トシさん
「ふぅー」
あっ、バスの中だった。
知らず知らずに出た溜息は、期末テストの成績が悪かっただけではない。
憂鬱な3日間が終わって間もなく、担任の大河内先生は伯父さんに連絡をしていた。家庭の事情を知る先生は、私の成績が絶望的に悪かったので、三者面談で伯父さんと話したいらしい。
夏休みが近付き、もう志望校を決めなくてはいけない。伯父さんにわざわざ来てもらう訳にはいかないので、学校の帰りにお店に向かった。
いつもの様にカウンターの隅の席に座ったら、伯父さんはいつものようにオレンジジュースを出してくれた。
「進路相談は大事だろ? それに成績が悪いなら尚更……」
「高校行かないし」
ここははっきりと言っておかないといけないのでズバッと言った。
「はぁ?」
と伯父さんはとても驚いた顔をした。でもたぶん冗談だと思ったのか、すぐに笑ってこう返してきた。
「伯父さんも学生時代は成績が悪くてさ、でもちゃんと高校や大学へは行ったぞ。大丈夫だよ、今から勉強して……」
「無理だよ。私勉強嫌いだもん!」
すぐにそう言い返した。
私が本気だと気が付いたらしく、今度はちょっと怒ったみたいな目をした。
「お母さんは何て言ってんだ?」
「まだ話してない」
「中学出て何するんだ? 何かやりたい事でもあるのか?」
「ない。どっかで働くだけだよ」
「でもな、せめて高校は出ておいた方がいいぞ。青春時代は一瞬だからな、友達と勉強したりスポーツとかさ……」
「友達もいないしスポーツもやらないもん」
「でもな……」
「父親代わりのつもり?」
「えっ?」
「そういうのいいからね。自分の事は自分で決めるよ」
「明日香! まだ子供のくせに何……」
ガチャッ
伯父さんが怒り口調になった時、店のトイレから誰かが出て来た。
ふと見ると、あのおしゃべりなおばあさんだったから驚いた。
「まぁ明日香ちゃんじゃないの。こんにちは」
「あっ……どうも……」
「あっ!」
伯父さんはすっかり、このおばあさんがいた事を忘れていたようだった。
気配を消すの得意? 私に似てるかも。伯父さんはそろそろ「準備中」の札を掛けようとしていた。
「すみません、気付かなくて。ランチタイムで忙しかったので……」
「いいのよ、そんな事。ここのおトイレ、居心地がいいみたいで、便座に座って考え事をしていたら、ウトウトしちゃったわ……ちょっといい?」
と私の隣に腰かけた。
「私ね、15歳で働き始めたのよ。だから別にいいんじゃない?」
急におばあさんが、真剣な顔をして話し始めたもんだから、私と伯父さんは思わず「えっ?」と顔を見合わせた。
「だからね、明日香ちゃんが高校行かなくても。あっ、ごめんなさいね、ちょっと聞こえてしまって……」
やっぱりフフフって笑うけど、聞こえてしまって、なんてちょっと嘘っぽい。聞こうとしてたんでしょ! とか思ったけど、私の味方をしてくれてるんならいいか。
「失礼ですけど、これは身内の問題なので、見ず知らずの人に、あれこれ口出しをされるのはちょっと……」
「まぁ、客観的な意見ってやつよ」
「はっきり言って、お客さんの頃とは時代が違いますから!」
一気に険悪なムードになった。緊張が走ったけど、おばあさんは凄くオープンな笑顔を伯父さんに向けた。
「私、新井トシといいます。75……あっ、年はいいとして……ここのお店が気に入ったので常連になりたいと思っていますので、よろしくね」
「えっ?」
「だってマスターが、見ず知らずの人って言うから」
いきなりの自己紹介に伯父さんはきょとんとしていた。でもその後、ニコッと笑顔になった。普段そんなに笑わないけど、笑うと一気に親しみやすい感じになる。そしてつられたように、自己紹介返しをした。
「僕は、星川哲生。53歳です。お客さんに、お店を気に入って頂けて嬉しいです。こちらこそ、よろしくお願いします」
「あっ、そうそう、あのね、おばあさんとかお客さんとか呼ばれるのはちょっとあれね……」
「じゃあなんて?」
「そうね、トシさんって呼んでくれた方が嬉しいわね……」
「はい。じゃあ、トシさんで」
すっかりおばあさん……あっ、トシさんのペースに乗ったようだ。私もこの流れで「小谷明日香、15歳です」とか? 別に言う必要ないかな。そんな風に思ってたら、カラーンと店のドアベルが鳴り、お客さんが店を覗き込んだ。
「ちょっと多いんですけど……いいですか?」
「あっ、いいですよ。どうぞいらっしゃいませー」
と伯父さんが快くお客さんに答えた。
「30人程……なんですが」
「えっ!」
伯父さんは滅多に来ない団体客に驚いたが、素早く水とおしぼりを用意した。すると狭い店は、ほぼアダルトな男女で満席になった。
「ごめん明日香、ちょっと手伝ってくれないか」
そう言いながら水を素早く運び、注文を取っていった。私は何をしたらいいのか分からないので、ただ伯父さんが忙しくしているのを目で追いかけていた。
お客さんはメニューを見ると、ナポリタン、ハヤシライス、ミックスサンド……と次々注文を始めた。
「オムライス2、ハヤシライス2、ビーフカレー3、ナポリタン4、卵サンド3、ミックスサンド4、カフェオーレ4、アイスティー2……」
伯父さんは伝票に書いていたけど、結構数を間違えていた。
「違うよ。ナポリタンは3、卵サンドは2で……」そう指摘すると、伝票を私に渡して伯父さんは「任せた!」と言って厨房に入っていった。私は慌てながらも、伝票にお客さんがあれこれ注文したメニューを一気に書き、オーダーを確認し、伯父さんに伝えた。
気が付いたらトシさんは、お客さんと雑談をしていた。
「そうですか、俳句の会の集まりで……」
どんだけ話し好きなんだろ……ちょっと呆れた。でも、相手の人は嫌な顔をしていないから別にいいのかな。
正直、さっさと帰っておけば良かった、なんて思った。でも伯父さんには普段お世話になってるし、たまには手伝ったりしないと、だよね。
「えっと……ハ、ハヤシライスお待たせしましたー」
少し緊張しながら、テーブルに出来上がったメニューを運んだら、お客さんに「お手伝い? 偉いわね」なんて言われて照れた。
いつの間にか、トシさんもドリンクを運んだり、水のおかわりを出したりしていた。ニコニコ笑って、まるでここの店をずっと経営している女主人のようだった。
伯父さんは慣れない団体客のメニューを、結構手際よく捌いていた。
「明日香、オーレ持ってって」
「はい!」
お盆にコーヒー4つも乗せると、ちょっと震える。こぼさない様に……。
「食べ終わったテーブル、お皿下げて来て……ちゃんとお下げしてよろしいですか? って言うんだぞ」
「はい!」す
お皿を下げて、運んで……。
お客さんを見ていると、美味しそうに食べていて、楽しそうだった。
俳句の会の人たち? 多分、みんな60歳以上だよね? この年齢になると、いじめとかないのかな……どうなんだろ……。




