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第9章:奴隷市場(後編)

鋼鉄の扉が音もなく開いた。その先に広がっていたのは、異様な静寂だった。まるで、時間が凍りついたかのような空間。人工香の甘ったるい匂いと、オゾンのような焦げた空気が、鼻腔を突いた。

薄暗い照明の中、赤いカーテンと黒革のソファ。部屋の中心には、ガラス製の檻。そこに、彼女はいた。

「アオイ……!」

トオルは思わず駆け出しそうになるのを、必死に堪えた。その姿を、心が拒絶した。

彼女は、まるで壊れた人形のように項垂れ、檻の中で静かに座っていた。衣服は薄く、肌にはいくつかの“装飾”と称された拘束チューブが取り付けられている。その手足には軽度の神経制御装置が接続され、目は半ば虚ろだった。

「まだ間に合う……意識はある」

カグツチが手早く周囲の装置を確認しながら呟いた。

「ただ、チップが……反応を始めてるな。この部屋に長くいれば“作動”の可能性がある」

「なら、今すぐ連れ出すしかない」

トオルが口元を引き締める。

そのときだった。

「──誰だ、てめえら」

扉の奥から現れたのは、クラン=ゴウダ直属の警備兵。獣のような体格に、電磁式のスタン・ランサーを携え、冷ややかな視線でこちらを睨んでいた。

「侵入者……! 貴様ら、この場所がどこだと思って──」

その言葉の途中で、トオルが動いた。

一瞬のブレもなく距離を詰め、懐から放ったナノフィラメントナイフが男の咽喉を切り裂く。カグツチも同時に反対側から飛び出し、ランサーの柄を蹴り上げて武器を封じた。わずか数秒で、男は沈黙した。

