクターを動かすことと、操作キャラクターと会話することだけだ。他の|相手(PC)に直接話しかけることなどは出来ない。プレイヤーはあくまでも、操作キャラクターを通してしかゲーム内の要素に干渉できない、というのが原則なのだ。
だから、擦れ違った客も奈留の大声に驚いたのは一瞬だけで、すぐに、
「ああ。プレイヤーの人と話しているのか」
と、納得の顔をして立ち去っていった。
「プレイヤーさん、嫌だって?」
スリングショットの彼女が不安げな顔で尋ねてくる。
『そんなことないよ、って言ってあげて』
ノゥエがそう言ってくるのを無視して、奈留は際どい水着姿の彼女に、申し訳なさそうな顔を作ってみせた。
「うん、そうなの。わたしのプレイヤー、いまのところリーグに入るつもりはないんだって。だから、せっかく誘ってくれたのに悪いんだけど、ごめんなさい」
『いやいや、おおい。待ってよ、待って。ぼくはそんなこと、一言も言ってないよね? ねえ?』
ノゥエの抗議を右の耳から左の耳へと聞き流して、奈留は水着姿の相手に頭を下げた。首から上しか動かせないので、お辞儀というより、頷いただけの動作だったけれど、同じキャラクター同士の彼女には意図が伝わったようだ。
「そうなんですか……残念です」
彼女は心底残念そうに眉根を下げると、さらにこう続けた。
「あなたは絶対、こっち側の人だと思ったんですけど……」
その言葉に、奈留の目尻がひくんっと引き攣った。
「こっち側……って、わたしに露出の気があるって言うの!?」
「あっ、そういうわけじゃなくて……あれ? そういうわけになるのかな? ええと……」
彼女は小首を傾げつつ、考えをまとめまとめ話す。
「何て言ったら良いのか……あなたは堂々としているの」
「堂々と?」
「そう。他の人は、これがゲームの中だと分かっていても、剣だとか鎧だとかを身につけていることに、どこか気恥ずかしさを感じているんですよね。ちょっと違うかもだけど、学芸会をしているような感じ」
「……わたしは、そうじゃないと?」
「はい。あなたはものすっごく自然体なんです。演技しているところがないっていうか……すごく堂に入っているんです。見た瞬間、この人は本当にこの世界で生きている人だーって思っちゃいましたもん!」
過激な水着の彼女は、ぱっちりと丸い瞳をきらきらに潤ませて、夢見るように語った。でも、言われているほうの奈留としては、どうにも反応に困るのだった。
「いや……はあ……それは褒められているのかしら。それとも褒め殺し的に貶されているのかしら?」
「全力で褒めているんですってばぁ!」
彼女は片手を振って、けらけら笑う。どうやら、現在の身体の操作権は、プレイヤーではなく彼女自身に委ねられているようだ。
「わたしから見れば、あなたのほうがよっぽど堂々としているように思えるけれどね」
奈留は多少の皮肉を込めて笑ったけれど、水着の女性は嬉しげに身をくねらせる。
「えっ、本当ですかぁ? いやぁ、恥ずかしいなぁ。照れちゃいますよぉ」
そう素直に喜ばれてしまっては、皮肉を返した奈留のほうがかえって恥ずかしくなってしまう。ん、ん、と咳払いを打ってから、無理に話を戻した。
「そう……まあ、いいわ。とにかくそういうわけだから、せっかくのお誘いだけど、断らせてもらうわ。悪いわね」
「いえいえ。こちらこそ、いきなり呼び止めちゃってすいませんでした。では、長く引き留めちゃっても悪いですし、これでっ」
彼女は一度ぱっと頭を下げると、くるりと踵を返して酒場から出て行った。
防寒用の厚いマントを揺らす後ろ姿が見えなくなってすぐ、ノゥエの大声が奈留の耳を打つ。
『もしかして、本当に装置が故障しちゃっている? ぼくの声、届いていない?』
「……届いているわよ。だから、ぎゃーぎゃー騒がないで」
『あ、良かった。壊れたんじゃなかったんだね……ん? じゃあ、ぼくの声が聞こえていたのに無視していたってこと!?』
「大袈裟ねぇ」
