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2,最果ての監獄は、掃除のしがいがありそうです

 衛兵に囲まれ、謁見の間を出た直後の廊下でした。

「お嬢様ッ!」

 転がるような足音と共に、一人の老女が駆け寄ってきました。王城のメイドたちを束ねる、侍女長のマーサです。彼女は警備の兵士をにらみつけて制止させると、涙ながらにわたくしの手を取りました。

「まさか、追放だなんて……! 殿下はご乱心あそばされたのですか!? お嬢様がいなくなったら、この城の守りはどうなるのです!」

 マーサは、わたくしの掃除用具を管理してくれていた、数少ない理解者です。彼女だけが、母様の代から、リリウム家の「真の役割」を知っていました。

「マーサ。泣かないでちょうだい。涙で床が汚れますわ。……それに」

 わたくしは懐から清潔なハンカチを取り出し、彼女の目元をそっと押さえました。

「貴女のその綺麗な瞳が、涙でカブレてしまったら大変ですもの。美しさが台無しよ」

 マーサはハンカチを握りしめ、それでも嗚咽を漏らします。

「ですが……ッ! あの聖女様が来てから、城の空気は澱むばかりです! 排水溝はすぐに詰まるし、壁には謎のシミが浮くし……先週は、地下倉庫で三人のメイドが意識を失いました! お嬢様の【漂白】なしでは、この城は一ヶ月と持ちません!」

「……知っていますわ」

 わたくしは静かに頷きました。

「ですが、わたくしにはもう、この城を守る権限がありません」

 懐から、一冊の分厚い手帳を取り出しました。革表紙は使い込まれて色褪せていますが、中身は母様の代から書き継がれてきた、リリウム家秘伝の知識の結晶です。

「これを、貴女に託しますわ」

「これは……?」

「【王城特別清掃マニュアル・改訂版】です」

 わたくしは、一つ一つ、丁寧に説明しました。

「聖女様が通った後の床は、必ず【重曹と聖水の3:1混合液】で拭くこと。結界のフィルター交換は二週間に一度。地下三階の封印室には、絶対に近づかないこと。もし壁に『目』のような模様が浮かんだら、すぐにこの印を――」

「お嬢様……」

「それから」

 わたくしは、マーサの耳元に顔を寄せ、囁きました。

「もし城の中で『歌声』が聞こえるようになったら、すぐに逃げなさい。城など捨てて、振り返らずに。……建物はまた洗えば済みますが、貴女の命は『使い捨て』ではありませんからね」

 マーサの顔が、蒼白になりました。彼女は震える手でマニュアルを受け取り、深く頭を下げます。

「……承知いたしました。このマーサ、お嬢様がいつ戻られてもいいように、命に代えてもこの城を『清潔』に保ってみせます」

「ええ。……でも、絶対に無理はなさらないでね。貴女が倒れたら、誰が皆に手洗いを指導するのです?」

 わたくしは彼女の丸まった肩を、そっと叩きました。本当は分かっているのです。わたくしがいなくなった城で、マーサ一人にできることは限られている。

 それでも、彼女に希望を残しておきたかった。


「お元気で」

 わたくしは彼女に背を向け、護送馬車へと歩き出しました。別れの言葉は言いません。湿っぽいのは、生乾きの雑巾だけで十分です。


 ガタゴトと、馬車が動き出します。

 窓の外、遠ざかっていく王都の空を見上げると、突き抜けるような青空が、ほんのわずかに――誰にも気づかれないレベルで――灰色に翳っていくのが見えました。

(やはり、フィルターが目詰まりを起こしかけていますわね)

 わたくしという「浄化装置」を失った王国。そこに残されたのは、排ガスを撒き散らす聖女と、それを崇める裸の王様たち。

 この国が【ゴミ屋敷】になって崩壊するのは、そう遠い未来の話ではないでしょう。

「……まあ、わたくしには関係ありませんわ」

 本当に?

 心のどこかで、小さな声が問いかけます。

 本当に、見捨てていいの? あの城には、まだ多くの人が暮らしている。厨房で働く料理人たち、庭園を手入れする庭師たち、まだ幼い王女殿下。

 彼らは何も知らず、汚れていく空気を吸い続けている。


(……可哀想に。毎日、ピカピカに磨いて差し上げたかったけれど)

 わたくしは目を閉じ、母様の最期を思い出しました。

 あの日、母様は笑っていました。全身を黒い斑点に覆われ、意識が朦朧とする中でも、わたくしの手を握り、最後まで微笑んでいた。


「いい? クラリス」


 母様の声が、耳の奥で蘇ります。


「わたくしたちの『掃除』は、誰かのためにするものじゃないの。自分が気持ち良いから、するの。それでいいのよ」


 そうでした。

 わたくしは、誰かを救うという大義名分で掃除をしているわけではありません。

 ただ単純に、美しいものが汚れていくのが耐えられないだけ。泥を被って輝きを失ったものを見ると、胸が締め付けられるように痛むだけ。

 それは利己的な動機かもしれません。

 でも、だからこそ、わたくしは誰に感謝されなくても、誰に理解されなくても、ただその場所が輝くことを願って、掃除を続けられる。


「……これから向かう場所は、どんな汚れ具合かしら」

 わたくしは馬車のシート(埃っぽかったので、持参した布を敷きました)に深く座り直しました。  

 最果ての監獄。噂によれば、そこは魔物と瘴気がひしめく、世界で一番汚れた場所だとか。地図からも抹消され、存在そのものが禁忌とされている。

「掃除のしがいがありそうですわね」

 不敵な笑みを浮かべ、わたくしは白亜の手袋をキュッと締め直しました。

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