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「お前の代わりなどいくらでもいる」と言われたので、数えてみました。わたしの仕事は、十一人分でした

掲載日:2026/10/10

 鍵は十二本あった。

 歩くたびに腰で鳴って、三年のあいだ、それがわたしの足音だった。

 婚約者は、その重さを一本分だと思っていたらしい。

「お前の代わりなど、いくらでもいる」

 そう言われたとき、わたしがまず考えたのは、言い返すことではなかった。鍵を数えることだった。


 冬至の夜明け前だった。

 橇(そり)の鈴の音が門をくぐってきたとき、わたしは玄関の広間で、熱い茶と雪払いのブラシを載せた盆を持って待っていた。後ろには、起こされた使用人たちが眠そうに一列に並んでいる。広間が暖かいのは、三時に炉へ火を入れた人間がいるからだ。

 扉が開き、冷たい風といっしょにセルゲイ様が入ってきた。

 ベルスキー伯爵、二十二歳。夜会帰りの頬は赤く、肩には雪が積もっている。着ているのは、三年前に亡くなった先代の外套だった。袖が少し長く、手首の紋を半分隠している。

 この国の貴族は、十歳の紋の儀(もんのぎ)で肌に魔紋(まもん)が浮かぶ。紋が強いほど術も強く、術を使うたびに寿命が削れる。強い家ほど、当主は早く死ぬ。魔石(ませき)を使えば、命を削らずに小さな術が使えるけれど、石は砕けるし、高い。先代のアルカージー様は、四十一だった。

 わたしには、紋が出なかった。無紋(むもん)、と呼ばれる。

 そのわたしが十六でこの家に入り、鍵預かり(かぎあずかり)を務めて三年になる。若死にの多いこの国では、嫁ぐ前の娘が先に家へ入り、鍵束を預かって家政を覚える習わしがある。


 セルゲイ様が右手の指を持ち上げた。肩の雪を術で払うつもりだ。白い橇の紋が袖の下でほのかに光りかけたところへ、わたしは先に盆のブラシを差し出した。

「お待ちください。こちらで」

「……いちいち」

 舌打ちをしながら、それでも彼は受け取った。いつものことだった。

「ちょうどいい。みな、揃っているな」

 セルゲイ様は広間を見渡した。使用人たちがいっせいに目を伏せる。

「ズラトフ家のアリーナ嬢と、紋合わせ(もんあわせ)をすることになった。八日後だ」

 誰かが、手にしていた布巾を取り落とした。

「金の輪の紋だ。婚姻院(こんいんいん)の許しは下りるだろう。無紋の妻では、子の紋が薄まる。俺は、親父より大きな家を作る」

 彼はブラシを従僕(じゅうぼく)に放った。

「ゴルデーエワ嬢との婚約は、前の日に届けを出して解く。鍵は置いていけ。鍵束ひとつ、誰が持っても同じことだ」

 それから、わたしの顔を見て言った。

「お前の代わりなど、いくらでもいる」


 盆の上で茶が小さく揺れた。揺れたのは盆のほうで、わたしの手ではないと思う。この家に来てから、盆は一度も落としたことがない。

 言い返さなかった。その言葉は、三年のあいだ、わたし自身の口癖だったから。誰にでもできることです。わたしがやっているだけです。感心されるたび、そう答えてきた。

「承知いたしました」

 わたしは盆をそばの小間使い(こまづかい)に預けた。

「では、七日いただけますか。鍵渡し(かぎわたし)をいたします」

「鍵渡し?」

「鍵の務めを、証人の前で、一本ずつ次の方にお渡しします。務めを渡さずに去るのは、恥ですので」

 使用人の列がざわめいた。鍵渡しは、鍵を預かる者が家を去るときの古い決まりだ。鍵を一本ずつ渡し、その務めを口に出して名指す。

 セルゲイ様は笑った。

「好きにしろ。鍵束ごと置いていけば、済む話だが」

「務めを渡さずに去るのは、恥ですので」

 同じ言葉を繰り返すわたしを、彼は面白そうに眺めた。

「無紋が、恥を語るか」

 わたしは黙って頭を下げた。その拍子に、腰の鍵がじゃら、と鳴った。

 十二本。一本ずつ、頭の中で数え直す。

 いくらでもいる、と彼は言った。ならば、確かめよう。本当にいくらでもいるのか。いるのなら、何人で、いくらで。

 七日あれば、数えられる。


    ◇


 その日の午後、枯れ見(かれみ)が来た。

 季節の変わり目の翌日は、魔導院(まどういん)の枯れ見が各家を回る日だ。当主の手首にある紋の褪《あ》せを測り、残りの寿命の目安を告げる。紋の褪せは、そのまま削れた寿命の勘定になる。