「騒がれる前でよかったな」

カグツチが死体を転がし、血の跡をカーペットで覆った。

「ユウナギ、状況報告。こちらD9、突入済み。アオイを確保する」

トオルが無線を入れる。


《了解。お前らが動いた影響で、警備システムが動き始めた。数分以内に再チェックが入る。急げ》


「了解。カグツチ、ロックの解除を──」

だが、彼は言葉を止めた。檻の中、アオイの瞳がトオルを見た──しかし、それは“誰かを認識する目”ではなかった。

「……アオイ?」

トオルは檻の前にしゃがみ込み、彼女の目を覗き込んだ。その瞳は、まるで恐怖を映す鏡のようだった。

「やだ……やだ、こないで……」

かすれた声。震える指先。

「……俺だ。トオルだ。助けに来た」

それでも彼女は首を横に振った。

「嘘……もう誰も信じない……どいつも、私を買おうとした……! お前もそうなんだろ……!」

トオルの胸に、鈍い痛みが走る。彼女はまだ、地獄の中にいた。

「違う……違うんだ。俺は……!」

言葉が喉で詰まる。届かない叫び。

だが、そのとき──背後でカグツチが手を伸ばし、檻の制御端末にナノチップを挿入した。

「一時的に、チップ制御を停止する。……だが長くは持たない。急げ、トオル。彼女を“心”で救え」

檻のロックが外れ、静かに扉が開いた。

トオルは、そっとアオイに手を差し伸べた。

「俺を信じなくていい。でも、今だけは……“俺の手を握ってくれ”」

アオイは、怯えた獣のように身体をすくめる。だがその目に、ほんの一瞬だけ、記憶の残滓が揺れた。


──訓練場で交わした、無数の言葉。

──薄暗い地下で、震える手を取ってくれた声。


「ト……オル……?」

小さな声が漏れた。

その瞬間、彼女の手が、震えながらも彼の手に重なった。

「──よし、行くぞ!」

トオルは彼女を抱き上げ、腕の中でしっかりと支えた。

カグツチが先行し、出入口の警備を再確認。

「ユウナギ、出口までの誘導を頼む。敵に察知される前に、引き上げる」


《了解。ルートを再更新する。地熱トンネルを利用して裏口から脱出しろ。出力ルートB-14へ誘導開始》


「さあ、アオイ……帰ろう」

トオルの声に、彼女は小さく、頷いた。背後では、異音に気付いた護衛たちの影が動き出していた。警報はまだ鳴っていない──だが、時間はもう残されていない。

三人の影が、密やかに、混沌の地下都市を駆け抜けた。

静寂が、音を孕んだ。

背後──檻のあった部屋の奥、壁のような扉が重厚な音を立てて開いた。

「よく、ここまで来たな……お客人共」

現れたのは、一人の巨躯。全身を包む黒漆の義肢。赤く光る瞳。筋肉の代わりに合金筋を纏い、その姿はまるで“人間の形をした兵器”そのものだった。

鬼のボス、クラン=ゴウダ。

元・都市軍統制部隊《鉄城団》所属の戦闘強化兵であり、シブヤ地下で最も恐れられる存在。

「久しいな、NOVAの残党ども。お前たち、俺の“商品”を勝手に持ち出そうとは──随分と不届きだな?」

その視線が、トオルの腕の中で怯えるアオイに向けられると、瞳にギラついた所有欲と、異様な悦びが浮かんだ。

「ほう……まだ壊れていなかったか。あれほど、丁寧に“調教”してやったというのに……」

その言葉に、トオルの中で何かが切れた。


──ドクン。


心臓の音が、全身に響く。血が沸騰する感覚。皮膚の下に、あの訓練場の日々が蘇る。


《感情に飲まれるな。敵を見ろ。敵の動きを予測しろ。怒りは刃を鈍らせる》


ユウナギの言葉が、耳元で反響する。

だが、今は──怒りこそが、彼の行動原理だった。

「……お前が、アオイを……!」

トオルは彼女をユウナギに預け、一歩、二歩と前へ出た。

カグツチもまた、ゆっくりと義手のロックを外しながら隣に並ぶ。

「クラン=ゴウダ……貴様に与える罰は、死ですら足りん」

「死ぬのは……どっちかなァ?」

次の瞬間、ゴウダの腕が振るわれた。空気を裂く衝撃音と共に、鋼の拳が床を砕く。トオルとカグツチは左右に分かれ、即座に回避。トオルはその隙を突いて、肩のホルスターから改造セラミック銃を抜く。


だが──

「遅い!」

一瞬で詰め寄ったゴウダの右脚が、トオルの腹を正確に蹴り上げた。吹き飛ばされる身体。だが、訓練の賜物で即座に空中で体勢を戻し、壁を蹴って反撃に転じる。

「──っらァアアッ!!」

放ったナイフがゴウダの肩に突き刺さるが、血は出ない。装甲化された外皮が、致命傷を拒んでいた。

「良い動きをしているが、小僧。俺を倒すには──まだ足りん!」

鉄拳が再び振るわれる。カグツチが割って入り、ガントレット型の電磁盾で受け止める。

「トオル、奴の関節部分を狙え! 装甲の可動域は動作に対して脆弱だ!」

「了解ッ!」

トオルは足元を滑らせ、低い姿勢で回り込みながら銃撃を放つ。弾丸がゴウダの膝裏を捉え、バランスを崩す。

そこに、カグツチがカウンターで拳を叩き込んだ。

「──喰らえッ!」

激しい衝撃で、ゴウダの体が壁に叩きつけられる。

ユウナギの声が無線越しに飛ぶ。


《良い連携だ。だが、奴の本気はここからだ。第二形態に備えろ──》


「──はは、愉快だ。……ならば、次の段階に進もうじゃないか」

ゴウダの身体から異音が響く。背中の装甲が開き、埋め込まれた“神経加速剤”が注入されていく。

全身が膨れ、筋繊維が波打つ。速度も、出力も、跳ね上がった。

「これが……俺の進化形態、《鬼骸》モードよォッ!!」

次の瞬間、彼は消えた。

トオルは気づくより早く、背後からの衝撃で吹き飛ばされた。肩が裂け、血が舞う。意識が朦朧とする中、彼の耳に──かすかな声が届いた。

「トオル……!」

それは、アオイの声だった。

震える声。か細いが、確かに“彼女”の声だった。その一言が、トオルの中に残された力を呼び覚ました。


(ここで終われない。ここで……終わらせてたまるか!)

