令嬢の『おでこ』はダイヤモンド
魔術実技の授業は、エミリアにとって毎回が罰ゲームだった。
王立学院の実技室は天井が高く、壁一面に魔術を増幅するための紋様が刻まれている。床は白い石畳で、光魔術の照明がいつも明るく灯っていた。
生徒たちが順番に壇上に立ち、魔術を披露していく。
炎を出す者。
水の球を浮かせる者。
風で花びらを舞い散らせる者。
どれも美しく、どれも華やかだった。
そしてエミリアの番が来た。
「エミリア・フォレスト」
教師に名前を呼ばれ、エミリアは壇上に上がった。
伯爵家の令嬢。十四歳。金色の髪に丸い目。小柄で華奢で、どこから見ても普通の令嬢だった。
おでこが異常に硬いこと以外は。
エミリアは深呼吸した。
(今日こそは、出る。絶対に出る。いや、出てくれ)
心の中で祈りながら、魔術の詠唱を始めた。
何も起きなかった。
三回唱えた。
何も起きなかった。
五回唱えた。
何も、何も、何も起きなかった。
教室がしんと静まり返った。
エミリアは焦った。焦ったせいで、足がもつれた。
壇上でつまずいて、前のめりに倒れた。
顔から落ちた。正確には、おでこから。
ごっ。
鈍くて重い音が実技室に響いた。
石の床に、くっきりとひびが入った。
エミリアは無傷だった。おでこがじんわり温かいくらいで、痛みは全くなかった。
床には、ひびができていた。
顔を上げた。
クラス全員が、エミリアを笑う。
「……あはは」
エミリアも笑った。誤魔化すしかなかった。
教室の後方、窓際の席に座っていたレオン・ヴァルトだけが、ゆっくりと目を細めた。
その目は、面白いものを見つけたときの目だった。
◇
エミリアのおでこの歴史は、物心ついた頃から始まっていた。
最初の事件は三歳のときだ。
庭で転んで、石畳に頭をぶつけた。泣くと思った母親が駆け寄ると、エミリアは泣いていなかった。ぴんぴんしていた。代わりに石畳にひびが入っていた。
「……体質かしら」と母は言った。
五歳のとき、庭の岩に頭をぶつけた。岩が割れた。エミリアは無傷だった。
「……体質ね」と母は言った。
七歳のとき、走っていて扉に頭をぶつけた。扉が凹んだ。エミリアは無傷だった。
「……体質よ」と母は言った。
そのたびに「恥ずかしいからやめなさい」と言われてきたが、転ぶのはわざとではないのでやめようがなかった。
学院に入学した初日、柱に頭をぶつけた。柱の角が欠けた。
その日のうちに「石頭令嬢」という渾名がついた。
魔術の才能がゼロなのに追い打ちをかけるように、おでこだけが異常に硬い。我ながら、なんとも不思議な令嬢だった。
理由はわからなかった。
家族も、医者も、魔術師も、誰も理由を教えてくれなかった。
「体質でしょう」という言葉だけが残った。
エミリアはそのうち「まあしょうがない」と思うようにした。
コンプレックスがないと言えば嘘になる。でも引きずっても仕方ないことはある。そういう性格だった。
授業の後、教室を出ようとしたエミリアに声がかかった。
「少し、よろしいですか」
振り返ると、レオン・ヴァルトが立っていた。
侯爵家の嫡男。同い年。黒髪で整った顔をしているのに、常に無表情なので近寄りがたいと有名な人だ。話しかけてきたことに、エミリアは少し驚いた。
「あのおでこは、何ですか」
開口一番それか、とエミリアは思った。
「私が聞きたいくらいです」
「原因は不明なのですか」
「はい。ずっと体質と言われてきました」
レオンが少し考える顔をした。
「調べさせてもらえますか」
「……おでこをですか」
「はい、おでこを」
真顔だった。一切の迷いがなかった。
エミリアは思わず笑った。「そんな真剣な顔でおでこって言わないでください、なんか変な感じがして」
レオンが少しだけ眉を上げた。「失礼しました。ただ、本当に気になるので」
「気になる、ですか」
エミリアは少し意外だった。
みんな「変だ」「おかしい」「恥ずかしい」と言う。でもこの人は「気になる」と言った。変な言い方だけど、なんだか悪くない気がした。
「……まあ、いいですよ」とエミリアは言った。「でも痛くしないでください。おでこは硬いですけど、心は普通なので」
レオンが一瞬、何かを考えるような顔をした。
「……わかりました」
それだけ言って、歩き出した。
変な人だな、とエミリアは思った。でも嫌いじゃなかった。
◇
