第二章
ここで二週間ほど時を遡ろう。夜間外出禁止令が発令される以前の話である。
季節は彼岸を過ぎて、桜の咲く頃となった。
今年の桜は開花が早く、彼岸の明けるころにはもう染井吉野の開花が報告されたが、肝心の花見客がほとんど居らず、よって人出を見込んで出す露店も、まったく見られないという異例の事態となっていた。
桜が満開になる頃になっても花見客は昼も夜もほぼ皆無、保安のためか提灯だけが賑やかそうに灯っていたが、閑散としているせいかどこかその光景は不気味で、桜の美しさと相まって怪談めいた雰囲気に満ちているともっぱらの評判であった。
ということで、桜が咲き乱れる時期を過ぎ、花の散り急ぐ頃となったが、夜桜見物をする者がいるとしたら、それはよほどの命知らずか、物好きと言えた。
その電話が来たのは、桜の落花が報じられた或る日曜の朝のことであった。電話の主は私の恩師の八木沢先生である。先生とは卒業後も家が比較的近いので、いわゆる師弟以上とも思える中身の濃いお付き合いをさせてもらっていた。茶目っ気のある先生で、一緒に飲むこともちょくちょくあり、その度に新手のおふざけを考えてくる。そんな憎めない人である。
「おう、杉野か、今夜あいているかね」
「はい、何と言うか、ここのところ仕事が暇なので特に用事はありませんが」
「猿見物、夜桜見物としゃれ込まないか」
「えっ、猿ですか」
「ふふ、怖いかね」
「はあ、先生は怖くないんですか」
「はは、怖いものか。犬を連れて出るとつまらないから、木刀だけ持って出ようと思うんだが」
「大丈夫ですか」
「面白そうじゃないか。スリル満点。だから君を誘っているんだよ」
「……スリル満点って。スリルどころじゃないと思いますよ。先生は面白いかも知れませんが、僕は犬じゃありませんし」
「私は犬が嫌いだ」
「はあ」
「それに桜吹雪が見られるのに、人がいない」
「そうですが」
「最高の花見だぞ」
「でも、警官につかまりますよ」
「警官など怖いものか。私は往年の学生横綱だ」
「そうでしたね」
「それにある趣向を考えた」
「何ですか」
「猿の着ぐるみを着るんだ」
「えっ」
「それなら猿も怖くあるまい」
「バラエティ番組でお笑い芸人がふざけてやっていたやつですか」
「ああ、学校の演劇部が着ていた、猿も見まがう本物そっくりのやつだ」
「よくそんなの借りられましたね」
「演劇部の顧問の柳田先生は私の教え子だ。彼の友人が映画会社の衣装とコスチュームの係でね。それでうまいこと言って借りてきた。柳田君、まんまと一杯喰わされてくれたよ」
「えっ、そうなんですか。で、僕も着るんですか」
「当たり前だ」
「暑くないですか」
「暑ければ頭は被らなくていい。私も被らん」
「了解しました」
「わかればいい」
「……はい。それじゃあ、天野を誘いますよ。あいつは喧嘩が強いし体格いいですから」
「そうか。それはいい。じゃあ六時に浅間神社の公園で落ち合おう」
天野は私の幼馴染みで、高校の同窓生でもあったし、私の勤めている建設会社の仕事仲間でもあり、悪友と言っていい間柄の男であった。家は私のアパートから四五軒行ったところにあり、彼は酒飲みとしても知られているが、猪と格闘した豪傑としても仲間内では名高い。最近建設現場の仕事がなく、デスクワークばかりでいらいらしている様子であったから、彼に電話をかけてみたら、案の定大変喜び、大いに乗り気であった。着ぐるみの話をしたら大笑いして納得した。もともと猿など恐れるタマではないのである。
私を含め天野や八木沢先生も市民がパニックに陥っているのは知っている。だが恐るるに足らず。天野の退治した猪は百㎏を超す大物だったという。まさに怪力天野。恐るべし、である。
私は軽く夕食を済ませ、天野の家へ行った。彼の家の玄関口で待っていると、天野は木刀と一升瓶を持って出てきた。日本酒かと訊くと、違う、芋焼酎だという。すでに酔っているようであって、言葉の調子が仕事の時と違っていた。行きは車で行って、帰りは代行で帰る手も考えたが、天野の様子を見ていたら、そんな弱気な気持ちはどこかへ掻き消えてしまった。私一人が怖がっているのもばかばかしく思われてきたのである。