トオルは立ち上がり、銃を握る手を強く締め直した。

「……今度こそ、守る。俺は、お前を守るためにここに来たんだ!!」

再び跳びかかってくるゴウダに向けて、トオルとカグツチは共に飛び込んだ。


──炎熱が空間を歪ませる。

赤黒い壁に囲まれたVIPルーム。異様な静寂と蒸気のような緊張感が満ちていた。その中心にいたのは、鋼のような腕に複数の義体を融合させた怪物。鬼のボス──「クラン=ゴウダ」。その姿はもはや人間の域を超えていた。かつて政治家だったという面影はなく、欲望と暴力に塗れた廃棄物のような存在。だが彼の目は未だに獲物を狩る獣のそれで、燃えるようにギラついていた。

アオイは、奴隷のような布切れの衣装のまま部屋の片隅で膝を抱えていた。その目は焦点を失い、瞳孔は感情の欠片すら読み取れないほど深く沈んでいた。だが、かすかに震えるその指先は、心の奥底で何かが必死に抗っている証だった。

「……ッ!」

トオルが、クランに一歩踏み出した瞬間だった。

「ようこそ、“NOVAの亡者ども”よ。待ちくたびれたぞ」

クランの声は醜く歪んでいた。濁った金属音のような喉声が、部屋中に嫌悪感を撒き散らす。彼の背中には、複数のコードが突き刺さり、血肉と機械が融合していた。脊髄を走るその人工神経は、神経毒をリサイクルする逆転構造を持ち、痛覚すら強化されているという。

「アオイ……!」


トオルが駆け寄ろうとするが、その一瞬の隙を狙い、クランが義手を振りかざす。“ドガッ!”と破裂するような音。

間一髪、カグツチがトオルの腕を引き、拳が床を砕いた。

「やれやれ、さすがに無謀が過ぎるな、坊主。まずは“てめぇの役目”を思い出せ」

「……すまない。ありがとう」

トオルは深呼吸をした。この時の彼の目には、数週間前の訓練で培った鋭さと、確かな意志が宿っていた。

「ユウナギ、遮断は完了してるか?」

「当たり前だ。監視カメラは全てダミー映像に差し替え済み。通信も切断した。あとは……奴を沈めるだけだ」

ユウナギがサングラス越しに睨みつける。

クランはゆっくりと立ち上がる。背中のコードが地面を引きずり、床に火花を散らした。

「フン。三匹の雑魚風情が、“地獄の王”に何ができる?」

「だったら──」

トオルが懐から、NOVA製のコンパクトハンドガンを引き抜く。一瞬の間に接近し、スライディングしながら膝を狙い撃つ!

「──まずは膝を折るだけだッ!」

銃弾が放たれる瞬間、クランの目が開く。──まさか、と言わんばかりに。

命中。義足の膝関節部に直接弾丸が貫通し、スパークを散らす。

「ぐぅあああああっ……!」

「次は肩だ!」

トオルの動きは俊敏だった。

アオイとの格闘、トレーニング、ユウナギの模擬戦訓練──それらすべてが、彼の筋肉に染み込んでいた。格闘術に空手の重心操作を織り交ぜ、銃撃と柔道的な投げを組み合わせた奇襲。決して派手ではない。だが、戦場で生き抜くための“実践の動き”だった。

──ドン! ドン!