 ダニール・ヴォローニン様は、黒い外套の襟に烏(からす)の銀のピンを留めていた。葬送と墓所(ぼしょ)を守る家の三男で、二十七。わたしと同じ無紋だ。褪せを測るのに術は要らないから、無紋にも務まる。魔導院では数少ない、そういう仕事だった。

 銀の枠の紋鏡(もんきょう)をセルゲイ様の手首にかざす。薄い水晶の中に、白い橇の紋がくっきりと浮かんだ。

「変わりませんね」

「当然だ。俺は親父とは違う」

 セルゲイ様は誇らしげに袖を戻した。強い紋はよく燃え、よく燃える者の命は短い。それを、この家の人はなぜか誇りにしている。

 ダニール様は帳面を開き、ペンを持ったままわたしに顔を向けた。

「今季、この家で術は何度」

 三年、毎季、同じ問いだ。この家の勘定を知っているのがわたしだけだから。

「二度です。先月、橇道に狼が出たときに」

「……そうですか」

 彼は書き付けた。数を聞くと、この人はほんの少しだけ顔がゆるむ。三年見てきて、わたしはそれを、セルゲイ様の寿命の数が良かったときの顔だと思っていた。

「七日後に、鍵渡しをいたします」

 わたしは言った。

「次の季からは、その問いに、セルゲイ様がお答えになります」

 ペンが止まった。三年で初めてのことだった。

「……鍵渡し」

「はい。それで、証人を探しているのですが、頼める方が思いつかなくて」

 本当に、一人も思いつかなかった。この家に三年いて、頼みごとのできる人の名をわたしは持っていなかった。

「ヴォローニン家は、送る家です」

 ダニール様はペンを置いた。

「最後の引き渡しの証人なら、慣れています」

 冗談なのか本気なのか、顔からは分からなかった。


 その夜、鍵預かりの小部屋で、鍵を机に並べた。

 大きなものから、小さなものへ。炉、灯り、帳場、橇小屋、毛皮蔵(けがわぐら)、薬棚、食料庫、使用人部屋、客間、厩(うまや)、礼拝室。そして、いちばん小さな一本。

 一本ずつ、紙に務めを書いた。炉は、夜明け前の三時に火を入れ、二時間おきに薪を足すこと。灯りは、油を量り、芯を切ること。帳場は、毛皮の代金と、石の買い付けと、給金のこと。書けば書くほど、務めごとに別の人間の顔が要った。

 書き終えて、人数を数える。炉番(ろばん)、灯り番(あかりばん)、帳場係、橇小屋番、毛皮蔵番、薬棚番、食料庫番、使用人頭(しようにんがしら)、客間係、厩番、礼拝室守(れいはいしつもり)。

 十一人。

 一人で二つ持てる務めはひとつもなかった。厩と橇小屋は隣り合っているけれど、朝の六時にはどちらにも手が要る。

 十六でこの家に入り、十九になった。右の腰骨には、鍵束のかたちの青黒い痣(あざ)がある。紋の出なかった肌に三年かけて刻まれた、わたしの紋だ。その三年を、わたしは一人分の顔をして、十一人分、歩いていたことになる。

 おかしかった。声に出して笑ってしまってから、ペンを置いた。笑い声は、小部屋の壁に思ったより大きく響いた。

 十二本目の欄だけが、空いていた。

 魔石庫(ませきこ)の鍵。地下の小さな鉄の扉を開ける鍵で、いちばん小さく、いちばん手擦《てず》れしている。石の出し入れ、と書けば嘘になる。かといって、本当のことは一行にならなかった。

