10,「深淵からの嘔吐(メッセージ)」~その吐瀉物、閲覧注意につき~
「黒の柩」での生活は、表向きは平穏そのものでした。入浴の夜会から数時間後。地下10階のダイニングルームでは、奇妙な光景が広がっていました。
「うぅ……。きもちわるいぃ……」
ソファーの上で、腐敗の魔女フランソワーズが芋虫のように丸まっています。彼女は顔色が悪く(元から死人のように白いですが、さらに青白く)、お腹を抱えて呻いています。
「どうしました、フランソワーズ? 食べ過ぎですの?」
わたくしは、洗いたてのティーカップを拭きながら尋ねました。彼女は今朝、北から降ってきた猛毒の煤を山ほど食べました。
とはいえ間に入浴を挟んでいますし、あのブラックホールのような胃袋があれば消化不良などありえないと思っていましたが……。
「なんか……変なの……。お腹の中で……ゴロゴロするぅ……」
「もしやお腹に虫でもあるんじゃ?」
心配そうに近づいたのは、騎士のエドワルドです。彼は人が良いので、かつて殺し合いをした相手でも放っておけないのでしょう。彼がフランソワーズの顔を覗き込んだ、その時です。
「……んふ」
フランソワーズが、薄目を開けてニタリと笑いました。
「しんぱい……してくれたのぉ? 騎士ちゃん」
「うわッ! ち、近いぞ!」
「ねえ……おくちの中、みてくれるぅ? どこが痛いか……あーん……♡」
ガパッ。彼女が唇を開くと、そこからズルリと「舌」が伸びてきました。紫色の粘液にまみれた、蛇のように長い肉塊。その舌の表面には――腐敗して濁った「人間の目玉」が埋め込まれており、ギョロリとエドワルドを見据えたのです。
「ヒッ、ヒィィィッ! め、目玉ァッ!?」
エドワルドが腰を抜かして後ずさります。フランソワーズは、その反応を楽しむように、目玉付きの舌をチロチロと動かしました。
「んふふ……♡ おいしそうな悲鳴……。ねえ、なめさせて? あたしの消化液……甘くて、しびれるよぉ……?」
目玉がまばたきをし、舌先がエドワルドの頬を撫でようとした瞬間。
「ゔっ、うえっぷ……ッ!」
ドロリ。色気もへったくれもない音と共に、彼女の口から大量の粘液と、何か硬いものが吐き出されました。
ボトッ、ゴロン、ゴロン……。
床に転がったのは、胃液と胆汁にまみれた、拳大の黒い金属カプセルでした。
「…………やっぱり汚いですわ」
わたくしは眉をひそめ、即座に【ロング火バサミ】を取り出しました。フランソワーズのゲロ……いえ、吐瀉物を直に触るなど、管理人のプライドが許しません。
「金属片? 見たところ、ただのゴミではありませんわね」
「お嬢様、私が」
執事のグリムが、さっとハンカチを取り出し、カプセルを拾い上げました。表面の汚れを拭うと、そこには見覚えのある紋章が刻まれていました。剣と百合――我が祖国、王国の紋章です。
「これは……『王家伝令用の密閉カプセル』ですな。どうやら、今朝食べた煤の中に、王都からの使い魔が紛れ込んでいたようです」
「まあ。鳩ごと? 不憫な鳩ですわね」
「中身を確認いたします」
グリムは慣れた手つきでカプセルを開封しました。中から出てきたのは、羊皮紙の手紙。ですが、それは酷い状態でした。フランソワーズの胃液で端が溶けているだけでなく、元の紙自体が赤黒い血と機械油のような黒いシミで汚れていたのです。
「……む」
グリムが手紙を開いた瞬間、彼の眼鏡の奥が、鋭く光りました。ほんの一瞬、室内の空気が凍りついたような殺気。ですが、わたくしが瞬きをする間に、彼はいつもの柔和な老執事の顔に戻っていました。
「何が書いてありますの? ファンレターなら、便箋の選び方から指導が必要ですわね」
「……ええ、左様ですな。少々、文字が汚れて読みづらいですが……」
グリムは手紙を読み上げました。
『……拝啓、ダンジョンの管理者殿。我々は王都の……清掃業者である。近日中に大規模な……不用品の廃棄処分を行いたい。ついては……そちらの処分場を開放されたし……』
