最後の会話
次の日、気持ちがモヤモヤしたまま、何もなかったような顔をして学校へ行く。本当は、このまま夏休みまで休んでしまいたかったけど、私は何もやましい事なんてしてないんだ、という事を証明するためにも登校した。そんな気持ちになったのは、昨日トシさんが言ってくれた言葉のせいだろうか?
でも、気のせいか廊下を歩く私の事を、みんな見ているような気がした。そうしたら、知らない男子が声を掛けてきた。うちのクラスの子じゃない。他のクラスの子だ。
「ヤバいクスリ持ってるってホント? なぁ、俺にもくれよ」
そう言うと、他の男子も「俺も」とか言って後ろを付いてきた。私は怖くなって、急いで教室へ入った。当然、教室の雰囲気もおかしかった。みんな私を一斉に見る。
いつものように真田さんが「おはよう」と元気に声を掛けてくれた。
「何か変な噂が立ってて嫌だね」
先生との会話、聞いてたよね? そう思ったら、少し真田さんを疑ったような目で見てしまった、のかもしれない。
「えっ、私? 確かに昨日聞いちゃったけど、誰にも言ってないって」
「……別にいいの、どっちでも」
ちょっと投げやりに言うと、真田さんはちょっとムッとした。
「よくないよ!」
「ごめんなさい」
すぐに謝っとこう。
「別に謝んなくてもいいよ」
「でも、疑ったのは確かだし……」
「何か、小谷さんって面白いね」
「ど、どうして?」
「ぶっきらぼうだと思ったら、超素直にごめんなさいって……」
へ、変だったかな? 確かに最近ちょっと情緒不安定? かも。
「大丈夫だよ、私、知ってるから」
「えっ?」
「村木が嘘付いてるって」
「ウソ?」
「あいつとは幼稚園から一緒だったから、何となく分かるの。都合の悪い事はいつも人のせいにするとこがあるのよ。昔から……」
真田さんの話によると、村木くんの家はいわゆるエリート一家らしい。なので、村木くんが中学受験を失敗してから、家の中は針の蓆だったようだ。それなのに、今回のテストで成績が落ちて、かなり精神的にやられていたみたいだ。
「昨日さ、小谷さんが帰った後に先生に言ったんだよ。でもあんまり聞いてくれなくて。ま、先生も薄々気が付いてるのかもね。でも大人の事情ってやつで……」
先生が入って来たので話は途中で切れちゃったけど、どこかモヤモヤ感が消えた。やっぱり、真田さんの背中がとても逞しく感じられた。
休み時間は、村木くんの話題でそれぞれのグループがいろいろな噂話をしていた。
私に「クスリあげたって本当?」とか、直接聞いてくる女子がいたり、「あいつって自殺しようとしたんじゃね?」とか言う男子までがいた。
あの日、救急車のサイレンが聞こえた夜、運ばれたのは村木くんだったんだろうか。ただ、今回の事で分かったのは、村木くんってそんなに好かれてない子だったんだって事。勉強はできるかもしれないけど、かなり上から目線なのがムカつくらしい。でも、いじめられたりはしていない。ムカつくからといって、必ずしもいじめられるとは限らないみたいだ。
学校から帰ると、お母さんがエプロン姿で台所のシンクを掃除していた。
「おかえりなさい」
額には薄っすら汗を掻きながら、機嫌良さそうに笑った。
「ただいま……あれ? ピカピカだね」
毎日料理をしなくても、シンクはすぐに石鹸カスや水垢で汚れる。お母さんは元気な時、いつもシンクをピカピカにしていた。
「ごめんね、そこの掃除サボってた」
「何言ってるの、お母さんがやんなきゃいけないのに」
「やんなきゃって事はないよ……」
最近のお母さんは、散歩にセラピーに家事と……必死になって生活を取り戻そうとしているのが分かる。
「無理しないでよ」
「大丈夫! で、今日は何か食べたいものない?」
「……えっ……お母さんが作るもんなら何でもいいよ」
「えっ、何でもいいって言うのが一番困るでしょ」
「じゃあ……そうだ、肉じゃが! 前作った時、うまく出来なくて……」
そう言うと、お母さんの明るかった表情が急に固まった。
「ダメ?」
「ごめんね……他の物にして」
「じゃあ、焼きそばは?」
「うん、いいね。でも、キャベツがないわね」
「あ、買ってくるから、大丈夫!」
ちょっとおかしな空気になったから、カバンを置いてすぐに着替えた。「いってきまーす」と家を出ようとしたら、他に買ってきて欲しいものを書いたリストを手渡された。
肉じゃが……前に私が作った時も、嫌な顔、とかじゃなくて、苦しいような、辛いような? そんな顔をしたっけ。何かあるのかな? スーパーへ向かう道、歩きながら考えていた。
