『アリス』が生まれた過程
まずは何を語るべきか。それはそう、あの男に出会った頃からだ…。
その頃の私の世間による地位は、件の大戦で右腕(利き腕だった)を失くした哀れな若い医学生だった。
私とカフェの相席で出会ったその男は白衣を着ていて、ミントグリーンの瞳をしていた。自身を『アラン』と名乗った。
見た目は私の親とそう変わらない年齢に見えたが、驚いたことに彼はホームズに出てくるような薄汚れ、霞がかったロマンの溢れる英国を生きた男だと酒場で語った。生まれはそれより350年も前であると。
彼とは現在でも親交があるが、ゆうに500歳の長寿である。
彼が私に教えたものは多い。『アリス』はその一つだった。
アランは、科学者であり錬金術師であり医師であり実業家であり教授であった。私が彼を『知識の神だ』と称賛すると、彼はいつものむっつりとした表情のまま顔をそむけて細く長い溜息を吐く。
アランは研究所を一つだけ持っていた。小さいが、設備は最新のものが揃った研究所だった。中には新しすぎて用途のわからない器具もあった。
彼の元にはたくさんの人が集ったが、しかし彼の隣を許されていたのは一人の女だけだった。
名を、『ソフィ』という。彼女は美しい女だった。紫色の不思議な瞳をしていて、どうやっているのかは分からないが深緑とラズベリー色のまだらの髪をしていた。
彼女について忘れられないエピソードがある。
研究所に押しかけてくる学者の一人が、ソフィに恋をした。なにで半世紀以上も前のことだ。名前どころか姿すらも曖昧である。それどころか、人種も白人だったかインド人アジア人だったか。その辺も良く覚えていない。
まぁ、とりあえず若い学者が彼女に恋をした。『あんな爺ではなく、自分と一緒に』と、(三割の内容はアランへの罵詈雑言だったが)口説いた。こともあろうに、アランが唯一持っていない『若さ』を武器に誘惑したのである。それも、わざと私を含めた彼の知人友人がいる隣の部屋で。
私たちは彼のアランへの不満の言葉も、ソフィへの愛の告白も、いかにアランがソフィにはふさわしくないかという演説も、そのあとの切々としたソフィへの情熱的な懇願も聞いていた。
内容はどれも危ういもので、それを情熱的で勇敢と取るか無謀な死に戦と取るか、微妙であった。私はそれを聞いていて気分が悪くなったが、彼の友人は面白がって賭けのゲームの題材にするものもいた。
半時ほどだったか。『返事を聞かせてくれ』という風になった時に、彼女は黙り込んでしまった。大人しい女だったから仕方ないと私たちがソフィに一抹の哀れさと、彼が焦れて襲いでもするのではないかという不安を抱いた頃に、彼女は口を開いた。
『私は自由な女でいたいの。貴方がアランほど、私を自由に束縛しないでいてくれるとは思わないわ。貴方が私を見ているだけで、私は貴方の視界に囚われてるってことにならない?』
そして、
『貴方はアランと何もかもが劣ってるわ。それがいいという女もいるでしょうけど、私は違うのよね。私は貴方の視界に入りたくないし、貴方を私の視界にも入れたくないの。私を愛してるっていうのなら、この場から永久に消えてちょうだい』
アランにつき従いながらも気まぐれで気高く、とんだ悪女でありながら美学さえ感じるその姿は魔女のようだ。
酒の席で私がそうアランに零すと、『君はどうやら先見の明と言うべき深い洞察力がある。それは便利だろうが、身を滅ぼす要因にもなるだろうね』と言った。
二年ほどすると、いつしかその小さな研究所には、私以外の部外者は立ち寄らなくなっていった。
アランと彼女がそう仕向けたのだろう。小さな研究所は、みるみる閉塞としていった。
『アリス』を知ったのはその頃である。
『魔女の子』、『統べる子供』『神の子』、『絶対王』、『天帝』・・・。様々な名称でごく少ない資料しか無い、一つの権力の形。
私は若い身で片腕を亡くしたことを、国というのを怨んでいた。それは今でも同じである。
私は兵士ではなかった。軍に属していたわけでも、望んで志願したわけでもなかった。
戦争になど行きたくは無かった。その時は何より勉強がしたかった。けれどそれを言える世の中ではなかったのである。
東洋の小説の様に、私の前に一つの糸が垂れてきた。それは一抹の『希望』『可能性』というものだ。
―――――世界を変えられるのかもしれない。
私が『アリス』と呼ぶものの詳細を語ろう。
彼女は『魔女』と呼ばれるものである。黒ミサに集ったり、焼けた玉ねぎに赤い鉄の串を刺したり、箒で空を飛ぶあの魔女ではない。
彼女らは世界を渡り歩く女達である。ジプシーと言ってもいい。
魔女はその地の男と交わって、子供を作るのだという。彼女らの下り立つ場所には国が出来て文化が育つ。
彼女らは寿命が存在せず、動物に姿を変えることができ、誇大な力を保持し、世界を変えることを目的として生きている。知恵と奇跡を授けて渡り歩く賢く気高い女達のことだ。
…私たちの言う『魔女』も、もしかしたら彼女らの末裔だったのかもしれない。
この存在を私に知らせたのは、やはりアランだった。そう…彼に寄り添う深緑とラズベリー色のまだら髪の女、ソフィこそが魔女だった。
彼はいつもの酒場で、自身の研究についての延長線上として彼女を語った。
「つまり、共同研究しようということかい?」
「いいや、どちらかといえば君のパトロンになろうかという提案だ。僕は魔女という生き物についてこれ以上詮索する気はない。しかし君が興味を抱くのなら、僕は助力を惜しまないしぜひそうしてほしいと思う。どうだい?」
『魔女』は私の興味を大いに誘った。その衝撃たるや、殴り飛ばされて無理やり方向転換された…と言ったらわかるだろうか?
歪み始めたのはこの瞬間だったのだろう。
彼と別れて酒場から出ると雨が降っていた。その時確かに、私には世界が逆転して見えたのである。
きまぐれ更新です。次回、この話が15禁である所以が出てくると思います。
いまさらですが、この話のキャラクターは8割アタマがぶっとんでるので、そこんとこを注意してください。