 ペンを持ち上げたまま、長いことその欄を見ていた。やがて、わたしは紙を伏せた。


    ◇


 二日目と三日目は、金庫と口入れ屋(くちいれや)と質屋で暮れた。

 最初に頼んだのは、金庫だった。書斎の暖炉の前で、セルゲイ様は脚を組んでいた。

「十一人分の給金を、ひと月だけ、家から出していただけますか」

「金庫に署名できるのは、当主だけだ。お前の鍵で開くのは、鍵のかかった物置までだろう」

「はい」

「雇うなら、勝手にしろ」

 本気ではなかったと思う。無紋の娘に十一人は雇えまいと高をくくっていたのだ。


 帝都スヴェトグラードの口入れ屋の親父は、わたしの書き付けを三度読み返した。

「炉番、灯り番、帳場係……」

 指を折りながら、顔を上げる。

「お屋敷は、いくつで?」

「ひとつです。鍵束が、ひとつ」

 親父の目がわたしの腰に下りた。鍵がじゃら、と鳴った。

「これを、お嬢さんが、お一人で」

「三年」

「で、そのお嬢さんの代わりを、お探しだと」

「はい。いくらでもいると、伺いましたので」

 親父はしばらく黙り、それから、疲れた声で言った。

「いくらでもは、おりませんな。十一人なら、おりますが」

 それから、帳面を引き寄せた。

「雇い主は?」

「ベルスキー伯爵家です。ひと月目の給金は、わたしが納めます。二月目からは、伯爵家が」

「伯爵様は、ご承知で?」

「勝手にしろ、と仰いました」

 親父はその言葉を、一字も違えずに控えの備考欄へ書いた。

 給金を足すと、月に三百ルーブあまりになった。この家の冬の実入りは、毛皮の手付けと橇の賃料を合わせても二百に足りない。魔石の炉や灯りで代えれば、その倍はかかる。この冬、石はまた上がった。

 つまり、人間のほうが安いのだ。

 わたしが三年、無給でやってきたことには、そういう値段がついていた。


 質屋には、母の耳飾りを持っていった。

 折れた冠を彫った金の細工だ。没落したゴルデーエフ家に残った最後の古い品で、母の形見でもある。質屋の主人は天秤(てんびん)に載せ、わたしの顔を見て少し声を落とした。

「三百ルーブ。ちょうどです。請《う》け出しは、春まで」

 ちょうど。わたしの代わりの、ひと月分。

 耳が軽くなった。足まで軽くなるかと思ったが、そうはならなかった。


    ◇


 四日目は、教えた。

 炉番の老人には、薪の組み方と、火の落とし時を。灯り番の寡婦(かふ)には、油の量り方と、芯の切り方を。薬棚番には、煎じ薬(せんじぐすり)の順番を。十一人はみな真面目に聞いてくれた。聞きながら、誰もが同じことを尋ねた。

「これを、お嬢様がお一人で?」

「はい」

「……ずっと?」

 その問いを、その日だけで九度聞いた。数えていた。


 五日目の朝、四人が来なくなった。

 帳場係と、橇小屋番と、客間係と、使用人頭。みな、噂に敏い持ち場の人たちだった。

 使用人頭が、戸口で頭を下げた。

「お嬢様のせいじゃないんです。ただ、旦那様が昨夜の夜会で……」

 無紋が大げさに働いたふりをしている。あの家は、給金を払えない。――セルゲイ様は、そう言って回ったそうだ。後半は当たっているのかもしれない。払わないと決めている人がいるのだから。

「前金は、お返しいただかなくて結構です」

 言えることはそれだけだった。

 渡す先のない鍵が四本になった。腰の鍵束は、前より重かった。

 その夜は三時に目が覚めた。目覚ましはずっと要らなかった。台所に降り、暖炉の前にしゃがんで、薪を組む。炉番の老人は六時に来て、わたしの隣で火の見方を覚えることになっている。三時の火は、まだわたしの務めだった。

 手が勝手に動いた。誰に頼まれたわけでもない火を、いつもの手つきで起こしていた。

 火が移るのを見ながら、気がついた。

 三年、一度も人に頼まなかった。頼めば来る人がいるのかどうかさえ、知らなかった。頼むほどの値打ちのあることだとは思っていなかったからだ。誰にでもできることだと、わたし自身がいちばん強く信じていた。

