優しい目
芙美さんのマンションはちょっとレトロな感じの建物だった。赤煉瓦の六階建で、エレベーターはあるけど使わずに階段で二階へ向かった。
部屋の前でブザーを押すと、割とすぐにマスクをしたトシさんが開けてくれた。玄関で渡して即効で帰るつもりだったけど、心細いのでお茶でも飲んでって、と気弱に言うのでちょっとだけお邪魔した。
「マスク、暑くないですか?」
「大丈夫よ。明日香ちゃんにうつったらいけないからね」
部屋は古い感じの本棚やソファがあって、とても洒落た感じだった。
「座って座って!」
部屋を見渡す私をソファに促すと、暫くして麦茶と水ようかんを持って来てくれた。
「若い子はチョコレートとか焼き菓子がいいかしら」
「いいえ。水ようかん、好きです。いただきます」
実はそんなに水ようかんは食べない。好んで買ったりもしない。
でも一口食べたら、なめらかで、そう、これが上品な甘さっていうのかな?
「おいし!」
わっ! 自分のリアクションが恥ずかしかった。
「それはよかった」
「トシさんは食べないんですか?」
「ああ、ちょっと熱があったせいか、まだ食欲がなくてね。でも、明日香ちゃんが持って来てくれたスープ飲んで元気になるわね。ありがと」
いつもお喋りなトシさんでも、具合が悪いせいか、今日は結構沈黙が続いた。
そのせいかどうしても本棚の本とかに視線を向けてしまう。本棚には外国の風景の写真集や読んだ事がないような分厚い本、外国の誰かが書いた小説? が並んでいた。
「娘は本が好きでね。隣の部屋にもあるのよ」
よく見たら、透明なテーブルの下に古い童話や児童文学系の本が無造作に置いてあった。その中には小さい頃、お母さんが読んでくれた物があった。
「あっ、この童話懐かしい」
「そうなの?」
「昔、よくお母さんに読んでもらいました」
「いいわね、そういうの。私なんて娘に本を読んであげた事なんてないわ……」
トシさんは童話を一冊手に取り、少し寂しそうに言った。
「そうなんですか? 仕事が忙しかったとか?」
「そういうんじゃなくて……読めなかったの。私ね……十年くらい前まで、ちゃんと読み書きが出来なかったの。だから、ずっとこうして本を読んだりして勉強してるのよ」
「やだ! まさか……」
と笑ったら、トシさんは真剣な目をしていた。
「本当は明日香ちゃんとバスで帰った時、言おうとしたの。でも、混みはじめたバスの中で恥ずかしくて言えなかった……」
そんな事、あっけらかんと喋りそうなのに?
「あの……どうしてですか?」
「家がとても貧しくてね。兄弟も多かったから、学校なんてほとんど行けなくて。がむしゃらに働いてるうちにあっという間に時間が過ぎて、気が付いたら結婚して出産して……学ぶ機会はあったのかもしれないけど、主人に頼ったりして、避けてたのね、私」
「……あっ、じゃあ、もしかして病院で住所を……」
「そうなの。落ち着いて書こうと思ったら書けるのよ。でも電話で住所とか言われても、慌ててしまってね」
その時ふと思った。あの夜、無理やり住所をひかえる必要とかなかったんじゃないのかなって。
「あの……病院に出す書類なんて、事情を言えば後でいいって事にならないんですか?」
「そうね」
「だったら……」
「明日香ちゃんと話したかったのよ」
とトシさんが私の目を真っ直ぐに見た。
「何かね、どうしてもあの時の明日香ちゃんが気になったの。だからつい……」
「私が、可哀想な顔してたからですか?」
「前にもそんな事言ってたけど? 何?」
「……昔、言われた事があって……クラスの子に」
いじめが始まったのは、そんな事を言われ始めた頃からだろうか、それとも既に嫌われてたから、給食の時間にパンを床に落とされたり、体操服を汚されたりしたのかな。いつの頃なのか、何でなのか、ずっと考えてしまう。
「芙美もね、中学生の頃、偉そうな顔がムカつくとか言われたらしいわ」
「えっ……」
「靴を隠されたり無視をされたり、よくあるいじめが繰り返されて、もう我慢できなくなって不登校になって、その間ずっと家で本ばかり読んでて……夏休みを跨いで暫くしたらまた学校へ行き始めて」
「どうしてまた行き始めたんですか? またいじめられるかもしれないのに」
「さぁ? 私にもそれは分からないわ」
「なんか強いな……私なんて転校しちゃったのに……」
逃げるみたいで嫌だった。負けた気がして腹が立ったけど、どうしても耐えられなかった。
「あの子ね、学生時代からの友達はいないのよ。いるのは仕事仲間ばかり」
トシさんは凄く寂しそうな目をした。まるでそれが自分のことのように。
「結婚しないのも、仕事のせいじゃなくてね、人間不信? みたいなとこがあるのかもしれないってね、思ったりするのよ」
芙美さんの気持ちが分かる、ような気がした。私もこのままだと友達なんて作れない。もし出来てもビクビクしてしまいそうで。私の話し方、表情、しぐさ、どこかイラつかせているかもしれない。そう意識すると動けなくなってしまう。だって何でいじめられたのか、ずっと分からないままだから。
水ようかんを食べ終えると、席を立ってキッチンまで皿とグラスを運ぼうとしたら、トシさんに止められた。いいのよ、と。そして、コップくらい洗わないと身体が鈍ってしまうからね、と優しい目をして私を見た。




