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8,「絶対不浄領域(パンデミック・ゾーン)」~身体が汚れては戦はできませんわ~

「……もったいなぁい」

 フランソワーズは残念そうに首を傾げましたが、怒る様子はありません。むしろ、飛び散った液体が床を溶かす様を見て、頬を紅潮させています。

「何のつもりですの?」

「えぇ~? おもてなしぃ……」

「おもてなし? 笑わせないでくださいまし」

 わたくしは、ドレスのポケットから【白亜のゴム手袋】を取り出し、パチンと装着しました。 そして、冷徹な瞳で、この不潔な空間を見渡します。

「カビだらけの部屋。腐った家具。そして何より……お客様に出すお茶が『排水溝の味』だなんて。リリウム家の教育係が見たら、卒倒して泡を吹きますわよ」

「んふふ。……きれいだねぇ」

 フランソワーズは、わたくしの説教など聞いていませんでした。彼女はゆらりと立ち上がり、抱き枕を強く抱きしめながら、熱っぽい吐息を漏らします。

「怒ってる顔も、真っ白で、きれい……。ねえ、おねえさま。その白い肌に、あたしのカビを植え付けたら、どんな色の花が咲くのかなぁ……?」

「…………ッ!」

 彼女の足元から、ドドド……と黒紫色の瘴気が溢れ出し、部屋全体を浸食し始めました。それは、触れるものすべてを腐らせる、死の領域。

「エドワードちゃんは、鎧の中で蒸し焼きにしてあげるぅ。おねえさまは……あたしと混ざって、ひとつになろぉ?」

 圧倒的な質量を持った「汚れ」が、津波のように押し寄せて、部屋がぐらりと揺れます。ですが、わたくしは一歩も引きませんでした。むしろ、一歩前へ踏み出します。

「グリム」

「はっ。ここに」

 背後から、執事長が銀のトレイに乗せたボトルを差し出しました。【対-有機物用最終洗浄液ホーリー・ブリーチ】。わたくしはそれを手に取り、キャップをねじ切りました。

「お茶会のマナーも知らない不届き者には、教育的指導が必要ですわね」

 わたくしの耳にある涙型のジュエルが、青白く輝きました。

「フランソワーズ。貴女のそのねじ曲がった性根ごと――真っ白に『洗濯』して差し上げますわッ!」


「――高圧洗浄ハイ・プレッシャー!」

 わたくしが振るったモップの先端から、黄金色の魔力が奔流となってほとばしりました。それは文字通り、あらゆる汚れを物理的に押し流す、聖なる激流。石造りの壁すら貫通しかねない水圧が、腐敗の魔女フランソワーズへ直撃――したかに見えました。

「……んふふ。きかないよぉ」

 ジュワワワワ……ッ。

 あろうことか、わたくしの放った聖なる洗浄液が、彼女の周囲に展開された紫色の障壁に触れた瞬間、茶色く濁り、ボタボタと粘つく汚泥へと変質して落ちていくではありませんか。

「なっ……!? わたくしの特製配合洗剤が、中和されたとでも言いまして!?」

「中和ぁ? ちがうよぉ。『発酵』させたのぉ」

 フランソワーズは、抱き枕にしていた巨大なカビの塊に顔を埋めながら、うっとりと笑いました。  

 その笑顔は、背筋が凍るほど邪悪で、同時に悔しいほどに可憐です。


「あたしの『強制腐敗ロート・ワールド』はねぇ、マナも、聖気も、酸素さえも分解して、あたし好みの養分に変えちゃうの。……ねえ、いい匂いでしょぉ?」

 彼女が指先をくるりと回すと、床に落ちた汚泥が脈動し、触手のような形をとって鎌首をもたげました。

 なんということでしょう。わたくしの放った攻撃が、そのまま彼女の兵隊ゴミになってしまうなんて!

 これは、わたくしが最も苦手とする「無限増殖するタイプの黒カビ」と同じパターン。表面を擦っても、根が深くて取りきれないヤツですわ!

「さあ、お姉さんも混ざろうよぉ。ドロドロのグチュグチュになって、あたしと一つになろう……?」

 ズズンッ!  ダイニングの床板が弾け飛び、無数の腐敗触手が一斉に襲いかかってきました。カビ臭い風圧が、わたくしの前髪を揺らします。

「お下がりください、お嬢様ッ!」

 割り込んだのは、執事のグリムでした。彼は燕尾服の袖を翻し、蒼白の障壁を展開します。

死霊防壁ボーン・シールド!」

 ガガガガガッ!  触手の猛攻を、魔法の盾が防ぎます。しかし、触手が触れた端から、魔法の障壁さえもが錆びつくように崩れ落ちていくのが見えました。


「むぅ……やはり元・同業者(闇属性)同士、相性が悪いですな。私の死霊魔術すら肥料にされるとは」

「グリム、無理をしてはダメよ! 貴方の骨粗鬆症が悪化してしまいますわ!」

 わたくしはとっさにグリムの襟首を掴み、バックステップで距離を取りました。しかし、着地した場所のカーペットが、すでに湿っぽく変色していたのです。

「――きゃあっ!?」

 ピチャッ。わたくしの深紅のハイヒールが、不快な音を立てて汚泥を踏みました。それだけではありません。泥跳ねが、純白のタイツにポツリと黒い染みを作ったのです。

「あ……あああ……ッ!」

 わたくしの視界が明滅しました。

 汚れた。汚れた汚れた汚れた。

 おろしたてのタイツが。朝、念入りにマッサージした足が。

「いやぁぁぁぁッ! 汚い! 気持ち悪い! 今すぐ脱ぎ捨てたいですわ!」

 わたくしは半狂乱になって、その場で足をバタつかせました。

 戦闘中にあるまじき隙。ですが、潔癖症のわたくしにとって、これは致命傷クリティカルヒットに等しい精神的ダメージなのです!

「あはは! 隙ありぃ~!」

 フランソワーズが無邪気に笑い、特大の触手がわたくしを飲み込もうと迫ります。

 ――ガァァァァァァァンッ!

 轟音と共に、迫りくる触手が「何か」によって薙ぎ払われました。わたくしの前に立ちふさがったのは、全身から黒い錆を撒き散らす巨躯の騎士でした。

『……あるじヨ。……逃ゲロ!』

 エドワルドです。彼の深紅の鎧は、すでに半分以上が赤黒く錆びつき、動くたびに悲鳴のような軋みを上げています。それでも彼は、大剣を構えて一歩も引きません。

「グリム! ここはエドワルドに任せて、一時撤退しますわよ!」

「はっ。しかしお嬢様、どこへ?」

「決まっていますわ。……業務用の【聖銀のカビ取りハイター】を取りに、倉庫へ戻ります!」

 わたくしは涙目で汚れたタイツを破り捨てながら、決意を固めました。

 この汚れ、必ずや百倍の漂白でお返ししますわ!

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