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10,「玄関前のコーティング」~外が地獄でも、わたくしの家は撥水加工済みですわ~

 ――ガガガ、ピーッ。

(うるさい。……また、神様あのひとが喚いている)

 聖女エルリーゼは、王城のバルコニーで膝をつき、祈りを捧げていた。組んだ指先が、白く鬱血している。美しいピンク色の髪は汗で頬に張り付き、荒い呼吸をするたびに、喉の奥からヒュー、ヒューという異音が漏れる。

「聖女様! 結界の修復はまだですか!?」

「上空からワイバーンの群れが! このままでは、王都が火の海に……ッ!」

 背後で、近衛兵たちが怒号を上げている。だが、エルリーゼの耳には、彼らの声は遠い水底の音のようにしか聞こえない。代わりに脳内を支配しているのは、無機質で冷徹な神の啓示だ。

『警告。魔力回路、臨界点を超過』

『冷却システム、応答なし』

『プロセスを中断してください。これ以上の稼働は、個体の崩壊を招きます』

(……わかってるわよ。そんなこと)

 エルリーゼは、乾いた唇を噛み締めた。熱い。体の芯に、灼熱の鉛を流し込まれたようだ。一ヶ月前。あの目障りな姉――クラリス・フォン・リリウムが追放されてから、この「熱」は日増しに酷くなっている。

 今まで、自分がどれほど彼女に負荷を押し付けていたのか。エルリーゼが派手に奇跡パフォーマンスを見せる裏で、地味で陰気な姉が、どれほど膨大な熱量を処理していたのか。いなくなって初めて、その差を理解させられている。

「…………ッ!」

 祈りを強める。

 バチッ、バチチッ!  彼女の体から放たれた光が、空を覆う黒い雲に弾かれた。結界が、展開されない。

『エラー。対象が存在しません。』

(……そうね。いないわよね)

 エルリーゼは、虚ろな目で空を見上げた。かつて、王都の空には「守護精霊」と呼ばれる、微細な光の粒子が満ちていた。だが、今は何もない。

 守るべき基盤がない空に、いくら障壁を貼ろうとしても、それは虚空に釘を打つようなもの。無意味だ。全てが、無意味なのだ。

「ええい、何をしているエルリーゼ!」

 肩を乱暴に掴まれた。ギルバート王太子だ。彼の顔は焦燥と苛立ちで脂ぎり、醜く歪んでいる。

「貴様は『最高の聖女』だろう!? クラリスなどという偽物を追い出し、真の愛に目覚めた我らに、女神が加護を与えぬはずがない!」

「……殿下……」

「祈れ! もっと強く! 国民が見ているのだぞ!」

 ギルバートの手が冷たい。いや、私の肌が熱すぎるのか。触れられた部分の皮膚が、ジュッ、と音を立てて白煙を上げた気がした。

「あ…………」

「なんだ、この熱さは!?」

 ギルバートが驚いて手を引っ込める。エルリーゼは、ゆらりと立ち上がった。

(ああ……限界だわ)

 自分の中の何かが、限界を告げるアラートを鳴らしている。もう思考がまとまらない。ただ、渇きだけがある。水を。私を冷やしてくれる、あの冷徹で、無慈悲で、心地よい姉の【聖水】を。

『強制終了を推奨します』

(黙っててよ。……ここで止まったら、廃棄処分されるじゃない)

 エルリーゼは、焦点の合わない目で空を睨みつけた。そこには、数百匹のワイバーンの群れが、黒い染みのように広がっている。彼らは知っているのだ。この都市がもう、何の守りもない餌場であることを。

「……おお、女神よ……」

 彼女は歌うように、聖句を紡いだ。それは祈りではない。呪詛に近い、強制起動コード。

「我らを……守りたまえ……ッ!」

 キィィィィィィィンッ!

 高周波の耳鳴りと共に、彼女の背中から、どす黒い光の翼が噴出した。それは神聖な輝きではない。体内の回路が焼き切れ、制御不能になった魔力が、物理的な熱線となって漏れ出したものだ。

 ――ズガァァァァァッ!

 光の翼が空を薙ぎ払う。先行していたワイバーン数匹が、蒸発して消し飛んだ。民衆から「おお……!」と歓声が上がる。ギルバートが「見たか!」と快哉を叫ぶ。

 だが、エルリーゼだけは知っていた。これは攻撃ではない、自壊だ。今の一撃でその寿命の数年分が、灰になって消えたのだ。

 光が収まると、エルリーゼはその場に崩れ落ちた。バルコニーの石床に、じゅわ、と焦げ跡がつく。

「はぁ……はぁ……ッ、ガハッ……!」

 口元を手で覆う。指の隙間から垂れたのは、鮮血ではなかった。どす黒く、粘度のある、オイルのような液体。それが床に落ちると、シューと嫌な音を立てて蒸発した。

(……汚い)

 ふと、姉の口癖が脳裏をよぎる。もし彼女がここにいたら、きっと眉をひそめて言うだろう。『あら、液漏れしていますわよ。パッキンが劣化しているんじゃなくて?』と。

「聖女様! お気を確かに!」

「……さわら、ないで……」

 駆け寄ろうとする兵士を、エルリーゼは拒絶した。今、誰かに触れられたら、その人間を焼き殺してしまうかもしれない。それほどまでに、彼女の体温は異常な数値を示していた。

『警告。システム保護のため、スリープモードへ移行します』

『……再起動の保証はありません』

 視界が、プツンとブラックアウトする。薄れゆく意識の中で、彼女は見た。ワイバーンの群れが去った後の空から、ハラハラと灰色の雨が降ってくるのを。

 それは雨ではなく、北の果てから生み出された、猛毒のすすだった。


 ここ、北の最果て「黒の柩」のエントランス周辺では、朝から猛烈な黒い雪が吹き荒れていました。

 ヒュオオオオオオッ……!

