11,「大掃除(ジェノサイド)」~そのゴミ、分別が必要ですわ~
北の荒野。そこは、神に見放された極寒の地獄だった。猛烈な黒い吹雪が吹き荒れ、視界の全てを墨汁のような闇で塗りつぶしていく。
ザッ、ザッ、ザッ……。
その闇を切り裂くように、異様な集団が「黒の柩」へと迫っていた。数千の軍勢。足音以外の物音は一切ない。呼吸音も、鎧の擦れる音さえも、雪に吸い込まれて消えていく。かつては王国が誇った精鋭、近衛騎士団。
だが今、彼らの白銀の鎧はドス黒い油と返り血に変色し、兜の隙間からは知性の光が消え失せている。彼らは皆、北の穢れを自ら取り込み、主の命令のみで動く屍と化していた。
その先頭を行く男が一人。周囲の兵士よりも頭一つ抜けた、身長2メートルを超える巨躯。全身を包むのは、この世の全ての呪いを煮詰めたような、漆黒のフルプレートアーマー。王国の騎士団長にして、今回の討伐隊の指揮官――ゼクスである。
「……あれか。標的の潜伏地点は」
ゼクスは、ダンジョンへと続く深い渓谷の入り口で立ち止まり、ガントレットに覆われた手で兜を外した。露わになった素顔。右半分は、歴戦の騎士らしい精悍な顔つきをしており、かつての英雄の面影を残している。だが、左半分は――醜く隆起し、紫色の血管がドクドクと脈打つ「蟲」のような外殻に侵食されていた。
「全軍、停止」
彼の低い声一つで、数千の亡者がピタリと止まる。一糸乱れぬ統率。それは訓練の賜物ではない。彼らの自我が「穢れ」を通じて、ゼクスという一個体に掌握されている証拠だった。
ゼクスは、渓谷の最奥に鎮座する、異質な黒い建造物を見据えた。大地から突き出した、巨大な金属の塊。「黒の柩」。
ゼクスは腐敗した瞳を細めた。彼は知っていた。自分がもう、人間には戻れないことを。王国の腐敗を嘆き、正そうとした結果、彼自身が最も深い「腐敗」に手を染めてしまった皮肉を。
「ギルバート殿下の勅命は絶対だ。『心臓』を抉り出せ。……抵抗する者は、手足をもぎ取り、徹底的な絶望を与えてから殺せ」
ゼクスは腰に佩いた魔剣【喰らうもの(ヴォーパル)】を引き抜いた。
ジャラリ。
刀身からどす黒い瘴気が噴出し、降りかかる雪を瞬時に腐らせていく。
「進め。……我らが通った後には、草一本残すな。全てを喰らい尽くし、更地に変えるのだ」
号令と共に、亡者たちが喉を鳴らした。統率された狂気。彼らは人間としての尊厳を捨て、ただ殺戮のためだけに動く兵器として、切り立った崖に挟まれた渓谷へと、黒い雪崩のように進入していく。
深夜の北の荒野。視界を奪う猛吹雪の中、執事のグリムは、ダンジョンのエントランスから数キロ離れた渓谷の断崖に立っていました。その背筋は定規で引いたように伸び、吹き荒れる雪風さえも、彼の完璧な燕尾服を乱すことはできません。
「……やれやれ。深夜の訪問者とは、非常識にも程がありますな」
グリムは懐中時計を取り出し、時刻を確認しました。午前2時。主であるわたくしは、リフォームしたばかりのフカフカのベッドで夢の中です。彼女の安眠を妨げる騒音は、万死に値する重罪なのです。
「来るね、執事殿」
空間が歪み、星空のローブを纏ったノクターンが現れました。彼は空中に胡座をかき、眼下の闇を覗き込みます。
「すごい数だ。王都の正規軍が3万。……まともな人間なら、足音だけで地面が揺れるはずだけど」
ですが、音はありませんでした。渓谷の底を埋め尽くす黒い奔流。松明の明かりもなく、足音も立てず、ただ殺意だけを原動力に進軍する死の軍勢。
「あれはもう人間ではありませんよ。北の穢れと同化し個を捨てた群体だ」
グリムは眼鏡の位置を直し、冷徹な瞳を光らせました。彼にとって、眼下の軍勢は主人の領地を侵し、安寧を脅かす「害虫」です。
「我が主の庭に足を踏み入れるには、品性が足りない。……ここで土に還ってもらいましょう」
グリムが右手を掲げました。彼の手には武器はありません。ただ、指揮者がタクトを振るうように、細い指を弾いただけです。
「――【大規模崩落】」
ズズズズズ……ッ!!