肩関節にもう一発。クランの義手がギィギィと音を立て始める。

「ふん……面白ェ……なら、こっちも“鬼骸きがいモード”に入ってやるよォ!」

その瞬間、彼の背中のコードが一斉に伸び、天井のホロ制御ユニットと接続。部屋全体が脈打ち始めた。壁が赤く、天井が波打つように光を発する。

「なんなんだよ……この空間……!」

ユウナギが驚愕の声を漏らす。これは、クラン自身が構築した擬似戦場“鬼骸領域”。

そこでは五感すべてが“痛み”に特化され、戦う者は通常の倍の苦痛を感じる。

「くそっ、これじゃあ奴のホームだ……!」

「構うなッ! 行くぞ!」

カグツチが飛び出す。巨大なナックルガンで突進し、クランの義体に一撃を叩き込む。

──ゴゴッ!!

爆音が室内を満たす。だが、クランは怯まない。むしろ嬉々としていた。

「ヒャハハハッ!痛みが……気持ちいいぜええええ!!」

「変態が……ッ!」

三人はそれぞれの武器で交互に攻撃を仕掛ける。ユウナギは空間ジャックで天井の電力を逆流させ、短時間の麻痺を発生させる。トオルは隙を見つけて足を狙い続け、カグツチは真正面からの火力で押し切ろうとする。

──だが。

「終わりだッ!!」

クランが突如、自らの背中にある一本のコードを“自壊”させる。

「……まさか、自分の神経を焼いて……!」

「これで痛みも、限界も、全部飛ばせる──鬼骸最終式“喰脊しょくせき”だッ!!」

その瞬間、クランの肉体は一瞬にして倍以上に膨れ、義体が異常融合し始めた。

「う、嘘だろ……!」

トオルが絶句する。その姿はもはや“鬼”というより、悪夢そのものだった。

クラン=ゴウダの身体は異形に膨れ上がり、もはや人型とは呼べない怪物となっていた。金属の鎧を纏った肉塊。破裂寸前の静脈のようなコードが彼の全身を覆い、脈打つたびに毒々しい音を発している。

「……これが、喰脊しょくせき状態……!」

ユウナギが一歩引く。電磁波に揺れる空間の中、センサーが軒並み狂っていた。

熱、圧力、視界、すべてが歪んでいる。

「さぁ……誰から喰らってやろうか……?」

クランの口が裂けた。次の瞬間、彼の巨腕がトオルを狙って振り下ろされた。

「来いよ……!」

トオルはステップを踏んで交わし、銃を斜めに構えながら、滑るように距離を取る。敵の力は圧倒的だ。それでも、アオイを目の前にして後退るわけにはいかない。

「カグツチ、今だ!」

「──任せろッ!」

カグツチが一直線に走る。拳に溜めた火力を最大にまで高め、熱量で周囲の空気が震え始めた。

「NOVA特製・破砕拳グランブレイカーッ!!」

叫びと共に、クランの胸部へ直撃。

──ドグォッ!!!

