1,その追放、謹んでお受けいたします
「クラリス・フォン・リリウム! 貴様のような不敬な女との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
王城、謁見の間。
大理石の床に響き渡るギルバート殿下の怒号は、王家の血筋らしく、非常によく通るバリトンボイスでした。周囲に控える貴族たちが、一斉にざわめき立ちます。ある者は嘲笑を浮かべ、ある者は憐れみの目を向ける。
ですが、断罪台の中央に立つわたくし――クラリスが気になっていたのは、自分の将来でも、周囲の目でもありません。
(……あら。殿下、また小鼻の黒ずみが目立ってきていますわ)
興奮して広がったその鼻の頭に、ぽつぽつと。ああ、不潔。今すぐに蒸しタオルで毛穴を開いて、優しく、しかし徹底的に押し出して差し上げたい。わたくしはウズウズする指先を、扇子で隠してごまかしました。
「おい、聞いているのかクラリス!」
殿下の声が、一段と鋭くなりました。
「貴様は聖女エルリーゼの神聖なる祈りの儀式に、あろうことか【モップ】を持ち込み、神聖な空間を冒涜した! その罪、万死に値する!」
殿下の腕にまとわりつくようにして、ピンク色の髪をした聖女エルリーゼ様が震えています。彼女の周囲には、常に淡い光の粒子が舞っています。民衆はそれを「女神の祝福」と呼びますが、わたくしの目には、まったく別のものが映っておりました。
黒い煤。
祈るたびに彼女の体から立ち昇り、空気中に溶けていく微細な汚染物質。それは床のワックスを腐食させ、吸い込んだ近衛兵が翌日には謎の高熱で倒れるほどの毒性を持っています。三日前には、謁見の間の警備についていた若い騎士が一人、原因不明の昏睡状態に陥りました。
誰も、その因果関係に気づいていない。気づけるのは、わたくしだけ。
「ひどいです!」
聖女様が、大粒の涙を流しながら訴えます。
「わたしが一生懸命、女神様に祈りを捧げていたのに……クラリス様ったら、私の後ろでずっと【床掃除】をしていて。気が散って、祈りが届きませんでした……!」
「見ろ、エルリーゼが怯えているではないか!」
殿下が、聖女様を庇うように抱き寄せました。その瞬間、彼の首筋に、うっすらと灰色の斑点が浮かぶのが見えます。汚染が、もう始まっているのです。
「この心優しき聖女を傷つけるなど、魔女の所業!」
……まあ。人聞きの悪い。
わたくしはただ、皆様の健康を守ろうと【除菌モップ】をかけただけですのに。リリウム公爵家に代々伝わる「浄化の血統」を持つ者として、当然の義務を果たしただけですのに。
(それに、聖女様……。よく見れば、肩にフケが乗っていますわよ? ちゃんと洗髪なさっていますの?)
彼女の周囲の空気は、どんよりと澱み、生ゴミのような甘ったるい腐臭が漂っています。わたくしの目には、彼女の背後に蠢く「何か」の輪郭すら、うっすらと見えていました。
それは、人の形をしていませんでした。
「殿下、並びに聖女様」
わたくしは、最後の忠告を試みました。
「お言葉ですが、不衛生は品格の敵です。まずはそのお顔と頭皮を『洗浄』なされてはいかが――」 「ええい、黙れ!」
殿下は顔を真っ赤にして、わたくしの言葉を遮りました。
「そのふざけた手袋が何よりの証拠だ! 聖なる謁見の間に、掃除道具を持ち込むなど前代未聞! 貴様の母親も同じだった……! あの女も、宮廷の至るところで『掃除』と称した不審な行動を繰り返し、最後には狂い死んだ!」
――その言葉に、わたくしの心臓が、一瞬だけ凍りつきました。
母様。
十二年前、わたくしが八歳のときに亡くなった、最愛の母様。宮廷では「発狂死」と記録されていますが、本当は違います。母様は、この城の地下に封印されていた「何か」を浄化しようとして――。
「……母の話は、関係ありませんわ」
わたくしは感情を押し殺し、静かに答えました。
「おやおや図星か?」
殿下は勝ち誇ったように笑いました。
「リリウム公爵家の女は、代々頭がおかしいと聞いていたが、本当だったようだな。母親と同じ末路を辿る前に、処分してやるのが情けというもの」
処分。
まるでゴミのように。
殿下は高らかに、宣告しました。
「貴様のような薄汚れた心の女は、我が国の土を踏むことすら許さん! 辺境のさらに北、最果ての監獄へ追放刑に処す! 魔物の餌食となって、その腐った性根を悔い改めるがいい!」
周囲の貴族たちが、どよめきました。最果ての監獄。人類史において、そこへ送られた者で生還した例は一つもありません。それは事実上の死刑宣告。
ですが、わたくしは不思議と、恐怖を感じませんでした。
むしろ、安堵に近い感情すらあったのです。
(この国は、もう手遅れですわね)
見渡せば、謁見の間の天井には、うっすらと黒いカビが広がり始めています。壁の隅には、誰にも見えない「何か」が蠢いている。聖女様が来てから、城全体の「汚染度」は加速度的に上昇していました。 わたくしがいなくなった瞬間、この城は三ヶ月と持たないでしょう。
「謹んで、お受けいたします」
わたくしはスカートをつまんで、優雅にお辞儀をしました。
これ以上、ここに留まることは、かえって城の皆様にご迷惑をおかけすることになるでしょう。わたくしがいることで、殿下の御心が乱れ、新たな穢れを生んでしまうのなら。
(どうか、皆様が健やかでありますように)
心の中で、最後の「浄化の祈り」を捧げ、わたくしは顔を上げました。
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