第8章:奴隷市場(前編)
かつての自分の記憶を求め、アオイはたどり着いてしまった。──奴隷市場。
それは都市の下層、グリッド・ゾーンのさらに深層、「虚圧」と呼ばれる空間の奥にひっそりと、だが確かに存在していた。地図には載っていない。だが、確かに「息づいて」いた。それは“鬼”と呼ばれる存在たちが支配する、生きたまま人を売る歪んだ取引所。人間は肉と快楽のパッケージとして値付けされ、思考を奪われ、感情をプログラムで上書きされる。
この空間に足を踏み入れた瞬間、アオイの心はざわめいた。喉の奥が焼けるように乾き、脳の奥から何かが疼いた。──忘れていた痛み。
忘れさせられていた記憶の残滓。いや、記憶そのものだった。
「……ここ……私……ここにいた……」
呟いた声に応えるものはなかった。だが、背後から、確かに“視線”があった。
「……はじめましてじゃないよなァ」
声は低く、粘りつくような重低音だった。現れたのは、一人の男。いや、“ヒト”の姿を模した異形の存在だった。右腕は鉄製の義肢。顔の半分は焼け爛れた肉と機械。目は赤く発光し、歯は異様なまでに長い。
「ようやく戻ってきたな。No.87番」
「……なにを……」
「戻ってきたのはお前の“意志”か?それともチップの“命令”か?」
その言葉と共に、アオイの視界が歪む。
────記憶の扉が、強制的に開かれた。
血の匂い。泣き叫ぶ声。皮膚に刻まれたコードと、その痛み。背中に刺されたシグナル注射。従順プログラム。快楽応答チップ。
アオイの身体が反応した。震え、吐き気を催し、視界が滲む。
「やめ……やめろッ……!」
「もう遅い。お前の中の“奴隷コード”はここで再起動された。お前が逃れようとしていた記憶と“本当の過去”が、お前を喰い始めてる」
彼──鬼は嗤った。
アオイの左肩が灼けるように熱くなり、焼印の認識コードが浮かび上がる。
“市場コード:β-87 / 商品名:AOI / 快楽応答設定済 / 反抗制御レベルC”
「……そう、お前はただの“製品”だ。NOVA?レジスタンス?笑わせるなよ。元はと言えば、企業の“お漏らし”だろうが。商品が逃げ出して、なにが反乱だよ」
「私は……もう、違う……」
「違わねぇよ。刻まれたコードは消せねぇ。“所有者”が現れた瞬間、お前は従うように作られてんだ」
男が義手を持ち上げる。コード読取機が起動する。
「このIDで、もう一度お前を“登録”しなおしてやる。再起動だ。お前は商品に戻るんだよ」
「やめろ……ッ」
アオイの全身に、ビリビリとした制御信号が走った。
足が動かない。口が開かない。目も閉じられない。奴隷チップが作動を始めた。
彼女の“自由意思”は、再び消されようとしていた──。
⸻燃え尽きたような静寂が、シェルター内部に満ちていた。戦闘訓練を終えたばかりのトオルは、まだ手のひらに残る銃の感触を握りしめながら、薄暗い訓練室のベンチに腰を下ろしていた。重い息を整えながら、隣に立つユウナギと目を合わせる。義手の男は、静かに頷いた。
「お前はもう、戦える」
その言葉が、どこか現実離れして聞こえるのは、心の奥でまだ自信を持てていない証拠だった。
「だけどな、これは訓練だ。本番は、もっと汚くて、もっと不条理だ。忘れんなよ」
ユウナギの声は低く、鋭い。その後ろから、金属音とともに重い扉が開いた。姿を現したのは、カグツチだった。いつもと変わらない鋭い目付き。しかし、その表情にはわずかに沈痛な影が宿っていた。
「アオイの行方が判明した。場所は……奴隷市場だ。鬼どもの温床だな」
その場に立つ三人の空気が、一瞬で張り詰めた。誰もが聞いたことのある地獄の名。それは、ただの取引所ではない。生きた人間の尊厳を、貨幣よりも下に見る者たちが蠢く、悪意の坩堝だった。
「予想通り……いや、それ以上に最悪な場所だな」
ユウナギは小さく舌打ちしながら、オレンジ色のゴーグルを額に押し上げた。