装甲が割れ、火花が炸裂。クランの身体が僅かに仰け反る。

「効いてる……!」

しかしその直後だった。

「……効いてねぇよ」

クランの目がカグツチを捉えていた。そして──左腕の義肢がカグツチの腹部を貫いた。

「……あ、が……?」

一瞬、何が起きたのか、誰も理解できなかった。

「カグツチ!!」

トオルが叫ぶ。ユウナギも制止しようと手を伸ばした。だが、すでにクランは彼を掴んで、壁へと叩きつけた。

「──ッが……!」

血が噴き出す。装甲が砕け、カグツチの体が沈んだ。

「……ま、さか……」

トオルの視界が揺れる。耳鳴りがする。仲間が、自分の目の前で──死んだ。

「カグツチぃぃぃッ!!」

衝動が、身体を突き動かす。怒りが胸を焼き尽くし、頭の中が真っ白になる。


──殺す。こいつを、殺す。


思考は単純化され、意識が戦闘モードへ完全に切り替わる。アオイのことも、ユウナギの声も、全てが遠くなる。

「トオル、待てッ!お前まで……!」

「殺す……!」

拳を握り、突進する。敵の攻撃など関係ない。もう、どうでもいい。この怪物を、この地獄を、この街を、すべて終わらせなければ──。

「おい……落ち着け……!」

ユウナギの声も届かない。そのときだった。

「──やめて、トオル……」

弱々しい声が響いた。

トオルの身体が硬直する。視線の先──そこに、アオイが立っていた。

震える脚で、血に濡れた床を歩き、トオルの前に出る。

「アオイ……?」

「お願い……あなたが……あなただけは、殺しちゃだめ……」

その瞳には、確かに光が戻っていた。虚ろだった表情は、今や強い意志を帯びている。

「アイツを殺せば、あなたも“地獄の住人”になる……」

「……でも、アイツは……!」

「わかってる。それでも──あたしは、あなたに地獄を見せたくない」

アオイはトオルの手に触れた。その温度が、彼の怒りを鎮めていく。

「アオイ……」

「……これは、あたしの“地獄”だから」

そう言って、彼女はクランに向き直る。その視線はもう、かつての被害者ではない。

「クラン=ゴウダ。あなたに“死”は与えない」

「……あ?」

「あなたには、“生きたまま焼かれる地獄”を与える」

そう言って、彼女は腰の通信装置に指を伸ばす。操作コードを打ち込み、遮断していた回線を一点突破で開放した。

「ユウナギ、コードD-7を。奴の義体中枢、外部接続をジャックして」

「……了解。お前、まさか……」

「やるの。あたしの手で──“奴隷を生み出す装置”を、終わらせる」

ユウナギの指がキーボードを走る。数秒後、クランの身体に異変が起きた。

「な、に……!? 体が……動か、な……い……ッ!」

コードが逆流を起こし、神経回路が自己崩壊を始める。

「これが……“地獄”よ」

アオイの声は静かだった。だが、凍りつくほど冷たい。

「あなたは、この部屋から出られない。五感は機能したまま、肉体は崩れ続け、永遠に意識は消えない。──あなたが作った“奴隷チップ”の改造型よ」

「ふ、ざけ……るなあああああッ!!」

クランが絶叫する。しかし、もう手も足も動かない。天井の赤い光が落ち、空間が崩壊していく。

「……トオル」

アオイがトオルの胸に倒れ込んだ。その肩は細く、かすかに震えていた。

「わたし……ようやく、言えた……あなたを……これ以上、苦しませたくなかった……」

トオルはそっと彼女を抱きしめた。

「ありがとう、アオイ……俺も、もう怒りで戦ったりしない」

二人の周囲で、崩れゆくVIPルームの瓦礫が音を立てて落ちていく。クラン=ゴウダは、その中心で、叫びを上げながら、終わらぬ苦しみに沈んでいった。

──こうして、怪物は倒れた。

だが、それは終わりではなかった。むしろ、“始まり”だった。

血と痛みの中で、ようやく手を握った二人。その道はまだ、遥かに険しく、深い闇の中へと続いていた──。

無数の火花が天井から散り、警報が薄れていく中、トオルたちはようやく地上への脱出路へとたどり着いていた。背後で、奴隷市場のメインセクターが崩壊を始めていた。

「搬送ルートはA-13。ドローンが足元を照らしてくれてる。ついて来い」

ユウナギの声が硬い。だが、どこか優しさが滲んでいた。

アオイは意識こそあるが、目を見開いたまま、一言も喋らなかった。彼女の手を握るトオルの掌に、微かな体温が残っている。