 尽くしてきたのではなく、頼むのが下手だっただけなのかもしれない。

 そう思ったら、身体の底が、すうっと冷えた。暖炉は、きれいに燃えているのに。


 夜が明けるころ、勝手口の戸が叩かれた。

 ダニール様だった。枯れ見の来る日ではない。黒い外套の後ろに、雪まみれの人が二人立っている。老人と、十七、八の娘。老人の手は、手綱(たづな)の形に曲がったままだった。

「葬送の橇を引いて三十年の御者(ぎょしゃ)です。馬と橇で、この人に勝てる者はいません。こちらは孫娘で、うちの墓所の記録をつけています」

 ダニール様はいつもの平らな声で言った。

「この二人の給金は、ヴォローニン家で持ちます」

「なぜです」

「三年分の借りがあるので」

「……何の」

「いずれ」

 それきり口を閉じた。世辞も作り話もできない人だ。借りがある、というのは本当なのだろう。

 帰りがけに、彼は口入れ屋にも寄ってくれたらしい。ヴォローニン家の名がつくと、口入れ屋はその日のうちに残りの二人を寄越した。

「最初から、そう仰ってくだされば」

 親父はそう言った。最初から言える名がわたしにはなかったのだ。

 これで、十一人になった。


    ◇


 六日目の昼、アリーナ様が家を見に来た。

 ズラトフ大公家の分家のご令嬢で、二十歳。金の輪の紋が、手袋の上からでも分かるほど強い。広間のざわめきは、わたしの背中にはっきりと届いた。恋敵の来訪、というものだ。わたしはそういう顔をするべきなのだろうか、と考えた。

