第一章
富士山に近い山あいの町である神泉市の浅間神社への坂道を下ってゆくと、右手に病院が見えてくる。篠原クリニックという内科病院なのだが、その付近に猿が出たという情報がもたらされたのは、今から二ヶ月余り前の二月初めのことであった。
その猿は飼っていたのが逃げ出したというのではなく、野生のニホンザルであって、広報の情報によれば、更に物々しいのは十数匹の群れをなして現れたということである。
報道によれば猿の襲撃によって救急病院に担ぎ込まれる人は後を絶たなかったが、不幸中の幸いだったのは、被害者の怪我がいつも全治一、二週間ほどの軽症で済んでいたことで、入院するほどの怪我人はまだ報告されていなかったけれど、それでも不意をつかれる恐怖は遭ってみたことのない人には判らないと、被害者が口をそろえて証言したことを真に受けたせいか、市民はそれだけで震え上がった。
ニホンザルは本来昼行性であるが、神泉市に出没する猿の群れの特徴は、人があまり出歩かない、夜半前から未明にかけて夜間でも明るい市街地で行動することである。話によると、一人で深夜のコンビニから出てきた人を狙うのだそうで、店の白いポリ袋を目印に背後から襲うという噂が巷に広まった。よって、買い物をする人は単独行動を避け、マイバッグを持参するよう指導され、それまで一向に進まなかったマイバッグ運動がにわかに活発に叫ばれるようになってきた。
しかしそれも一時の事であって、猿はコンビニから出てくる客を集中的にマークしていたらしく、ほどなくしてポリ袋に限らずマイバッグを持っていても、三、四人で連れ立って歩いていても襲われるようになったので、マイバッグ運動はたちまち立ち消えになっただけでなく、いつもは人で込み合うコンビニも猿騒ぎの渦中にあって、来店者が激減、経営不振に陥る店が市内で増加の一途を辿り、それまで人気店だったにもかかわらず、閉店の憂き目に遭うコンビニ店が続出する事態となった。さらに店の駐車場で客が襲撃に遭ったり、帰路の途上街灯下で襲われたりする事件が頻発したので、人々が夜間の外出を恐れるようになったために、事態を重く見たコンビニでも、またスーパーなどでも警戒のためガードマンを常駐させるようになったから、猿の群れが駐車場や店内に侵入するような事態は報告されなくなったが、一方居酒屋などの深夜営業の店は経営にたちまち行き詰まり、閉店する店舗が相次いだ。
これだけだったらまだ良かったのだが、人を襲う面白さを覚えた猿たちが、日中群をなして民家を襲う事例も報告されはじめた。特に狙われたのは、戸締りをあまりしないような一部の農村部の民家や高齢者の住宅であって、昼間のあまり人のいない時間帯に、家屋に浸入し、冷蔵庫などの食料品を食い荒らす被害が相次いだ。襲撃を目の当たりにして、慌てたご老人が転んだり、猿に引っかかれたりしたという被害が報告されるようになり、中には骨折など、大怪我をするお年寄りが相次いで、事態はいよいよただ事では済まなくなってきたのである。
この神泉市の「異変」に警察署を始めとして、当局は猿対策に大わらわとなった。その一つの対処法として叫ばれたのが、戸締りの徹底化と犬による護衛である。そのため最近では大型犬を連れて外出する人が急増した。もちろん以前の流行では神泉市でも小型犬がもてはやされていたけれど、飼い主の身を守ってくれる大型犬の存在は何より市民を安全にするであろうということが頻繁に話題に上り、また自警団も結成されたけれど、彼らも自らバットや木刀などの武器を持つだけでなく、ドーベルマンやシェパード、紀州犬のような格闘に強い犬を、常に同伴させて巡回することが市議会の決定によって義務付けられることになり、そのこともあって、一家に一匹大型犬を飼うことが世間一般の常識となった。
洗濯物を外干しする人が極端に減った。主婦にとっては傍迷惑な話だが、洗濯物を干しているという、わずかに無防備になった隙を、猿に襲われる事例が報告されたからで、市民、特に女性の「猿恐怖症」とも言うべき傾向はさらに顕著になり、裕福な家庭では、犬だけではなくボディガードに付き添ってもらって、買い物などの外出をするという、過敏な対応を取る市民も見かけられるようになってきた。
ここまで来ると観光目的でやってくる市外からの客は、ほぼ皆無になった。やってくるとしたら、それは猿見物に来る、物好きな連中だけになった。モンキーウォッチャーという言葉がネットで使われるようになったのは、この頃からである。