翌日の昼、中庭でエミリアは一人でサンドイッチを食べていた。
食堂は人が多くて落ち着かない。中庭のベンチが好きだった。木陰があって、風が気持ちよくて、誰も来ないから。
「あら、石頭令嬢がいる」
来た。
エミリアは顔を上げた。
セシル・ランドールが三人の令嬢を引き連れて立っていた。栗色の髪に青い目、魔術の成績は学年トップ、学院で一番影響力のある令嬢だ。いつも完璧で、いつも誰かを見下している。
「こんにちは、セシル様」
エミリアは笑顔で言った。
セシルが扇を広げた。「魔術も使えないのに、なぜ学院にいるの? 伯爵家の恥じゃないかしら」
隣の令嬢たちがくすくすと笑った。
「ご両親が心配しないのかしら。娘が石頭で床にひびを入れる令嬢だって、社交界で笑われているのに」
エミリアは笑顔を保った。
傷ついていないわけじゃない。でも言い返す言葉が見つからなかった。何を言っても、この人たちには届かない気がした。
「昨日、レオン様があなたに話しかけていたけど」
セシルの声が、そこだけわずかに変わった。扇を持つ手に、少し力が入っていた。
「こんな変な子に絡まれて気の毒よね。
レオン様はお優しいから、きっとあのおでこが珍しくて声をかけただけでしょう」
それは、少し刺さった。
そうかもしれない、とエミリアも思っていたから。
「そうかもしれませんね」とエミリアは言った。「でも、気になると言ってくれたので。変な理由でも、気にかけてくれた人は初めてだったので」
セシルが眉を上げた。何か言いかけて、やめた。
「……変な子」
それだけ言って、行ってしまった。
エミリアはサンドイッチの続きを食べた。
木陰から、風が吹いた。
その夜、一人になってから少しだけ泣いた。
でも翌朝には「まあいいか」と思って、ベッドから起き上がった。
そういう性格だった。
◇
レオンとの「おでこ調査」は放課後に始まった。
図書室の隅の席で、レオンが分厚い本を山積みにしながら言った。
「まず確認させてください。痛みは本当に全くないのですか」
「ないです。ぽかぽかするくらいで」
「床にひびが入ったときは」
「あったかいな、くらいです」
レオンが何かをメモした。
「柱が欠けたときは」
「欠けた欠片が飛んで、後ろにいた侍女の服に当たって穴が開きました。おでこは無事でした」
レオンがメモの手を止めた。「柱の欠片が服に穴を開けるほどの衝撃を受けても、無傷ということですか」
「そうですね」
レオンがしばらく黙った。
「……すごいおでこですね」
「ありがとうございます」
エミリアは慣れた顔で返した。レオンが少しだけ口元を緩めた。
それからレオンはいくつかの測定器を取り出した。魔術反応を測るもの、属性を判定するもの、スキルの痕跡を探るもの。
結果はどれも「反応なし」だった。
「おかしい」とレオンが呟いた。「これだけの硬度があれば、何らかの魔術的要因があるはずなのに」
「何もないですよ、私」とエミリアは言った。「魔術ゼロ、スキルなし。おでこだけ硬い伯爵令嬢です」
レオンがエミリアを見た。
「それでも、何かがある気がします」
「根拠は?」
「勘です」
エミリアは笑った。「研究者なのに勘ですか」
「勘が外れたことはないので」
真顔だった。
変な人だな、とエミリアはまた思った。でも、やっぱり嫌いじゃなかった。
◇
学院の夜会は、年に一度開かれる社交の場だ。
生徒たちが正装で集まり、音楽に合わせてダンスをしたり、軽食を取りながら交流したりする。貴族社会の縮図のような場所で、エミリアはあまり得意ではなかった。
それでも参加しないわけにはいかない。
エミリアは薄紫のドレスを着て、会場の隅でレモネードを飲んでいた。
中央ではセシルたちが華やかに踊っている。みんな魔術で光の演出をしていて、それはそれは美しかった。
「ここにいたのですか」
声がして振り向くと、レオンだった。珍しく正装していた。黒い礼服が似合っていた。
「レオン様も夜会に来るのですね」
「調査の続きを話したくて」
「今夜ですか」とエミリアは笑った。「夜会で研究の話をする人は初めて見ました」
「そうですか」
レオンが隣に立った。会場を見渡しながら言った。「おでこの件、一つ仮説が立ちました」
「どんな?」
「古代の──」
そのとき、会場の扉が激しい音を立てて開いた。
覆面をした男たちが五人、なだれ込んできた。