「警備は密、スキャンも厳重。出入り口は二つしかない上、内部には複数の検問がある。更にアオイの認識IDが現在のオーナーにより暗号化されている」
「つまり、彼女の位置を正確に突き止めるには、内部システムに潜り込む必要があるってことだな」
トオルが声を出すと、ユウナギは頷いた。
「俺が情報制御センターに潜入して、認識IDを割り出す。お前とカグツチは内部の構造を調べ、武装を現地調達しろ。おそらく武器の持ち込みは禁止されているからな」
「……了解」
トオルは小さく頷くが、胸の内には焦りと怒りが渦巻いていた。
アオイが、あのアオイが、よりによってそんな場所に──。一瞬、前に見た彼女の笑顔が脳裏をよぎる。
そして、次に浮かぶのは、記憶の墓から這い上がろうとする彼女の苦しむ姿だった。
「作戦実行は48時間後。それまでに物資、データ、侵入口、すべて洗い出すぞ」
カグツチの言葉に、全員が無言で頷いた。
⸻
その夜、作戦室には僅かな照明しか灯っていなかった。壁に設置されたホログラフマップに、ユウナギが情報を描き込んでいく。カグツチは武器設計図をチェックし、トオルは自分の装備品を一つずつ点検していた。
「……俺さ、こんなに必死になれるなんて、思ってなかったんだ」
トオルの呟きに、誰も答えなかった。だが、それが誰に向けた言葉なのかは分かっていた。彼にとって、アオイはただの仲間ではない。生きる理由の一つだ。それは今のトオルの目に、はっきりと宿っていた。
「悪いが今回は、冷静でいられる自信がねぇ」
「それでいい。怒りは刃だ。だが、お前の刃はまだ鈍い。だからこそ俺とユウナギがいる。無茶だけはするな」
カグツチの声には、厳しさと僅かな優しさが混じっていた。
「それと……今回の作戦には“例外”がある」
「例外?」
「奴隷市場の奥には、“ヴィジランス・レイヤー”っていうVIP用の別フロアがある。一般では入れねぇ。だが、そこにアオイが連れて行かれた可能性が高い」
「何があるんだ、そこには……」
「鬼のボス。名は《クラン=ゴウダ》。奴らの王のような存在だ」
クラン=ゴウダ――。その名に、トオルの背筋が冷たくなった。
「過去、無数の女性が彼の手で壊された。しかもただの暴力じゃねぇ。人格すら削り取るような……」
言葉を濁したカグツチに、トオルは唇を噛みしめながら拳を握る。怒りが、憎悪が、己の中で燃え盛っていた。この男だけは、絶対に許さない。
彼女をそんな地獄に置いたまま、何もできないなんて──もう二度と。
⸻
翌日、3人はそれぞれの分担に分かれて準備を開始した。ユウナギはネットワーク潜入のためのツールを作成し、脳神経リンク型のハッキングデバイスを調整する。トオルはカグツチと共に、周辺の下層ルートやトンネル網を調査し、最も発見されにくい潜入ルートを選定した。
「……ここだな。元はインフラの通気ダクト。今は誰も使っちゃいねぇ。排熱も止まってるから、人が通れる」
「狭いな……通れるか?」
「お前が言うな。俺のほうがデカイんだ」
カグツチの軽口に、少しだけトオルは笑った。
「お前の笑顔、久しぶりに見たな」
そう言って背中を叩かれると、トオルは無言で頷いた。
⸻
夜が来る頃には、全ての準備が整っていた。作戦実行は明朝。トオルは一人、シェルターの片隅で膝を抱えていた。
脳裏には、アオイの声が、笑顔が、必死に守ろうとした言葉が繰り返し響いていた。
「必ず、助ける。……絶対に」
その言葉は、誓いだった。誰にも聞こえない、魂からの叫びだった。
そして朝が来る。
トオル、ユウナギ、カグツチの3人は、夜明け前の都市を背に、地獄への扉へと向かう。
意識の縁が、ぼんやりと滲んでいる。目を開けることも、声を出すこともできなかった。
ただ、体の奥底に、焼けつくような寒さと重さが沈んでいるのを感じる。
──ここはどこ? 私……何をされてるの……?