また、話は猟友会にも行ったけれど、猟友会を夜間の警備にお願いするのは、明らかに無理があった。
というのは、猿の群れの出没する場所が住宅地である点にあった。
市民の安全を守るためであっても、住宅地で猟銃を発砲するわけにはいかないのは、常識で考えれば誰にでもわかる。また、それ以上に重要なのは動物愛護の観点からの懸念であった。猿を狙撃するとなると動物愛護団体や動物保護運動家も黙ってはいない。結局市議会でも或る議員が猿の狙撃を口にした途端に、他の議員からの批判が集中し、いわば議会が「炎上」するような具合になって、喧々囂々(けんけんごうごう)たる非難の声が飛び交い、議会そのものが紛糾、空転する事態になった。それは大の大人が集まるほど物事は何一つ決まらなくなると、市民が陰口を叩くほどだった。
また、これらの猿出没のニュースが全国ネットで放送されるようになると、テレビ局や全国版の新聞社が大挙して取材に来るようになった。困ったのはこれに便乗したバラエティ番組のスタッフが、地元の市民感情を逆なでするような、企画を立ち上げたことである。猿の出没しそうな場所で、夜間に花火遊びや爆竹を鳴らす馬鹿騒ぎをして、後片付けもせずに退散したり、お笑い芸人たちが防具や着ぐるみに身を固めて、同様に夜間路上で猿にちなんだ歌を唄うと言う番組の収録を始めたりした。それによって神泉市の猿騒動は不名誉な「全国区の話題」となった。市長を始めとして、市のPRに尽力している人たちには迷惑な話で、市としては地元出身の若手女優を起用したりして、イメージアップに躍起になったため、少しはイメージ改善の兆しも見られるようになったが、猿騒動そのものが解決しないことには、不名誉なイメージを完全払拭するのは土台無理な話であった。
市内はパニックに陥っていたにもかかわらず、いわゆるモンキーウォッチャーは増加の一途をたどった。その理由として猿が日中でも市街地で見かけられるようになったことと、猿の動画がネットで大変な閲覧件数を記録したことにあった。その動画が物珍しがられたのには理由がある。というのは、そのリーダーの猿と一匹の子猿が、ニホンザルとしては非常に珍しい白い毛をしていたことである。このリーダーと子猿、すでに名前を付けられ、名前で呼ばれていた。その名を「武蔵」と「小次郎」といい、この「武蔵」とは剣豪、宮本武蔵のことであり、また子猿の名はライヴァル佐々木小次郎のことである。また、「武蔵」は身体が並外れて大きいにもかかわらず、他の猿よりもずば抜けて動きが敏捷であった。油断のならない猿だが、それ以上に白い子猿の可愛らしさと相まって物珍しさが人々の興味を呼び、猿見物に来るモンキーウォッチャーの目当ても、この「武蔵」「小次郎」であって、彼ら見たさにわざわざ遠くから押しかけてくるほどだった。
よって観光客が、猿の出没スポットに張りついている光景がみられるようになったが、一般市民はこのことが猿を刺激して大変な事態になることを危惧していた。
そのため、当局も各所に多数のガードマンや警官を常駐させないわけには行かなくなった。市役所と警察署の対策室に寄せられる目撃情報は一日に百件を超え、さらに猿の群れの増加も懸念されはじめていた。一説によると、その総数は百匹或いは百五十匹以上とも言われ、夥しい猿の群れは、さらに分散化して人を襲うようになった。彼らは目撃されるたびに増加の一途をたどっていたし、襲撃の様子も、ますます神出鬼没を極めて、市役所も警察署も担当人員を増やし、県警にも人員を依頼する事態となったが、これほどの大騒動に発展してしまっては、もはや当局もお手上げ状態と言う外はなかった。
小学生、幼稚園児らの子供の安全を守る必要も出てきた。対策としては子供同士だけで外出させず、必ず親か大人の保護者の同伴が義務付けられた。また、中学生以下の子供は夜間六時以降翌朝六時までの外出が禁止された。この決定によって学習塾は規模縮小を余儀なくされ、家庭教師の需要が大幅に伸びた。また、子供の一人一人にスイッチ一つで大きな音が鳴る携帯警報機が支給された。