地響きが轟きました。渓谷の両側の崖が、まるで生き物のように蠢き、一斉に崩落を始めたのです。否、崩れたのではありません。土の中から無数の「白い手」が伸び、岩盤を掴み、無理やり引き剥がしたのです。
「っ……!?」
「が、あ、あ……ッ!?」
眼下を行軍していた騎士たちが、初めて声を上げました。頭上から降り注ぐ数万トンの岩石と土砂。回避など不可能。それは攻撃魔法などという生易しいものではなく、地形そのものを変える、大規模な生き埋めでした。
ドォォォォォォォン!!
轟音と共に、軍勢の9割が一瞬で土砂の下へと消えました。舞い上がる粉塵。すぐに静寂が戻ります。
「……終了。慈悲深き埋葬でしたな」
グリムはハンカチで手袋の汚れを拭いました。あまりにあっけない幕切れ。かつて大陸を震え上がらせた「不死王」の片鱗です。
ですが。
「……む」
グリムの目が細められました。土砂で埋まったはずの谷底から、異質な「黒い気配」が立ち上っています。
ボコッ、ボコッ。
泥の海が沸騰するように泡立ち、そこから漆黒の鎧を纏った男が、岩盤を砕いて姿を現しました。
「――ぬるい」
一言。騎士団長ゼクスは、身の丈ほどの岩を魔剣で両断し、瓦礫の山の上に立ちました。その全身からは、タールのようなドス黒いオーラが噴き出し、触れる土砂を腐食させています。
「これがダンジョンの洗礼か? ……まるで、子供の砂遊びだ」
ゼクスが谷の上、グリムのいる方角を見上げました。距離は数百メートル。暗闇と吹雪。だというのに、彼の異形の左目は、正確にグリムを捉えていました。
それだけではありません。眼下では、先ほどの【大規模崩落】によって埋め立てられたはずの谷底が、どす黒く脈打っています。
泥の海が沸騰し、そこから這い出してくるのは、泥人形のような姿をした騎士たち。
「……やれやれ。土に還ることを拒むとは、往生際の悪い」
グリムは呆れたように肩を竦め、眼鏡の位置を直しました。彼にとって、これは戦闘ではありません。深夜の庭に湧いた害虫駆除。それも、主人のクラリスが目覚める前――「朝食の時間」までに終わらせるべきルーチンワークに過ぎません。
「――オ、オォォォ……!」
無数の呻き声と共に、泥の軍勢が崖をよじ登り始めます。
「こざかしい罠では我々は倒せん」
距離は数百メートル。嵐の中。だというのに、ゼクスの声は耳元で囁かれたように鮮明に届きました。
「罠ではありませんよ。ただの『埋葬』です」
グリムは冷ややかに返します。その瞬間、ゼクスの姿がブレました。
ドォォォォン!!
足元の岩盤が爆ぜ、ゼクスが砲弾のように跳躍します。一瞬で数百メートルの高低差をゼロにし、グリムの目の前へ。振り下ろされる魔剣には、空間すら腐食させる高濃度の瘴気が圧縮されていました。
「死ね」
「お断りします」
グリムはポケットに片手を突っ込んだまま、最小限の動きで半歩下がりました。
ヒュンッ!!
鼻先数ミリを凶刃が通過します。斬撃の余波だけで、背後にあった巨岩がバターのように両断され、ガラガラと崩れ落ちました。
(……ほう)
グリムの眼鏡の奥が光ります。
速い。重い。
そして何より、剣技が洗練されている。ただの力任せの怪物ではない。達人の技量を持ったまま、スペックだけが怪物化した存在。
「逃がさんぞ!」
着地と同時に、ゼクスによる怒涛の連撃が始まりました。
袈裟斬り、突き、薙ぎ払い。暴風雨のような剣戟。
ですが、グリムは燕尾服の裾さえ翻させず、優雅なステップですべてを回避し続けます。まるで、舞踏会で下手なパートナーを相手にしているかのように。
「遅いですね。……そんな泥だらけの剣では、私の服にかすりもしませんよ」
「貴様……」
グリムの挑発に、ゼクスの殺気が膨れ上がります。しかし、これは慢心ではありません。グリムは冷静に、敵の力量を値踏みしていたのです。
(個体名ゼクス。剣技はSランク。魔力量は測定不能。……厄介ですが、殺せない相手ではない)
グリムは右手に、青白い死霊の炎を宿しました。本気を出せば、一撃で消し炭にできる。
――だが。