「はぁ?」
わたくしは呆れて声を上げました。
「不用品の廃棄? わたくしの管理物件を、ただのゴミ捨て場だと思っているんですの?」
グリムは恭しく頷きました。
「どうやらそのようです。王都では今、不要になった『鉄屑』や『生体ゴミ』が溢れかえっており、処理に困っているとか。……彼らは、それを全てこのダンジョンに不法投棄するつもりのようですな」
「許せませんわ!」
わたくしは激昂し、テーブルをバンッ! と叩きました。
「分別も洗浄もせずに、汚いゴミを押し付けるなんて! マナー違反も甚だしいですわ!」
わたくしの怒りは頂点に達しました。ですが、グリムの「翻訳」は完璧でした。実際の手紙には、こう書かれていたのですから。
『――助けてくれ。殿下は狂い、聖女は壊れた。王都はもう人の住む場所ではない。奴らはそちらに向かっている。 【聖女を修理するパーツ】として、クラリス様の心臓を抉り出すために。逃げてくれ。大軍が来る。あれはもう……』
深夜。わたくしが怒りのあまり明日の迎撃準備(大掃除)のために早めに休んだ後。グリムは一人、薄暗いエントランスホールに立っていました。
彼の手には、先ほどの手紙。グリムが指先を鳴らすと、そこから冷たい青白い炎――『死霊の火』が燃え上がりました。炎は音もなく羊皮紙を舐め、そこに記された「クラリスの心臓を抉り出す」という冒涜的な文言を、一文字残らず灰へと変えていきます。
「……『パーツ取り』か。落ちるところまで落ちたものだ」
グリムは冷ややかに吐き捨てました。その背後の闇から、クスクスという忍び笑いが聞こえてきます。
「悪い執事だねぇ。お嬢様に嘘をつくなんて」
天井の梁に、星空のローブを纏ったノクターンが腰掛けていました。
「彼女が真実を知ったらどうするんだい? 『自分の妹(Type-01)を助けるために、自分の心臓を差し出します』なんて言い出しかねないよ?」
「……お嬢様は、そんなに愚かではありません」
グリムは表情を崩さず、淡々と返しました。
「ただ、お優しすぎるだけです。あの方は、ご自身を犠牲にしてでも妹という穢れを綺麗にしようとなさるでしょう」
グリムは灰を払いました。彼の瞳には、数百年の時を経たアンデッドだけが持つ、昏い情念が宿っています。
「あの方の『白さ』に、地上の泥は似合わない。……汚い仕事は、この老骨の役割です」
「ふーん。で、どうするの? 王都軍……いや、『穢れの傀儡』たちはもうすぐそこまで来ているよ」
ノクターンが示した外の闇。 吹雪の向こうに無数の松明の光と、人間ではない「何か」の気配が蠢いています。
「王都軍だけならば、私が道中で土砂崩れを起こして生き埋めにしました。……ですが、今回の敵は『混ざって』いる」
「そうだね。北の穢れが、人間の欲望に入り込んだ。……あれはもう、君の得意な死霊魔術でも止められないよ」
「ええ。だからこそ」
グリムは踵を返し、ダンジョンのさらに奥――深層へと続く、幾重にも鎖で封印された『開かずの扉』を見据えました。
「この『監獄』の機能を使わせていただきます。……ここはただのゴミ捨て場ではない。古代の厄災、生物兵器、そして禁忌の魔術……それらを封じるための檻です。毒を以て毒を制す」
グリムが指先を向けると、重厚な扉の鎖が、ジャラリと音を立てて解け落ちました。
扉の隙間から、この世のものとは思えない呻き声と、濃密な殺気が漏れ出します。
「ハハッ、面白い。お嬢様は『掃除』のつもりで、君は『戦争』のつもりか。いいよ、僕は特等席で見物させてもらう」
ノクターンは楽しげに空間に溶け、姿を消しました。
残されたグリムは、深々と一礼しました。誰にでもなく、ただ、明日目覚めるであろう主に向かって。
「安眠なさいませ、お嬢様。……目覚めた時には、すべての『害虫』は消え去っておりますゆえ」