そのさなか、群のなかの一匹のニホンザルの背にクロスボウの矢が刺さった状態で発見されるという事件があった。どんな状況下であっても心ない行いをする人物はいるものであって、矢ザルを写したツイッター画像に、「ざまあみろ」「サル死ね」などと言う投稿が少数ながら見受けられるようになった。当局は何とか保護して矢を抜き手当てをしようとしたが、この「矢ザル」、人を一層警戒してなかなか捕まらない。一方冷やかしの観光客はさらに輪をかけて増えた。しかし、このボウガンの事件によって事態は少しだけ好転したように思われた。というのは、ただでさえ捕まえにくいニホンザルであったが、この時は県下の猟友会一の射撃の名手と言われ、自営業をされている楢沢秀之さんに、麻酔銃を撃ってもらって何とか猿の保護に成功、クロスボウの矢を抜いて手当てをしてやることができた。またこの猿に発信器を装着し、群れの一つのグループの行動だけは把握できるようになった。 その後も、麻酔銃によって捕獲された猿に発信器をつける作業を続けた結果、四匹の猿に発信器をつけることに成功した。それによって猿たちは集結と拡散を繰り返していることがわかった。集結とはいわゆる「猿の集会」らしく、この直後に拡散した猿の群れが同時多発的に人を襲うことも明らかになった。
しかし、これが却って「猿の集会」を一目見ようという、怖いもの見たさと言う外ない野次馬のモンキーウォッチャーの出現を誘発するようなことになった。
当局は猿たちに要らぬ刺激を与えないようこれらのマニアックな連中にネットやテレビ、広報無線などで注意を喚起していたけれど、いずれ武蔵率いるニホンザルの群れの総反撃があるのではないかと、さらに警備の人員を増やしたが、心ない野次馬の数も急増していたのは確かで、事態は一触即発の様相を呈してきた。
三月一六日、深夜一一時三五分ごろ、東京都にお住まいの、自由業をしておられる梶原雅樹さん四七歳が、友人数人と市内月見町の公園内林中の猿スポットで「猿の集会」を一目見ようと張り込んでいたところ、背後から二十数匹の猿の群れに襲われた。友人は素早く逃げたので、軽い怪我で済んだが、雅樹さん一人逃げ遅れ、あのリーダー「武蔵」に首を噛まれた。助けを呼んだ友人たちと近隣の住人の気配に、驚いた猿たちが立ち去った後雅樹さんは救急搬送されたが、首を激しく噛まれていて、すでに意識がなく、頸動脈からの出血が夥しいうえに、病院の集中治療室に運びこまれた時には、大量の血液を失って出血性ショックを起こしており、あらゆる処置が試みられたが、午前一時六分、死亡が確認された。
その事件勃発のわずか五分後、今度はそこから歩いて二十分ほどの四阿地区のインターネット・カフェ付近で、無職の少年Aさんが友人二人と店を出たところを、およそ十四、五匹の猿の群れに襲われた。猿たちは人間の急所が頭と首であることを熟知していた様子であって、Cさん(一七歳)は隙を見て逃げて無事であったが、Aさん(一八歳)とBさん(一九歳)が揃って襲われ、病院へ救急搬送されたものの、Aさんの首の噛み傷は延髄に達しており、運ばれた時はほぼ即死の状態、Bさんも飛びかかられた衝撃で地面に後頭部を激しく打ちつけ、脳挫傷で意識不明の重体となっている。
彼らの襲撃の目的は、それまでは食べもの欲しさであったが、今回の事件の被害者に共通するのは、食べものを所持していない点であった。つまりこれは猿による「無差別テロ」であり、あの「矢ザル事件」への報復かもしれないと、識者の意見は揃っていたし当局の判断もそちらへ傾いた。
初の犠牲者が出たことで当局は慌てふためいた、というのが正確な反応だった。しかもこれはまだ始まりに過ぎなかった。猿による犠牲者は毎週報告されるようになった。最初の死亡事件から累計すると、その死者の数は一ヶ月で十名を優に超えた。県知事とも相談した結果、市長の判断で夜八時以降の夜間外出が禁止された。また幼稚園、保育園、小学校、中学校、高等学校はこの騒動が解決するまで、無期限の閉鎖となった。もちろんこれは前代未聞の異例の事態だった。猿をこれ以上刺激してはならない、それが当局の見解であって、これによってマスコミの報道部門も取材合戦を自粛するほかなくなった。この騒ぎで通勤恐怖に陥り、引きこもる市民も激増した。市の産業はほとんど機能しなくなった。零細企業、中小企業の倒産、小売店の廃業などが相次いだ。そのため市民の日中及び日没後の外出はぱったりと途絶えただけでなく、興味本位なモンキーウォッチャーも激減することとなったのである。