八木沢先生は神社の明治天皇の歌碑のところで待っていた。大きなスーツケースを持っている。電話でおっしゃっていたように、犬は連れていなかった。
私は警官に挙動不審を見とがめられ職務質問されることを怖れていた。そうなると場合によっては公務執行妨害でひと晩留置場に過ごすことも覚悟せねばならない。
不安に思った私は警官の巡回を話題に出し、心配を口にしたが、先生はどこ吹く風で笑っている。話を聞けば駐車場からここへ来る途上、襲いかかってきた大きな猿を一匹木刀で打ちのめし、スーツケースにロープで縛りつけて、交番に突き出してきたと豪快に笑いながら言う。よくスーツケースの中身を怪しまれなかったものだ。ひょっとすると警官は先生の迫力に負けたのかもしれない。先生はスポーツの分野では神泉市で知らない人がいないというくらいの「著名人」である。警察にも格闘技の強い人はおり、よって市の警察署にも顔が利くほど先生の名声は知れ渡っていた。
なあに、警察なんぞ腰抜け揃いだよ。われわれはそんな腰抜けどもに用は無いのだ。先生の論旨は明快であった。
八木沢先生は、天野の高校時代の相撲の師匠である。つまり当時の相撲部の顧問であって、天野には稽古をつける立場であった。強かったのだ。前述したように話では学生横綱を張っていたという武勇伝もある。その先生も今は六十代半ば。であるが、顔立ちの精悍さは教師をしていた当時と見劣りしないし、未だに相撲部に呼ばれて稽古をつけてやることがあるという。
公園に来てみると、幸運なのか不運なのか、その夜もひとりとして花見客がいなかった。先生は大喜びである。ただ、猿を警戒してか、今夜も提灯だけが灯っていて、夜桜をほんのりと妖しく照らしている。
「見ろ、杉野。天野。今夜は貸し切りだぞ。ははは」
「先生も酒持ってきたんですか」
八木沢先生も酒好きで知られている。車で来たのだから、家で飲んできたわけでもないであろうに、先生も機嫌がよかった。
「ああ、焼酎の生一本だ。幻の芋焼酎だよ」
「やあ、それはいいですね。僕はつまみをたくさん買ってきました。先生、天野の酒を見てください。こいつ普段こんなのを飲むんですよ」
「うむ、お前の酒も趣味がいいな」
ところで、着ぐるみはトイレで着ることにした。
「先生、これゴリラじゃないですか」
「似たようなものだろう」
「全然違うと思いますが」
「猿なんぞ馬鹿だからどうせ判らん」
「そうですかね」
「天野、どうだ」
「ちょっと背中のファスナー閉めてください」
「きついか。お前また肥えただろう」
「あ、はい。五㎏ほど。ちょっときついけれど着られました」
「でも僕は白いゴリラですか」
「ああ、杉野、お前は武蔵をやれ。あいにくその着ぐるみは雌だけれどな。とは言えゴリラはゴリラだ。でかく作ってある。」
「えっ、そうですか」
「私の身体は昔とほとんど変わっとらんからさすがに着られんのだ」
「僕には着られますかね」
「お前はチビだからぴったりだろう」
「あ、はい。なんとか」
一番いい場所に陣取り、シートを敷いて宴会を始めた。先生と天野はすでに乗り乗りであった。
「先生、飲み比べしましょう。いまでもいける口だって聞いていますよ」
「おう、受けて立つぞ。ほれ杉野、飲め。うまいぞ」
「いただきます」
「天野、一曲唄ってくれ。そうだ、あれだ。例の武田節を頼む」
天野の定番は酔った時の武田節であって、これは八木沢先生直伝である。しかしゴリラが唄う武田節というのもなかなか妙なものである。
一陣の夜風が桜の樹々を揺らしている。今夜はちょっとひんやりした花冷えという陽気であって、着ぐるみを着るにはちょうどいい。その花の散り急ぐ枝々を見ている内に、だんだん私もいい気分になってきた。風はひたぶるに吹きやまないので、明々とした提灯の列もゆらゆらと揺れだした。その提灯や、揺れる枝々、桜吹雪を見ている内に酒に酔ってきたようである。