手に武器を持っている。刃物と、鈍器。
会場が悲鳴に包まれた。
騎士たちが動こうとしたが、盗賊の一人が叫んだ。
「動くな! 令嬢たちを人質に取るぞ!」
三人の盗賊が散らばって、近くにいた令嬢たちを捕まえた。
捕まったのはエミリアと、よりによってセシルとその取り巻き二人だった。
セシルが青ざめていた。プライドの高い顔が、今は恐怖で震えていた。「はな、して……」
エミリアも怖かった。心臓がばくばくしていた。
盗賊がエミリアの腕を掴み、ナイフを突きつけた。冷たい刃が首筋に当たった。
「騒ぐな。大人しくしていれば傷つけない」
レオンが一歩踏み出した。
「動くな!」
盗賊が怒鳴り、レオンが止まった。
近くにいた護衛騎士たちも動けなかった。
エミリアは盗賊の手を見た。ナイフを持つ手。
怖い。すごく怖い。
でも、盗賊が一瞬だけレオンのほうを向いた。
その瞬間、エミリアの身体が動いた。
考えていなかった。本能だった。
「えいっ」
ナイフに向かって、おでこを突き出した。
ぽきっ。
ナイフが、折れた。
根本からきれいに、ぽきっと。
盗賊が固まった。
エミリアが一番驚いた。「え……折れた……」
盗賊がもう一本ナイフを取り出した。震える手で構えた。
エミリアはもう一度、おでこを向けた。
「えいっ」
ぽきっ。
また折れた。
今度は刃の部分が飛んで、盗賊の頬をかすった。盗賊が「いたっ」と言って顔を押さえた。
エミリアが盗賊の鳩尾に肘を入れると、盗賊がくずおれた。
会場が静まり返った。
全員が、エミリアを見ていた。
エミリアは折れたナイフを見た。おでこを触った。ぽかぽかしていた。
「……えーと」
何か言わなければと思ったが、言葉が出てこなかった。
残りの盗賊たちが顔を見合わせた。一人が「ナイフが折れた……」と呟いた。別の一人が「令嬢のおでこで……」と続けた。
護衛騎士たちが我に返って、一斉に気が抜けた盗賊たちに飛びかかった。
あっという間だった。
五人全員が取り押さえられた。
◇
騒ぎが収まると、会場にぽかんとした空気が残った。
セシルが、エミリアを見ていた。
さっきまで怖くて震えていた顔が、今は別の意味で固まっていた。
「……助けてもらった、ということ?」
セシルの取り巻きの一人が小さな声で言った。
「石頭令嬢に」と別の一人が続けた。
セシルが口を開いた。閉じた。また開いた。
「……あなたのおでこって」
絞り出すような声だった。
「本当に変ね」
それだけだった。「ありがとう」ではなかった。
エミリアは笑った。
「ですよね。私もそう思います」
気にしていなかった。本当に、ただ笑っていた。
セシルは、レオンのほうを見た。
レオンはエミリアのことだけを見ていた。
セシルには、一度も目を向けない。
ツンとした顔で、視線を逸らし、セシルはその場を去った。
会場の空気が、変わっていた。
さっきまで「石頭令嬢」を遠巻きにしていた人たちが、今は別の目で見ていた。ざわざわと声が広がっていく。
「ナイフが折れたぞ」
「おでこで」
「フォレスト令嬢が」
「盗賊を」
「おでこで……」
エミリアはどこかに置いてきてしまったグラスがないかと周りを見たら、レオンが持って来てくれていた。
「はい」
「ありがとうございます」
エミリアはグラスを受け取った。
レオンが静かに言った。「怪我はないですか」
「ないです。おでこはいつも通りです」
「そうですか」
レオンが少し間を置いた。
「怖かったでしょう」
「怖かったです。すごく」
エミリアは素直に答えた。「でも、動いちゃいました。なんか、いつもそうなんです。考える前に頭が出てる」
「……勇気があるんですね」
「おでこが勝手に動くだけです」
レオンがまた少し口元を緩めた。エミリアはその表情が少しずつわかるようになってきた。これは、笑っているときの顔だ。
「調査結果の話、聞けますか」とレオンが言った。「今夜で、確信が持てたので」
◇
会場の端、窓際の人が少ない場所に移動した。
夜の庭園が窓の外に見えた。月が出ていて、噴水が光を反射していた。
レオンが測定器を取り出した。
「先ほどナイフが折れた瞬間、魔術的な反応が一瞬だけ出ました」
「え、そうなんですか」
「私の測定器は精度が高いので、通常の器具では拾えない微弱な反応も検知できます」
レオンがエミリアのおでこに測定器を近づけた。
