6,「深淵のカビと、忍び寄る浸食」~廊下のシミが落ちないので、管理組合(ノクターン)に相談しました~
何週間か経ち、「黒の柩」での生活が安定し始めたある日の朝。わたくしは、お利口にテイムされた紅の騎士エドワルドと共に、朝の点検を行っていました。
「異常なし! 本日の廊下も、鏡のように輝いております、マイ・マスター!」
エドワルドが、眩しい笑顔と共に敬礼します。彼はすっかり清潔であることに喜びを見出していました。兜を小脇に抱え、サラサラの赤髪を揺らす姿は、絵画のように美しいのですが……。
「エドワルド。……兜の裏、磨き残しがありますわよ」
「ヒッ! も、申し訳ありませんッ! 直ちに洗浄を……!」
わたくしが指差した瞬間、彼は顔面蒼白になり、その場で高速研磨を始めました。……少々、潔癖症を移しすぎてしまったかもしれませんわね。
「お嬢様。少し、よろしいですかな」
背後から、執事のグリムが音もなく現れました。いつも沈着冷静な彼の眉間に、珍しく深い皺が刻まれています。
「地下15階、食品貯蔵庫へのルートにて……妙な現象が起きております」
「妙な現象? ネズミでも出ましたの?」
「いえ、そうではありません。……壁が、溶けているのです」
「溶けている? 消毒のし過ぎだったでしょうか?」
グリムはいささか言いにくそうに声を抑えます。
「そのような状態ではありません。腐食しているのです」
わたくしとしたことが、この時ばかりは思わず手に持っていたティーカップを破壊して、床をよごしてしまいました。
現場に到着したわたくしたちは、言葉を失いました。
そこは、昨日わたくしがモップがけをしてピカピカにしたはずの回廊でした。しかし今、その壁一面に、毒々しい紫色のカビがびっしりと張り付き、脈打つように蠢いていたのです。
ジュワ……ジュワワ……。
石造りの床が、強力な酸をかけられたように泡立ち、ドロドロに溶けていきます。漂ってくるのは、甘ったるく、そして鼻の奥を刺すような腐敗臭。
「ガァ……マッ! マスター、下がってください!」
エドワルドが悲鳴に近い声を上げて、わたくしの前に立ちふさがりました。彼の鎧の表面に、紫色の胞子が触れた瞬間――。
ジジッ! 黒い錆が広がり、神話級の金属がポロポロと崩れ落ちたのです。
「ヒッ、あ、あああッ! 俺の、俺の輝きがぁぁッ!?」
「エドワルド!?」
彼は半狂乱になって、錆びた部分をガリガリと爪で削り取ろうとしています。ただの汚れではありません。これは、物質の構成を根本から崩壊させる概念的な腐敗。
「……グリム。これは、自然現象ではありませんわね」
「左様でございます。これは明らかに、高位の『呪術』による縄張り主張。……それも、このダンジョンの深層に封じられているという『禁忌の存在』が、目覚めた可能性もあります」
グリムの声色が一段低くなりました。彼は気づいているのでしょう。これが、単なるモンスターの仕業ではないことに。
「……気持ち悪いですわ。わたくしの管理物件に、勝手にリフォームを施すなんて」
わたくしはハンカチで鼻を覆い、冷ややかに言い放ちました。恐怖? いいえ。これは、管理人としての怒りです。
「やれやれ。ようやく気づいたかい?」
頭上から、呆れたような声が降ってきました。見上げれば、腐食を免れた天井の梁に、星空のローブを纏った青年――ノクターンが浮いています。先日出会ったばかりの清掃監督員です。彼はランタンの光で、ドロドロに溶けた床を照らしました。
「ノクターン。貴方、何か知っていますのね?」
「知っているとも。……『失敗作』が動き出したんだよ」
彼は空中を歩くようにして、わたくしの目の前まで降りてきました。その瞳は、楽しんでいるようでもあり、どこか警告を含んでいるようでもあります。
「彼女の名前は『紫陽花』。かつて王国が作り出し、手に負えなくなってここに捨てた『生きたゴミ箱』さ」
「ゴミ箱……?」
「ああ。彼女はあらゆるものを腐らせ、養分として取り込む。……そして今、彼女は猛烈に飢えている」
ノクターンは、そっとわたくしの頬に触れようとして――寸前で手を止めました。まるで、少しでも触れれば、わたくしの「白さ」が損なわれるとでも言うように。
「彼女は探しているんだよ。自分に欠けている美しさをね。……君のその汚れなき魂と混ざり合えば、腐敗の痛みから救われると信じているのさ」
「……つまり、わたくしを食べに来ると?」
「食べる、というより……『融合』かな。愛という名の捕食だよ」
ノクターンは皮肉っぽく笑い、指を鳴らしました。すると、彼の背後の空間が歪み、ショートカット用の「黒い扉」が現れました。
「忠告だ、掃除婦。彼女の腐敗は、君の『除菌』すら養分にする。正面から洗おうとすれば、君自身がドロドロに溶かされて、永遠に彼女の一部になるだろうね」
彼は扉の向こうへ消え際、振り返らずに言いました。
「逃げるなら今のうちだ。……もっとも、君が逃げるとは思っていないけれどね」