 セルゲイ様は厩へ出ていて、案内はわたしがすることになった。婚約を解かれる女が、それを解いた男の次の相手を案内する。変な話だ。

「鍵渡しは、明日と聞いたわ」

 アリーナ様は、窓の外の橇道を見ながら言った。東の鉱山から帝都へ、石を運ぶのにちょうどいい道だ。

「見せていただける? これから入る家の中身だもの。商いの目で、見ておきたいの」

 商いの目、と彼女は言った。

 帳場で三年分の帳簿を広げた。隠すものはなかった。雇い入れの控えも、いっしょに。

 アリーナ様は懐の帳面を片手に、数字を指でたどった。魔石の買い付けの欄で、指が止まる。

「去年より、三割安い」

「値切りました」

「廊下の灯りは?」

「油です。石の灯りは、書斎と寝室だけに」

「術の使用は、今季、二度。これも、あなたが数えたの」

「はい」

 雇い入れの控えの備考欄を見て、彼女の口の端が動いた。『当主:勝手にしろ』。笑ったのか、呆れたのかは、分からなかった。

 アリーナ様は顔を上げた。

「この家を、あなたは、いくらで回していたの」

「いただいておりません」

 指が止まった。

 それから、懐の帳面がぱちんと閉じた。商人の仕草だった。

「ズラトフの帳場に来なさい」

「え」

「魔石の買い付けを値切れる人を、わたしは三年探しているの。その腕に、給金を払う家が、ズラトフにはあるわ」

 わたしは返事ができなかった。給金、という言葉をわたしに向かって使われたのは、生まれて初めてだった。

 返事を保留して、門まで送った。別れ際に、アリーナ様は言った。

「勘違いしないで。あなたと争うつもりはないの。争う理由が、わたしの側には何もないもの」

 紋合わせは、商いだった。彼女は、赤字の商いには手を出さない人でもあった。


    ◇


 その夜、台所の戸が叩かれた。

 ダニール様がベルスキー家の枯れ帳(かれちょう)を抱えて立っていた。先代の代から続く、魔導院の写しだ。

「明日、読むことになるかもしれません。先に、お見せしておきます」

 卓の油ランプの下で、彼は帳面を開いた。左の頁に先代の三度の冬、右の頁にセルゲイ様の三年。

 左の欄外には、前の枯れ見の筆跡で、同じ言葉が三つ並んでいた。

『術の使用、数えきれず』

『同、数えきれず』

『同、数えきれず』

 先代は、セルゲイ様と同じ年のころからの三度の冬、ひと冬に一年分ずつ、紋が褪せている。

 右の欄外には、季ごとに一行ずつ、角張った字があった。

『家政:ゴルデーエワ嬢。術の使用、なし』

『同、一度』

『同、二度』

 十二季(じゅうにき)。三年分。同じ字が、十二行。合わせて、七度。紋の褪せは、半年に届かない。

 わたしは、その字を見ていた。自分の名が三年のあいだ、他人の帳面に書かれていたことを知らなかった。

「なぜ、わたしの名前なのですか」

「あなたの数だからです」

 ダニール様は少し間をおいて、付け足した。

「ほかに、書きようがありませんでした」

 季ごとにゆるんでいた顔のことを思い出した。あれは、セルゲイ様の寿命の数だけを聞いた顔ではなかったのだ。

「ヴォローニン家は、送る家です。紋の強い若い当主を、いくつも送ってきました。ベルスキー家からは、この三年、ひとりも出ていません。うちの者は、みな、あなたに借りがあると思っています」

 それから彼は、真顔のまま言った。

「商売としては、あがったりですが」

 笑うところなのか分からなかった。笑ってしまった。笑ってから、泣きそうになった自分に驚いた。


 戸口に蝋燭(ろうそく)を持った人が立っていた。

 タチアナ様だった。先代伯爵夫人。紋の薄い小柄な人で、喪の黒を一度も脱いでいない。

 聞いていたのだろう。驚いた顔はしていなかった。

「知っていたのよ。あなたが、何をしてくれていたか」

 卓の向こうに座って、わたしの手を取った。細くて、冷たい手だった。

「あの人が、あなたを選んだの。紋のない娘を。術に頼らず、この家を温められる手を」

 先代の最期の夜を思い出した。

「あれに、小さな術を使わせないでくれ」

 それが、アルカージー様からわたしへのただ一つの頼みごとだった。はい、と答えた。十六だった。何をどうすればいいのか、少しも分からないまま。

「残ってちょうだい」

 タチアナ様はわたしの手を握りしめた。

「あの子には、言わなくていいの。知ったら、あの子は証明したがるわ。自分は強いと、父親のように。……言わなければ、あの子は長く生きる。あなたが、いてくれれば」

 本物の愛情の声だった。この人は、夫にも同じことをしたのだ。黙って数えて、止めて。止めきれずに、四十一で送った。

 蝋燭の火が、揺れていた。

 残れば、セルゲイ様は長く生きる。タチアナ様は息子を送らずに済む。わたしはまた、数えられない手に戻る。

 去れば、わたしは生まれて初めて給金をもらえる。けれど、頼まれた人の命が削れるかもしれない。

 どちらも、善いことだった。両立しなかった。

「わたしは、残れとも、去れとも言いません」

 ダニール様が言った。

「枯れ見は、測って、告げるだけです。明日、読めと言われたら、読みます」

 約束は、三年、守った。守りつづけるには、わたしが一生ここにいなければならない。それは、守るとは言わない。見張る、というのだ。

 わたしは鍵束からいちばん小さな鍵を外し、前掛けのポケットに入れた。

 誰も、何も言わなかった。


    ◇


 七日目の昼、広間に人が揃った。

 十一人の雇い人が、壁際に一列に並ぶ。炉番の老人は煤(すす)で顔が黒く、帳場の娘はインクで指が黒い。老御者は雪を踏む癖が抜けないのか、いつまでも足踏みをしていた。みな、緊張で顔が固い。