器具がほんのりと光った。
「……やはり」
レオンが真剣な顔で器具を見た。もう一度当てた。また光った。
「何が出たんですか」
「加護です」
エミリアが固まった。
「……え」
「古代守護精霊の加護です」
「……加護」
「はい」
「私が?」
「はい」
エミリアは自分のおでこを触った。ぽかぽかしていた。いつも通りだった。
「加護って、もっと才能のある人に宿るものじゃないのですか。私、魔術ゼロですよ」
「加護は魔術の才能とは別のものです。その人の本質に宿ります」
レオンが続けた。「加護が宿る場所は人によって違います。手の場合も、心臓の場合も、目の場合もある。あなたの場合は」
レオンが真顔でエミリアのおでこを見た。
「おでこでした」
エミリアが間の抜けた声を出した。
「おでこ……」
「おでこです」
しばらく、沈黙が流れた。
エミリアが吹き出した。
こらえようとしたが無理だった。くつくつと笑いが出てきて、止まらなくなった。
レオンが少し困った顔をした。しかしその口元が、かすかに動いていた。
「笑うことですか」
「だって……おでこですよ……」
「おでこです」
「どうして……おでこに……」
「それが加護の判断なので」
エミリアがまた笑った。レオンも、今度こそ小さく笑った。
笑いがようやく収まって、エミリアは目尻を拭いた。
それから少しだけ、静かになった。
「ずっとコンプレックスだったのに」
エミリアは呟いた。声が少し、小さくなった。「変だって言われ続けて。恥ずかしいって言われて。石頭令嬢って笑われて」
「知っています」
レオンが静かに言った。
「加護は、その人が守るべきものを守るために宿ります」
エミリアが顔を上げた。
「今夜あなたは、おでこで人を守った。セシル様たちのことも含めて、馬鹿にしてきた相手も含めて」
エミリアは、今夜捕まった人たちの顔を思い出した。怖くて震えていたセシルの顔。取り巻きの令嬢たちの顔。
「守るべきものが何かを、あなたのおでこは最初からわかっていたんだと思います」
エミリアはしばらく黙っていた。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。噴水の水音が聞こえた。
「……じゃあ、コンプレックスじゃなかったんですかね」
「そう思います」
「ずっと悩んでたのに」
「損をしましたね」
エミリアがまた吹き出した。「慰め方が下手ですね」
「そうですか」
「そうですよ」
レオンが少し考えるような顔をした。「では、どう言えばよかったですか」
「うーん」エミリアが少し悩んだ。「まあ、でも、正直に言ってくれる人のほうが好きかもしれないです」
レオンが手を差し出した。
「引き続き、研究させてもらえますか」
エミリアが笑いながら聞いた。「おでこの?」
「あなた自身の、です」
エミリアの頬が少し熱くなった。「……そういうことは、真顔で言わないでください」
「善処します」
全く表情を変えずにレオンが答えた。
エミリアはその手を取った。
「……研究、付き合いますよ。でも一つ条件があります」
「何ですか」
「おでこって何度も言わないでください。さすがに恥ずかしいので」
レオンが少し間を置いた。
「……善処します」
「さっきも同じこと言ってましたよね」
「言いましたね」
エミリアがまた笑った。
夜風が吹いて、花の香りが会場の端まで運ばれてきた。窓の外の月が、噴水をきらきらと照らしていた。
エミリアは自分のおでこを、そっと触った。
ぽかぽかしていた。
いつも通り。でも今夜からは、少しだけ違う意味で。
これが、ワタシのおでこの正体か。
悪くない、とエミリアは思った。
全然、悪くない。
むしろ、この「おでこ」でよかった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「おでこでナイフを折る令嬢」という、我ながらとんでもない話を書いてしまいましたが、楽しんでいただけましたか?
もし「読んでよかった」「おでこすごい!」と少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると嬉しいです。次の作品を書く力になります。
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております^^