問いは宙に浮かぶだけで、答えは返ってこない。
光のない天井。鉄臭い空気。
微かな機械音だけが、時間の経過を知らせていた。
身体が縛られている。足も、手首も、何か硬いベルトのようなもので固定されていた。喉が焼けて痛い。泣いたのか叫んだのか、それすら思い出せない。目を開けると、白い天井に青いライトが点滅していた。無機質な、それでいて人の感情を試すような光。
──ここは“商品保管室”と呼ばれる場所だった。
ヴィジランス・レイヤー。奴隷市場の最深部。それは「売る」ための場所ではない。「壊す」ための部屋だった。買い手の気まぐれで命や心が
削がれ、人格を捨てた“道具”として完成させるための、最後の工程。
「……また、壊れかけてるな」
低く、感情のない男の声が頭の近くから聞こえた。すぐ近くに誰かが立っている。アオイは反射的に顔を背けたが、それすら叶わない。
首の自由もなかった。金属製の拘束具が、それを阻んでいた。
「クラン様の命令だ。次の“調律”は今夜。いい加減に順応しろよ。でなきゃ本当に壊れる」
カツン、と金属音を立ててその男は去っていった。残ったのは、音もなく回る冷却ファンの音だけ。
──“調律”。そう呼ばれていた。
身体の感覚を鈍らせ、苦痛と快楽の区別を曖昧にする薬物。それに加えて人格安定化装置と呼ばれる神経抑制のパルス照射。
何度も、それを受けた。けれど、アオイの中の何かは、まだ“壊れて”いなかった。
「……トオル……」
かすれた声が、唇の端から漏れた。その名前だけは、忘れないようにと自分に言い聞かせ続けていた。
いつか、誰かが自分を思い出してくれるように。
いつか、自分が自分である証を保てるように。
あの日、記憶が戻りかけた瞬間の光景。NOVAの基地で、トオルが差し出してくれた手。
銃撃戦の中、庇ってくれた彼の声。抱きしめてくれた、あの温度。
「……ごめんね、私……勝手に、行って……」
自分を責めていた。彼に何も言わず、ここに来たこと。
無謀な希望を抱いて、過去と向き合おうとしたこと。でも、それは“誰か”のために必要だった。かつての自分に、ケリをつけるために──。
「……彼女は、完全には壊れていません」
声が聞こえたのは、遠くの観察室からだった。ガラス越しにこちらを監視する白衣の男たち。その中央に、クラン=ゴウダがいた。
「記憶遮断チップが効いてない。旧記憶が逆流している。しかも、未分類領域の意識を活性化させているようです」
「面白いな。さすがは“あの開発者”の血筋……か」
クランは指先でアオイの映像をなぞる。その瞳には、嘲笑でも憐憫でもない、冷酷な好奇心だけが宿っていた。
「このまま“調律”を繰り返しても、逆効果かもしれません。拒絶反応が限界です。最悪の場合、精神崩壊のリスクも」
「構わん。今夜が最後だ。奴隷としての仕上げは、俺が直々にやる」
そう言ってクランは観察室を出ていく。その足音が、まるで死刑執行人の歩みのように、遠ざかっていった。
夜が来た。拘束は解かれたが、それは自由の証ではなかった。連行されるための準備だった。裸足の足が、冷たい金属の床に沈んでいく。
アオイは夢のような意識のまま、二人の男に腕を引かれて歩かされていた。首輪の重さ。鎖の感触。何もかもが現実でありながら、どこか夢のように遠い。
「今夜、最後の“調律”。クラン様直々にだ。よかったな、“名誉”だぞ」
その言葉が何を意味するか、アオイはもう知っていた。壊すこと。それが、名誉と呼ばれる場所の正体だった。
目の前に、金属製の扉が見えた。その向こうが、最奥部。クランの私室。扉が開けば、きっと、二度と戻れない。
──でも、それでも私は。
アオイの視線が、一点を見据える。
──まだ、覚えてる。あなたの声を、手の温度を、あの夜の決意を。
たとえ心が壊れても。記憶が消されても。“あの人”を忘れない限り、私は私でいられる。
金属の扉が、低く重い音を立てて開いた。アオイは、ゆっくりと、静かに足を踏み入れた。地獄の最奥。その扉が、閉じる。
黒い空の下、廃ビル群が影を落とす。その先にある“鬼の巣窟”──かつて企業連合が秘密裏に運営していた地下商業施設「ユニオン・デプス」。
いまやそこは、裏市場と化し、欲望と暴力が支配する無法地帯だった。
「……ここが入口か」
ユウナギが手首の小型端末を軽く操作すると、暗闇の中に薄く青いホログラムが浮かび上がった。地下に潜る昇降機。無音で、静かに開く鉄の扉。