やがて私を含め三人ともだいぶ酒が廻ってきたせいか、天野も先生も前後に身体を揺らしながら飲んでいるから、どうしたのかと思っていたら、
「天野、酒はいいが、酔うとトイレが近くなって困るな」
と、天野も応えて、
「まったくです」と、席を立った。
「先生、師弟で連れションですか」
「ああ、すぐ戻る」
そう言って先生も席を立ったが、二人とも酔ったのか木刀を持って行くのを忘れている。まあ、二人のことだから大丈夫だろうと思った。私も酔っているせいか、さほどそのことを気にもしなかったということもある。
それからしばらくひとりで飲んでいたら、大分経ってから二人が帰ってきた。頭からゴリラの被りものをし、背をかがめて歩いてきた。ずいぶん長いトイレだったが、気にもせずに飲んでいると、二人は急に無口になり、無闇につまみを口にし出した。酒も飲むが、つまみを食べるペースも早い。
私はというと、酔えば多弁になるのだが、先生と天野が黙りこくったまま、むしゃむしゃとつまみをむさぼり食べるので、雰囲気的に気まずくなったような気がしはじめたし、これ以上しゃべっていると先生に怒られそうな雲行きになってきたから、私は何だか俯き加減になってしまい、話の種もいつしか尽きてしまった。
それはどうにも妙な酔い心地であった。私は酒のせいだと思っていたけれど、周囲の風景が揺れ始め、これは飲みすぎたかと思ったから、しばらく飲まずにいて、酔いを少し冷まそうとしていたら、天野が一升瓶をこちらへ向けて、私の紙コップに酒を注ごうとする。
私は先生と天野の態度が、にわかに不機嫌そうになっているのが気になっていた。前述のように二人は酒豪として知られている。焼酎一升程度で泥酔する人たちではない。それに普段の彼らはいつも朗らかな酒である。私は心配になってきた。二人とも今夜に限ってどうしたのだろう。
そのうち、目の前のものが二重にも三重にも見えるようになってきて、自分としても正体を失いつつあったので、そろそろ潮時かもしれないと思い出したけれど、目の前の二人が、なかなか酒宴を終わらせてくれない。
二人が口を利かなくなったので、何とか間を持たせようとして私はこんなことを言ってみた。
「先生、学生横綱になった時の例の名勝負の話を聞かせてください。片山という一五〇㎏近い選手が決勝の相手だったんでしょう?」
それを聞くや否や、先生はうーっと唸り出した。返答に悩んでいるのかと思ったが、顔を見るとこっちを凄い眼で睨みつけている。怒ると言うより、私を威嚇するような唸り声であった。思わず私が後ずさりすると、先生は唸るのをやめ、下を向いてまたつまみをぼりぼりと食べはじめた。まったく会話が成り立たない。私は二人の喰いつきそうな話題を振っているのに、話は盛り上がらないし、二人は我関せずと、つまみをむさぼり食っている。これは私がほんとうに酒に酔ったせいなのだろうか。それもわからなくなってきた。先生も天野も目ばかりぎらぎら光らせており、とにかくいよいよまずいことになったと思っていたが、どうすればいいのか、いい考えも湧かなかったし、二人が木刀を傍らに置いていることもあって、今夜は無事に帰れるのか、それすらも怪しい気配になってきた。
どっちにしてももう十時を過ぎたし、先生にそろそろ帰りましょうか、と、切り出そうと思ったけれど、喉の奥に固形物が詰まっているように感じ、また桜並木の提灯の滲んでいるのを薄気味悪く思って、口を開いても何故か一向に声が出ず、とにかく立ち上がろうとしたけれど、足腰が言うことを利かなかった。
夜桜は提灯の薄明りのせいか、どこか妖しいひかりを内側から放つかのように、凄絶な美のオーラのごときものを辺りに撒き散らしていた。そうこうしているうち、私の背後の明りがちらちらしはじめ、そのぼんやりとした照明の加減で、目の前の私の影が次第におぼろながら大きくなり出した。あたかも自分が巨大化したように感じ、奇妙な気分であったが、その大きな影はのっしりと居座ったまま、私がどう動こうと、まったく微動だにしないのだった。