 窓際には、喪服のタチアナ様。扉の脇には、帳面を抱えたアリーナ様。ダニール様は証人の席で、黒い外套の膝に、枯れ帳を載せている。

 セルゲイ様は、父の外套を着たまま、柱に寄りかかって爪を見ていた。茶番を眺める顔だった。

「では、セルゲイ様」

 わたしは鍵束を手に、一歩前へ出た。

「わたしの代わりの方々を、ご紹介いたします」

 広間が静かになった。

 鍵は一本ずつ渡し、務めを名指す。受け取る人は「お預かりします」と答える。それが決まりだ。


「炉の鍵」

 煤で顔の黒い老人が一歩出た。

「夜明け前の三時に火を入れ、二時間おきに薪を足し、セルゲイ様が書斎の扉を開けるまでに、床を温めておく務めです」

「お預かりします」

「……床は、元から温かい」

 セルゲイ様が呟いた。

「いいえ。三年前の冬は、石の切れた朝に、書斎の床が凍りました。今は凍りません。薪は、石の値が上がっても、変わりませんので」

 老人が小さく鼻を鳴らした。火は嘘をつかん、とでも言いたげだった。


「灯りの鍵」

 目の細い寡婦が受け取った。

「廊下と使用人棟の灯りは、油にしました。石の灯りは、書斎と寝室だけです。この冬の石の値で廊下まで灯していたら、家計は春までもちませんでした」

「……廊下が暗いとは、思っていた」

「暗くて、お困りになりましたか。転んだことは、おありですか」

「ない」

「毎晩、芯を切っておりますので」


「帳場の鍵」

 インクで指の黒い娘が、震える手で受け取った。

「魔石の買い付けは、去年の三割安く。毛皮の代金の取り立ては、三年、一件も漏らさず。……あなたのほうが、わたしより字がお上手です」

 アリーナ様の帳面をめくる音が止まった。


「橇小屋の鍵」

 老御者が手綱の形の手で鍵を受けた。

「先月、橇道に狼が出ました。道を北の林の外へ付け替えさせたのは、この鍵の務めです。付け替えなければ、毎週のように、追い払う術が要りました」

「あのとき、狼は俺が追い払った」

「はい。あの夜は、二度でした。それきり三度目が要らないのは、道を変えたからです」

 老御者が、ぼそりと言った。

「あの道なら、よく知ってる。いい道に付け替えた」


「薬棚の鍵」

 受け取ったのは、薬草の匂いのする女だった。

「去年の二月、セルゲイ様は肺を病まれました。癒やしの術でお治しになる、とおっしゃったので、お止めして、三晩、お付きしました。一晩で済む熱を、三晩かけて、薬で下げました」

「……覚えていない」

「熱が高うございました。覚えておいででなくて、結構です」

 それ以上は言わなかった。うわごとのことは、申し上げないと決めている。


 毛皮蔵、食料庫、使用人部屋、客間、厩、礼拝室。残りの六本も、同じ調子で渡した。一本ごとに、セルゲイ様の顔から退屈が一枚ずつ剥がれていった。

 十一本目が渡り終わった。


「給金の書き付けを、読ませていただいても」

 アリーナ様が一歩出た。わたしが前の晩に用意した紙を、彼女は受け取った。十一人分のひと月の給金と、その合計。

「月に、三百ルーブあまり。この家の冬の実入りは、二百に足りません」

 彼女は、セルゲイ様のほうを向いた。

「二月目からの給金は、伯爵家持ちと伺っています。『勝手にしろ』と仰ったそうですね」

 セルゲイ様の顔が動いた。

「人を減らして石に頼るなら、その石を売るのはうちです。身内にも値引きはいたしません」

 懐の帳面がぱちん、と閉じた。

「赤字の家に、金の輪は嫁ぎません」

 紋合わせの話は、その場で消えた。誰も声を出さなかった。炉の薪がぱちりと鳴った。


 わたしの手には、十二本目が残った。いちばん小さい、手擦れした鍵。

「魔石庫の鍵」

 わたしは言った。

「石を出し入れする人なら、雇えます。けれど、この鍵の務めは、セルゲイ様が石を惜しんで、ご自分の指で済ませようとなさったときに、いいえ、と申し上げることです。使用人は、ご主人に、いいえ、と言えません。雇える人が、おりません」