「アオイがここにいるんだな」
トオルの声には、焦りと怒りが滲んでいた。過去のフラッシュバックが脳裏をよぎるたび、彼の拳は無意識に握られていた。
「確証はないが、俺の端末が拾った電波署名は間違いなく“奴隷識別チップ”由来のものだ」
ユウナギが低く呟いた。「階層は第−8ブロック。V.I.P区画の中でも最も保護されたルートだ。……厄介な場所だが、行くしかない」
「護衛の密度も高いだろう」
カグツチの声は落ち着いていたが、その目は油断なく光っていた。
「今回は三人で二手に分かれる。ユウナギ、お前はコントロール・センターへ。トオルと俺は現地調達の武装と、最短ルートの確保だ」
「了解」
ユウナギが一瞬だけ目を閉じた。そして、昇降機へと足を踏み入れる。
「やるぞ。アオイを取り戻す。どんな地獄の底からでも、だ」
昇降機が静かに降下を始めた。
ユニオン・デプスは、今や腐臭とオイルの混じった空間。元々は企業向けの物流管理施設だったが、今では多国籍の裏取引、臓器・薬物・奴隷など、あらゆる“非合法”がこの地下街で交差していた。電子看板がネオンのように明滅し、廃れた店舗には異国語が交じる客引きの声が絶えなかった。
「ここじゃ……人間も、ただの“商品”なんだな」
トオルが低く呟いた。歯を食いしばる音が聞こえるほどだ。
「情に飲まれるな、トオル。ここで必要なのは冷静な判断と“迷いのない行動”だ」
カグツチの声が鋭く響く。
「わかってます。でも……」
トオルの拳が震えた。「アオイが……もしもう、心まで壊されてたら……」
「取り戻せ。何度でもだ」
カグツチの言葉は冷たくも温かかった。
「失った心なら、再び取り戻す。もし壊されたのなら、お前が支えてやれ。それができるのは、お前だけだろう」
トオルは深く息を吸い、頷いた。
二人は身を低くしながら、廃墟の隙間から武器マーケットへと侵入した。そこは、闇武器の即席市場。テーブルに並ぶパーツや銃器は、血の匂いを纏っていた。
「これが使えるな」
カグツチが分解状態のパルス・サプレッサーライフルを手に取り、素早く組み上げた。トオルは隣で、ナノフィラメントナイフとスタンガンを拾い上げた。
「……これも訓練でやった通りだ」
目を閉じて、銃の感触を確認する。拳銃の滑り、トリガーの重さ、射線の癖。アオイとの訓練の日々が、指先に刻まれていた。そのとき、通信が入った。
《ユウナギだ。IDの照合に成功した。アオイの識別コード:“E0-47-NZ”。場所は第−8区画、V.I.Pルーム“D9”──》
「D9……」
カグツチが低く呻いた。
「何か問題が?」とトオル。
「ああ。“D9”は鬼のボス、クラン=ゴウダの私室だ。奴が所有する“商品”は誰にも触れられない。触れた者はその場で処刑される」
「そんな場所にアオイが……」
トオルの目が怒りで燃え上がった。
《ルートを送信した。俺は監視カメラとセンサーのネットワークに侵入して、干渉を始める。お前たちはD9へ向かえ》
ユウナギの声に、二人は頷いた。
「──行くぞ。地獄の底からでも連れ戻す」
裏通路を這うように進みながら、トオルとカグツチは監視カメラの死角を渡っていった。
ユウナギが先回りしてシステムを書き換え、監視AIの視界を遮断しているのだ。
D9に近づくにつれ、空気はさらに腐敗していた。酔いそうなほどの香水の匂い。わざと汚れたソファや、獣の皮を剥いだ装飾。
「……ここが“VIP”かよ」
トオルの声には殺気すらあった。
やがて、V.I.Pゾーン入り口。そこには二人の護衛兵が立ちはだかっていた。
「奴らは静かに倒す。音を出せば、一瞬で全方位から増援が来る」
カグツチが静かに言った。
「わかってます。訓練通り、やります」
トオルは深呼吸し、ナイフを手にした。
──次の瞬間、二人は同時に動いた。
カグツチが正面から不意を突き、喉元へナイフを突き立てる。トオルは背後に回り、素早く気道を潰して黙らせる。
息をつく暇もなく、二人はそのまま通路奥の隔壁へ向かって走った。
D9。クランの私室。その扉の前に立った瞬間、トオルは一瞬、呼吸を止めた。
「アオイ……待っててくれ」
彼の手が、ドアロックに触れた。ユウナギから送られた解除コードを入力する。赤かったランプが、緑に変わる。
ゆっくりと、静かに、扉が開いた──