11,「地下99階のアビス・スパ」~王都の腐敗は深刻ですが、今のところ管轄外です~
さらに二ヶ月が経ちました。 「黒の柩」は、見違えるように変貌していました。
「お嬢様、本日の来客報告です」
グリムが、いつものように書類を差し出します。
「本日の迷い込み冒険者、三名。うち二名は地下三階で撤退。一名は地下十階まで到達しましたが、スケルトン清掃班に追い返されました」
「怪我人は?」
「ありません。マニュアル通り、警告と退去勧告のみで対応いたしました」
「よろしい」
わたくしは、報告書に目を通しました。 最近、この施設に侵入する冒険者が増えています。噂が広まったのでしょう。
「最果ての監獄が、なぜか綺麗になっている」と。「中には財宝があるに違いない」と。
困ったものですわ。
「グリム、侵入者対策として、入り口に警告看板を設置しましょう。『私有地につき立入禁止。違反者は清掃します』と」
「清掃、でよろしいのですか?」
「ええ。殺すなんて物騒な言葉は使いたくありませんもの」
「畏まりました」
わたくしは、椅子から立ち上がりました。今日は、地下九十九階の「浴場」を確認する予定です。三ヶ月かけて、ようやくそこまで清掃が進んだのです。
「エドワルドさんに、お湯の準備をお願いしてありますわ。行きましょう」
地下九十九階。そこは、わたくしたちが到着したときには既に、マグマが煮えたぎる灼熱の空間。入っただけで蒸発する温度。生物が生存できない、死の領域。
……だったのですが。
「まあ、素敵」
わたくしは、思わず感嘆の声を上げました。三ヶ月かけて改装されたその空間は、見事な「大浴場」になっていました。
マグマは地下水脈から汲み上げた水で冷却され、適温の温泉に。岩肌は磨き上げられて滑らかになり、湯船の縁には白い大理石が敷き詰められている。天井からは、暖かな光が降り注ぎ、湯気がふわふわと立ち昇っている。
アビス・スパ。わたくしが名付けた、この施設の新しい名物です。
「ふぅ……。よし、四十二度五分。完璧だ」
湯船の隅で、エドワルドが腕組みをして深く頷いています。彼は頭に畳んだ手ぬぐいを乗せ、防水の魔導温度計を片手に、真剣な眼差しでお湯を見つめていました。その姿は、伝説の魔獣というより、こだわり派の銭湯店主そのものです。
「エドワルドさん、お疲れ様です。お湯加減、いかがですか?」
「ああ、マスター。……完璧ですよ。貴女の好みに合わせて、通常より〇・五度ほど熱めに設定しておきました。外が冷えますからね」
彼は誇らしげに胸を張りますが、その額には労働の汗が滲んでいます。
「あら、貴方は入らないのですか? 汗をかいていますわよ」
「いや、俺は……その、番台……いや、湯沸かし係ですから。管理者が客と一緒に入るわけにはいきませんよ」
彼は「仕事中ですので」と言いたげに、タオルで鎧をキュッキュと磨き始めました。
「また、そんな堅苦しいことを」
わたくしは、エドワルドの丸太のように太い腕をぽんぽんと叩きました。
「定期的な入浴は、鱗の艶を保つのに必要ですのよ? いつかの休憩時間に、一緒に入りましょうね。背中、流して差し上げますわ」
「ブフッ!? せ、背中……!?」
エドワルドは真っ赤になって顔をそらします。
「か、勘弁してください……。刺激が強すぎて、心臓が持ちません……」
神話時代の最強種も、三ヶ月ですっかりウブな従業員になってしまいましたわね。
「お嬢様、湯加減を確認いたしますか?」
グリムが、バスタオルを差し出しました。
「ええ、そうしましょう」
わたくしは、服を脱ぎ始めました。グリムとエドワルドは、サッと視線を逸らします。
「……ふぅ」
ちゃぷん、と。湯船に身を沈めると、全身の疲れが溶けていくような心地よさでした。聖水を混ぜた特別な温泉。
疲労回復、傷の治癒、魔力の回復。
あらゆる効能がある源泉かけ流しです。