今まで肉じゃがは、家では定番のメニューで、よく食卓に登場していた。でも確か、お母さんはお父さんが死んじゃってから、肉じゃがを作らなくなった。なんでかな……。そんな事をぼんやりと考えていたら、車のクラクション音がした。驚いて音のする方に目を向けたら、交差点で見覚えのある男子が車にぶつかりそうになっていた。その男子は、ドライバーに謝りもせず、そのままフラフラと歩き始めた。その男子は村木くんだった。
私は思わず村木くんを、反対側の道の、角を曲がるまで見ていた。顔色が悪くて、少し痩せたような気がしたけど、最近の噂のせいでそう思うだけかな? 真田さんの話を聞いて、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、気の毒に感じた。成績が落ちて、家では針の蓆だって、真田さんが言ってた。勉強が出来る人は出来る人の悩みがあるんだろうな……。
前のチャーハンの時はサラダもスープもなかったけど、今日は豆腐とネギの味噌汁とレタスとカイワレ大根、キュウリが入ったサラダが食卓に並んでいた。
「焼きそばだけでいいのに……」
「大丈夫、簡単なものばっかりだから」
晩ごはんのソース焼きそばは、ちょっとソースが濃い目だったけど、焼きそばの上の目玉焼きを潰して食べたら、丁度いい感じになった。お母さんもちょっと濃いね、なんて言いながら完食していた。
今日のお母さんは顔色もいいし、表情も明るい。だから、肉じゃがの事、さり気なく聞いてみようか、迷った。
洗い物をしながら、最近開店したパン屋さんに行ってみたいね、とか、散歩道で可愛い柴犬とすれ違った、とか、楽しそうに話していたから、私は聞いてしまった。
「ちょっと気になってたんだけどさ……肉じゃが、どうして作らなくなったの?」
お母さんは洗い物をしている手を止めた。
「どうしてって……」
水道の水が流れっぱなしで、動かないままの手を、再び動かすと、震える声で言った。
「……最後に食べたのが、肉じゃがだったの……」
「最後って?」
「お父さんがね、最後に食べたのが……」
横顔のまま、こっちを見ようとしなかった。
「倒れたでしょ? 出勤する電車の中で」
「うん」
「朝食にね、前の晩の肉じゃがを食べて……」
お父さんは、バスに乗って駅まで行って、その後、電車をふたつ乗り換えて出勤していた。いつも私より早く出るから、朝食は別だった。
「あの日、お母さん寝坊しちゃって、本当はちゃんと朝食を作りたかったんだけどね……」
「でも、お父さんさ、お母さんの肉じゃが好きだったじゃん」
「うん、そうだけど……でもね、あの日の肉じゃがは、ジャガイモが煮崩れしてて……」
洗い物の手がまた止まった。水の流れる音だけがした。
「だから……朝食に出したくなかったんだけど、寝坊なんてするから……」
また自分を責めるような、いつもの顔になった。
「ごめん、変なこと聞いて……もう分かったから……」
「でも、お父さんは気にするなって言ってくれて……」
「そうでしょ? どうしてそんなに気にするの?」
「だって……気になるのよ……最後に……最後に食べたのがあんな煮崩れした肉じゃがだなんて、そんなの悲しすぎるでしょ……」
お母さんの横顔の瞳から、涙がポロリと落ちた。
「……今度また作ってくれよ……それが最後の会話だったのよ」
お父さんは、すごくおおらかな人だった。肉じゃがが、どうなってようと、どうこう言ったりはしない。でも、お母さんにとっては、それがずっと気になってたんだね。
「お母さん、どうして話してくれなかったの?」
「……話せなかった……そんな事? って思うでしょ?」
「思わないよ」
私は、流れっぱなしの水を止めた。
「後は私が洗うから……お母さん、座ってて」
と洗い物を代わった。
お母さんはエプロンで手を拭きながら、そのまま椅子に腰かけた。
「ごめんね、明日香」
結局、また謝る。私は黙って洗い物をした。
お父さんが倒れた前の晩、残業で帰りが遅かったから、「おかえりなさい」って言えなかった。だから、その前の晩に、「おやすみなさい」って言ったのが最後の会話だったんだよね。お母さんが、肉じゃがの事を悔やんでるんなら、私だって、お父さんが残業で遅かった日、ちゃんと待ってて「おかえりなさい」って言いたかったよ。でもね、明日も明後日もお父さんがいるって、それが当然だって、当たり前だって、もう会えなくなっちゃうなんて思ってなかったから……。
洗い物を終えて、お母さんの前に座って、重くならない様に言った。
「私、お母さんの肉じゃがが食べたいなぁ。正直、特別好物ってわけじゃないけどね、ずっと食べられなくなるのは寂しいもん。だから、作れるようになったらお願いね!」
「……そう、好物じゃないか……うん、分かった……」
少し笑ってくれた。私はやっぱり安心する。
お母さんが肉じゃがを作れた時、その時何かが変わるのかもしれない。その時はどうやったら来るんだろ……。




