第1話 お前のような女は王太子妃にふさわしくない
「お前のような出来損ないは、王太子妃にふさわしくない」
大広間に声が落ちた。
秋学期の初日で、まだ上着の匂いが夏のままだった。壇上のアルヴィン殿下は腕を組んで、わたくしを見下ろしている。隣にはメリッサ・フォン・ヴァレリア嬢が控えていて、彼女の睫毛が伏せられているのが見えた。悲しんでいるように見える角度を、きちんと選んでいる。
殿下の靴が光っている。磨いたばかりだ。
わたくしのことを「出来損ない」と呼ぶために、靴を磨いてきたのかと思うと、なんだか可笑しかった。
「メリッサの方がよほど王妃に相応しい。お前には教養も、品格も、華もない」
周りがざわめく。誰かが息を呑んだ。後ろの方で椅子が鳴った。
わたくしは黙って立っていた。
三年間、そうしてきた。黙って、背筋を伸ばして、微笑んで。完璧な公爵令嬢を演じて、喉の奥に飲み込んだ言葉がいくつあったかなんて、もう数えてもいない。
殿下がまだ何か言っている。メリッサの美徳について。彼女の優雅さについて。彼女の笑顔が王宮に相応しいことについて。
あ、だめだ。
何かが切れた。
比喩じゃなくて、本当にぷつんと音がした気がする。三年間ずっと引っ張ってきた糸が、たった今、千切れた。
五歳の時に思い出した。前の人生のこと。
日本の、制服のスカートが妙に短い高校で、私は四つの学校の不良グループをまとめて率いていた。十七歳で全国制覇。拳と度胸だけが取り柄の、救いようのないヤンキーだった。
この世界に生まれ直して、公爵家の令嬢として育てられた。八つの頃から、求められるものと自分の中身のギャップに気づき始めた。刺繍の授業で針を折った。茶会で菓子を三人前食べた。護衛の騎士に「組み手しません?」と聞いて引かれた。
それで悟った。素の自分を出したら、ここでは生きていけない。
だから被った。猫を。
入学する頃には完成していた。微笑み方、歩き方、声のトーン、扇の持ち方。わたくしという完璧な殻。
それが今、割れた。
殿下の声が遠い。
ああ。
――やっと自由だ。
口元が勝手に動いた。笑っている。泣いているんじゃなくて、笑っている。自分でもわかる。三年ぶりに、顔の筋肉がちゃんと動いている感じがする。
殿下の台詞が途切れた。
「……何がおかしい」
「いえ」
声が変わっていた。「わたくし」の声じゃない。もっと低くて、もっと雑で、喉の奥から出る地声。
「何でもありません、殿下。――お好きになさってくださいませ」
殿下の顔が歪んだ。怒りじゃない。困惑だ。泣くか、縋るか、取り乱すか。そのどれかを期待していたのだろう。
悪いけど、そういうのは得意じゃない。前世でも今世でも。
大広間を出た。
廊下は静かで、窓から差す光が白っぽかった。秋の始まりの光。石畳に自分の靴音だけが響いて、それがやけに心地よかった。
「あの」
振り向くと、見覚えのある顔だった。騎士科の上級生。背が高くて、髪が暗い茶色で、表情の薄い人。名前は――ブレンナー、だったか。
彼が白いハンカチを差し出していた。
「泣かないなら、汗を拭くのに使ってください」
変なことを言う人だ。
「泣いてませんけど」
「ええ。だから」
ハンカチは糊が効いていて、折り目がきっちりしていた。無地。飾り気がない。この人の雰囲気にちょっと似ている。
受け取った。汗なんてかいていなかったけど、手のひらが少し湿っていたのは事実だった。緊張していたのか。笑っていたのに。
「……どうも」
彼は頷いて、それきりだった。何も聞かない。何も言わない。ただハンカチを渡して、引き返していった。
変なやつ。
でも、嫌な感じはしなかった。
公爵邸に戻ったのは夕方だった。
父の書斎の扉を叩くと、中から「入りなさい」といつもの穏やかな声がした。机の上には書類が積まれていて、インク壺の蓋が少し斜めになっていた。父はいつもちゃんと閉めない。
「お父様。殿下に婚約を破棄されました」
父の万年筆が止まった。
「……聞いている。宮廷からの早馬が先に着いた」
「そう」
「王室に抗議する。正当な理由がない」
父の声は静かだったけれど、万年筆を握る指が白くなっていた。この人が怒ると、声じゃなくて手に出る。私に似ている。いや、私が似ているのか。
「お父様」
「なんだ」
「手を出さないで」
父が顔を上げた。
「自分で解決する。お父様が動いたら、私の力で解決したことにならない」
言いながら、ちょっと笑ってしまった。前世で、親に学校に来るなって言い張っていた頃と同じことを言っている。成長していないのか、一周回って戻ってきたのか。
父はしばらく黙っていた。インク壺の蓋を閉めて、また開けて、もう一度閉めた。
「……困ったら、すぐに言いなさい」
「うん」
敬語じゃなかった。父の前では、たまにこうなる。
父は何も言わなかった。ただ一瞬、目尻が緩んだ。
自室に戻って、鏡の前に立った。
完璧な公爵令嬢が映っている。髪は丁寧にまとめられ、制服のリボンはきっちり結ばれ、背筋は定規を当てたように伸びている。
三年間、毎朝この顔を作った。
リボンに手をかけた。
引っ張ると、するりと解けた。思ったより簡単だった。三年間守ってきたものが、布一枚の話だった。
リボンを畳んで、引き出しに入れた。捨てはしない。でも、もうつけない。
髪を下ろした。肩にかかる。楽だ。
鏡の中の顔が、どこか他人の顔になった。
いや、違う。こっちが本当の顔だ。三年ぶりに会った、私の顔。
翌朝。
寮の玄関で、靴の紐を結び直した。きつめに。走れるように。
さて。
三年分の猫、脱ぐか。