「極楽ですわね……」
わたくしは、目を閉じました。
三ヶ月前、王都を追放されたときは、まさかこんな生活が待っているとは思いませんでした。巨大な施設の管理者となり、スケルトンやドラゴンや腐敗の魔女を従業員として雇い、毎日お掃除に明け暮れる日々。
普通の人から見れば、狂気の沙汰でしょう。でも、わたくしにとっては――
「……悪くない」
ぽつりと、呟きました。ここには、わたくしを「悪役令嬢」と呼ぶ人はいません。「魔女」と罵る人もいません。ただ、「管理人様」「お嬢様」と呼んで、一緒にお掃除をしてくれる仲間がいる。
それは、王都での生活よりも、ずっと居心地が良いものでした。
「……マスター」
湯船の縁に座りながら、エドワルドが真剣な声音で言いました。先ほどまでの照れくさそうな様子は消え、職人の顔になっています。
「少し、気になることがあるんですが」
「何ですの?」
「最近、外の空気がおかしい。瘴気の流れが変わっているんです」
わたくしは、目を開けました。
「詳しく聞かせてくださる?」
「俺は千年、この地で生きてきましたから。瘴気の流れは肌で分かるんです。……最近、南から流れてくる汚染が増えている」
「南……王都の方角ですわね」
「ええ。まるで……何かが壊れているようです」
わたくしは、湯船から上がりました。グリムが差し出したバスローブを羽織り、モニター室へと向かいます。中央管理室に設置された【遠見の水晶板】を使えば、施設外部の様子も映し出すことができます。
「グリム、南方の映像を」
「畏まりました」
グリムが杖を振ると、水晶板が明滅しました。
画面に映ったのは、荒れ果てた大地でした。三ヶ月前にわたくしが通った、死の境界線。その向こうに広がる王国の領土。
「……あら」
わたくしは、眉をひそめました。三ヶ月前よりも、明らかに汚染が進んでいます。
空の色は灰色から黒へと変わり、地面には毒々しい色の苔が広がっています。そして、王都の方角からは、黒い煙のようなものが、絶え間なく立ち昇っていました。
「あれは……カビの胞子? いえ、もっと有機的な……『死灰』ですわね」
「死灰、でございますか」
「ええ。生ゴミを焼却炉に入れずに放置した時に出る、あの不快な粒子と同じ気配がします」
「グリム」
「はい、お嬢様」
「王都で、何か起きているようですわね。……ただの魔法汚染ではありませんわ」
「……おそらくは」
グリムの声が、沈んでいました。
「お嬢様が追放されてから、三ヶ月。王城の結界は、とうに限界を迎えているでしょう。聖女の『祈り』という名の蓋が、いよいよ閉まらなくなってきたのかもしれません」
「そう」
わたくしは、水晶板を見つめ続けました。かつての婚約者。わたくしを追放した王子。「心優しき聖女」。彼らは今、どうしているのでしょうか。自分たちが住んでいる場所の「床下」で何が起きているのか、気づいているのでしょうか。
「マスター」
エドワルドが、心配そうにわたくしを見上げました。その瞳には、かつての最強種としての激情が微かに揺らめいています。
「もし望むなら……俺がひとっ飛びして、王都を焼き払ってきましょうか? あの汚染の元凶ごと」
「いいえ」
わたくしは、首を横に振りました。
「放っておきなさい」
「……しかし、このままでは」
「それに」
わたくしは、微かに微笑みました。
「わたくしの『お掃除』は、頼まれてするものではありませんの。自分が気持ち悪いから、するだけ。今のところ、あの汚れは――わたくしの管轄外ですわ」
エドワルドは、何か言いたげでしたが、結局黙って頷きました。わたくしは水晶板の映像を消し、自分の部屋へと戻りました。
明日も、お掃除が待っている。この施設には、まだまだ綺麗にすべき場所がたくさんある。王都のことを考えている暇は、ありませんわ。
……ありませんのよ。本当に。