 耳を劈く風切り音と共に、視界は墨汁をぶちまけたような闇に覆われています。降っているのは、もちろん雪ではありません。さらに北、神々すら見捨てた汚染大地「北方領域」から運ばれてくる、高濃度の「すす」と「瘴気」の結晶です。

「……汚いですわね」

 わたくしは、愛用の【対空防御結界傘アンチ・エア・シールド】を差し、うんざりした顔で空を見上げました。

 バチッ、ジジッ……。

 傘の結界に触れた雪が、酸性の火花を散らして弾けます。

「お嬢様。本日の降灰量は『極めて危険カタストロフ』レベルです。生身の人間なら3秒で肺が腐り落ちるでしょう」

「換気が悪いにも程がありますわ。……見てごらんなさい。せっかく磨いた外壁が、また煤だらけです」

 わたくしが指差したのは、地面から突き出したダンジョンの入り口部分。昨日までは黒曜石のように輝いていたのに、今はベッタリと油のような煤が張り付いています。これでは、管理人の品格に関わります。

「エドワルドは役に立ちませんし、人手が足りませんわね……」

 わたくしは、もう一人の新入りに視線を向けました。

「フランソワーズ。貴女の出番よ」

「……んぁ?」

 腐敗の魔女フランソワーズは、わたくしの後ろでウトウトと船を漕いでいました。彼女は今朝、わたくしに洗われてピカピカの白魔女になりました。純白のドレスに、ラベンダー色の髪。まるで天使のような愛らしさですが――その本質は変わっていません。

「お仕事です。……あそこに積もっている『ゴミ』、処理してくださる?」

 わたくしが、煤の山を指差しました。すると、彼女の虚ろだった瞳が、カッと輝いたのです。

「……いいの?」

「ええ。好きなだけなさい」

「クシシ……ごはんごはん……♡」

 フランソワーズは、よろよろと猛吹雪の中へ歩み出しました。普通なら即死級の猛毒空間。ですが、彼女は深呼吸をするように、大きく息を吸い込みました。

「いただきまぁす……♡」

 ――ズオオオオオオッ!

 彼女の口が、ありえない大きさに開きました。まるでダイソン……いえ、ブラックホールです。吹き荒れる黒い雪も、地面のヘドロも、空気中の瘴気も。すべてが渦を巻き、彼女の小さな口の中へと吸い込まれていきます。

「ん~……♡ ここの汚れ、コクがあっておいしいぃ……」

 彼女は恍惚の表情で、パクパクと猛毒を咀嚼しています。彼女は汚れを取り込み、エネルギーに変えます。わたくしが洗浄するよりも、よっぽどエコで効率的ですわ。

「素晴らしいわ、フランソワーズ! まるで【生ゴミ処理係コンポスト】ね!」

 わたくしが拍手を送ると、彼女は口の周りを真っ黒にしながら振り返りました。

「コンポストぉ……? よくわかんないけど、おねえさまが褒めてくれるなら、好きぃ……」

 彼女はゲップを一つ、つきました。彼女が汚れを吸い尽くしてくれたおかげで、周囲の空間だけ、台風の目のような青空が広がっていました。あれほど酷かった煤汚れも、舐めとったように消え失せています。

「よし。汚れが取れた今のうちに、仕上げですわ!」

 わたくしは、ここぞとばかりに【モップ:スッキリさん】を構えました。綺麗になった壁面に、再汚染を防ぐための処置が必要です。

「対象範囲、ダンジョン外壁全域。……展開!」

 モップの先端から、虹色の光の膜が広がります。

「雨も油も弾き返す、鉄壁の守り……。――【全域コーティング(撥水加工)】!」

 キィィィィンッ!

 高周波の音と共に、ダンジョンの外壁がガラスのようにコーティングされました。直後、再び黒い雪が吹き付けますが、今度は違います。雪は壁に触れた瞬間、ツルリと滑り落ち、一切の付着を許しません。

「完璧ですわ。これで次回の掃除サイクルまで、美観が保たれます」

 ピカピカに輝く黒曜石の壁に、満足げな自分の顔が映っています。わたくしは、満腹で動けなくなっているフランソワーズの首根っこを掴み、引きずって中へ戻りました。

「さあ、戻りますよ。……グリム、お茶の用意を。今日は特別に、フランソワーズにもデザートをつけてあげて」

「承知いたしました。……やれやれ、とんでもない掃除機を拾いましたな」

「ええ。コスト削減にもつながって一石二鳥ですわね。……あら?」

 わたくしふと、視線をさらに北――『北方汚染領域』の方角へ向けました。そこは、黒い霧に覆われた死の世界。

 ズズズ……ン……。

 霧の向こうで、山のように巨大な影が動いています。3つの首を持つ竜と、触手だらけの巨人が、互いの肉を喰らい合っているのが見えました。飛び散る血しぶきだけで、湖ができそうな規模です。

「ヒッ……! あれは『深淵の捕食者』と『腐界の王』……! 神話級の怪物が、縄張り争いをしているッ!」

 入り口から顔を出したエドワルドが、ガタガタと震えています。ああ、本当に。

「……騒々しいですわね」

 わたくしは、興味なさそうに視線を切りました。あそこは管理区域外。わたくしの管轄ではありません。

「野良犬の喧嘩に関わっている暇はありませんわ。グリム、お茶にしますわよ。労働の後は喉が渇きますもの」

「承知いたしました」

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