 セルゲイ様の顔が初めてわたしのほうを向いた。

「ヴォローニン様。読み上げてくださいますか」

 ダニール様が立ち上がり、枯れ帳を開いた。

「先代は、セルゲイ様と同じ年のころからの三度の冬で、三年分、紋が褪せました。術の使用は、数えきれず」

 平らな声だった。

「セルゲイ様は、この三年で、半年に届きません。術の使用は、十二季で七度。差は、二年半あまり」

 彼は帳面から顔を上げた。

「それが、この鍵の、三年分の務めです」

 炉の火の音だけが広間にあった。

 セルゲイ様は父の外套の袖を引き下ろし、手首の紋を隠した。それから、指先をこすり合わせた。冷えているのだろう。

「……なら」

 声は、かすれていた。

「残れ。妻にしてやる。前のとおりに」

 前のとおりに。

 数えられず、礼も言われず、いつも先に差し出されるブラシのように。

 そのとき初めて、腹が立った。三年分の怒りが、まとめてこみ上げた。腹が立ったおかげで、声は震えなかった。


 わたしは歩いてセルゲイ様の前に立った。

 彼の手を取り、手のひらを上に向けさせた。冷たい手だった。先代の最期の夜に取った手と同じ冷たさだった。

 その上に十二本目の鍵を置いた。

「代わりはいくらでもいる、と仰いました」

 わたしは言った。

「ですから、全員、ご紹介いたしました。最後のお一人は、あなたです」

 セルゲイ様は手のひらの小さな鍵を見ていた。

 石を使うか、自分の命を使うか。決めるのは、本来、持ち主だ。わたしはそれを三年、預かっていただけだった。

 手に残った鉄の輪を指にかけて回す。

 十二本の重さを失った輪が、ちり、と小さく鳴った。三年、じゃらじゃらと鳴りつづけた音とは別の音。軽くて、澄んでいる。

 用意してきた届け出の紙に、わたしは署名をした。証人の欄にはダニール様の名。ペンの運びが、いつもよりわずかに丁寧だった。

 タチアナ様は止めなかった。かわりに、深く頭を下げた。伯爵夫人が無紋の娘に頭を下げる。使用人の誰かが、見てはいけないものを見たように目を逸らした。


    ◇


 ズラトフ大公家の帳場で、わたしは生まれて初めて給金をもらった。ひと月働いたあとの夕方で、渡してくれたのはアリーナ様だった。

「値引きはしていないわ。身内にもしない主義だもの」

 わたしは少し迷って、それから思い切って頼んでみた。

「来月は、もう少しいただけますか」

「やっと言ったわね」

 アリーナ様は帳面を開いて、数字を書き換えた。

 銀貨の入った袋は、思っていたより重かった。手のひらで量って、机の上で数えて、数え終わってもまだ重かった。

 帳場の引き出しの鍵は一本だけ渡された。腰に下げても、音がしない。何度も腰に手をやっては、鍵があることを確かめた。右の腰骨の痣は、少しずつ薄くなっている。消えるのが惜しいような、惜しくないような気がする。

 ベルスキー家のことは、冬のうちに、タチアナ様が教えてくれた。

 十一人のうち、六人が残った。橇が二台、売られた。セルゲイ様は朝の薪くべを自分でやっているらしい。袖は煤で真っ黒で、先日は暖炉の煙を広間いっぱいに出して、帳場の娘に笑われたという。

「術は?」

 尋ねると、タチアナ様は少し黙った。

「使いたいときは、石を出しているわ。庫の前で、しばらく立っているけれど」

 それ以上は聞かなかった。長く生きるかどうかは、あの人が決めることだ。

 春になって、タチアナ様は質屋から請け出した耳飾りを持ってきてくれた。折れた冠の彫りは、前と同じ光り方をした。

「三年分の給金には、まるで足りないけれど」

 足りないのは分かっていた。わたしは礼を言って、両手で受け取った。

 父からも返事が来た。三行で、うち二行は借金の話、残りの一行は「よくやった」だった。


 その日の夕方、ダニール様が帳場まで迎えに来た。

「婚姻院へ行きませんか。婚約の前に、紋合わせを受けるのが、決まりですので」

 いつもの問いと同じ、平らな声だった。意味が追いつくまで一拍かかった。顔だけが、ほんの少し、ゆるんでいた。

「……はい」

 婚姻院の役人は二人の手首を並べて眺め、紋鏡も出さずに困った顔で判を押した。

「合わせる紋が、ございません。差し支えなし」

 外に出ると、春の風はまだ冷たかった。ダニール様は歩きながら枯れ帳の新しい頁を開き、欄外に一行書いた。のぞき込むと、十二季分と同じ角張った字だった。

『ゾーヤ・ゴルデーエワ。代わり、なし』


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