『いやいや、それって立派な契約違反だよ? 就業規則にちゃんと書いてあったよね、プレイヤーの意図に反する行為は控えましょうって』
「その項目には、こういう前書きがしてあったはずよ。正当な理由がない場合は、って」
『じゃあ、きみはどんな正当な理由で、ぼくを無視して勝手にリーグの誘いを断ったっていうのさ?』
「わたしに露出の趣味はない! これ以上に正当な理由が必要!?」
奈留が怒鳴ると、またしても傍を通りかかった客がぎょっとした顔で振り返る。それに気づいたノゥエは、立ち止まっていた歩みを再開させて、奈留を店の外へと出させた。
雪に覆われた街路に足跡を伸ばしながら、改めて奈留へと反論する。
『さっきの話だけど、露出趣味がどうのというのは見当違いな意見だと思うな』
「……ふん?」
奈留は鼻息で促す。
『ここはきみたちの日常とはまったく異なった場所、ゲームの世界だ。現実とは違う場所だ。だから当然、きみが従わなくてはならない常識は、現実の常識じゃない。この世界の常識だ。実際、きみはいまだってその常識に従っているじゃないか』
「え……?」
『きみがいま装備しているのは何だい? スーツか? 学生服か? 着物か? 違う――鎧だ。マントだ。そんなもの、きみは現実世界での常識に照らしたとき、常識的な服装かい?』
「……いいえ。ゲームの中でじゃなかったらあり得ない格好ね」
奈留にもだんだんと、ノゥエの言わんとするところが分かってきた。
いま奈留が着ている革鎧は、胸部や腰回りなどの要所を覆っているだけのもので、腹部や太ももは剥き出しになっている。現実的に考えたら実用性に乏しい、見た目しか考えられてない“鎧”ではなく“鎧のようなファッション”だ。ゲームの中でしかありえない鎧だ。
「たしかに、こんな鎧を着て普通にしていられるというのは、ゲームの常識を受け入れているということかもしれないわね」
『ほらね、きみは自分でもそう思っている。きみはゲームの常識を受け入れている。ここが現実ではなく、ゲームの中なんだと認識しているんだ』
「だから、現実での常識なんか忘れて、露出度の高い水着でも何でも気にせず着ればいいじゃない――って?」
奈留はノゥエの言葉尻に続けて言った。
『なんだ。ぼくが言いたいこと、分かっているじゃないか』
悪びれることなく言ったノゥエに、奈留は渋い顔をして舌打ちを鳴らす。
「はぁ……ときどき思うんだけど、あんたって本気で馬鹿よね」
『え、なんで?』
「この格好はべつに恥ずかしくないからいいの。でも、さっきの子が着ていたみたいなのは、胸とか色々見えすぎちゃっているから恥ずかしくて嫌なの。ゲームとか現実とか常識とか、そういうのとは関係なしに、恥ずかしいか恥ずかしくないかが問題なの!」
『いや、だから……あの水着も、ゲーム中に設定された単なる装備のひとつなんだから、べつに恥ずかしいことなんて……』
「そんな理屈で、あんな水着が着れるかぁ!!」
これまでで一番の怒声を張り上げた奈留に、さすがにノゥエも、これ以上の問答を続けるつもりはなくなったようだ。
『……うん、もう分かったよ。もう言わない。この件はこれで終わりだ』
「ええ、そうして」
奈留はまだ仏頂面のままだ。その顔をきっと画面越しにでも見ているのだろうノゥエが、憮然とした声で呟いた。
『ぼくがプレイヤーなのに、どうしてキャラクターのきみに譲歩しなくちゃならないんだか……』
「ちょっと。聞こえているわよ」
『愚痴くらい言わせてよ。でも、それよりも……この際だ。きみがそこまで装備にこだわりがあるのなら、聞かせてもらおうじゃないか。今後、どういう装備を揃えるのなら文句を言わないでくれるのか、知っておきたいからね』
「良い提案ね。じゃあ今日はとことん話し合うとしましょうか」
奈留はそれから逗留していた宿に帰ると、自室で交易品の出品目録を見ながら、ノゥエと二人で、ああでもないこうでもないと語り明かしたのだった。