──あの時、アオイが“殺さない”ことを選ばなければ、自分はきっと、戻れなかった。


トオルは彼女の小さな肩を支えながら、静かに思った。

「……出口まであと800メートル。急ぐぞ」

通路を抜け、朽ちた金属のゲートが開かれた。NOVAの支援部隊が数名待ち構えていた。

「搬送班、用意!メディカルポッドに女性を──!」

「違う……っ」

アオイの唇が、かすかに動いた。

「私、自分の足で歩く……」

「……アオイ……」

ふらつきながらも、アオイは自力で立った。裸足の足が、冷たい金属の床を踏みしめる。

「……私は、ここで終わらない……」

声は弱い。だが、その芯には、誰にも折れぬ炎があった。それを見て、トオルは心から思った。

──やはり、彼女は希望そのものだ。


拠点に戻ったのは夜明け前だった。東の空が灰色に染まり、シブヤの街が息を吹き返し始めていた。

NOVAのメンバーたちは、無言で頭を下げた。誰もが、失った仲間──カグツチのことを思っていた。

小さな礼拝室に、彼の義手と残されたIDタグが置かれた。アオイはそれを前にして、深く膝をついた。

「……最後に、わたしを守ってくれた……知らなかったのに……本当のこと、全部……」

涙は出なかった。ただ、胸が裂けるように痛かった。

「彼は……きっと、アオイのことを、最初から分かってた」

トオルが傍に立ち、そっと言葉を添えた。

アオイは小さくうなずいた。

「わたし……いつか、答えを見つけなきゃね……」

「その時は、俺も一緒に行く」

「……ありがとう」

夜が完全に明け、陽の光が差し始めた。

高層のネオンが色を失い、サイバーな世界が一瞬だけ、静けさを取り戻す。



数日後。

NOVAの中央タワー、戦略会議室。アオイは新たなレジスタンスの代表として、会見の場に立っていた。

「──私たちは、支配から解き放たれるために戦います」

「奪われた者たちを、見捨てない」

「そのために、私は“ここにいる”ことを選びました」

彼女のスピーチは、全てを失った者たちにとって、光だった。

そして──その背後には、いつも一人の男の影があった。


トオル。かつて記憶を持たなかった青年は、いま確かに「目的」を得ていた。

彼女を守ること。そして、自分の中に眠る“過去”と向き合うこと。

その夜、NOVAの塔の屋上。都市のネオンがぼんやりと瞬き、遠くで小型ドローンが夜空を巡っていた。

アオイとトオルは並んで座っていた。会話は少なかったが、それでも十分だった。

「……ねえ、トオル」

「ん?」

「あなたがいてくれて、本当によかった」

「……俺もだよ、アオイ」

しばしの沈黙のあと、アオイがぽつりと呟いた。

「もし、あの時……あのままあなたが怒りに飲まれてたら、きっと私は──今ここにいなかった」

トオルは静かに頷いた。

「でも、お前が止めてくれた。あの声が、俺を救ったんだ」

風が吹いた。アオイの髪が宙を舞い、ネオンの光を一瞬だけ遮った。

「……じゃあ、これからは、私があなたの“声”になる」

「声?」

「忘れそうになったとき。怒りや悲しみに負けそうになったとき……わたしが、あなたを呼び止めるよ」

トオルは少し驚いたように彼女を見たが、やがて微笑み、うなずいた。

「……なら俺は、お前の“盾”でいるよ」

「盾?」

「たとえどんな敵が来ても、絶対にお前の前で倒れる。それだけは譲らない」

アオイは、わずかに笑った。そして、そっと彼の肩に頭を預けた。

「……あったかいね」

「そうか?」

「うん……ちゃんと、生きてる」

その言葉に、トオルは目を閉じた。かつて“機械から生まれた”と信じていた自分。記憶も過去もなかった男。

だが今は違う。守りたい人がいる。生きる理由がある。

──だから、生きていく。この荒廃した都市で。誰かが再び、地獄に落ちないために。



その日から、レジスタンス“第二章”が始まった。アオイは指揮官として、トオルは彼女の右腕として、再び混沌へと立ち向かっていく。

まだ答えは出ていない。記憶も、謎も、すべてが明かされたわけではない。だが、たしかに希望が芽吹いた。

たとえそれが、小さな光でも。いつか、この街全体を照らす炎となるだろう──。

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