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第7章:影の記憶、炎の選択――序章:戦いの胎動

目を覚ましたとき、空気は乾いていた。地下の拠点に満ちていた湿り気が、今日はなぜか薄れている。

「……傷は癒えてきた?」

訓練室の扉が開くと、蒸気のような空気とともに、アオイの声が響いた。彼女は、黒い

インナーにカーキの上着、そして腰には電磁式のスタンガンと自動拳銃を携えている。その目はどこか、いつもの無機質さを帯びていながらも、少しだけ柔らかさを含んでいた。

「まぁな。でも、まだ動かすと疼く」

「それでも、今日から。……“戦術訓練”に入るよ」

無機質な照明が照らすその空間は、旧時代の地下駐車場を改造したNOVAの訓練施設だった。床には血と汗の痕が滲み、壁際には武器ラックと電子パネルが並ぶ。

「戦術訓練……って、何から始めるんだ?」

トオルがそう問うと、アオイは無言で壁に備え付けられたロッカーから一つのヘルメットと、簡易アーマーを取り出した。

「装備して、まずは“立ち回り”からだ。生き残るためには、動き方を知ること。撃つことの前に、死なない術を学ぶこと」


【一日目:基礎訓練】

「構えが甘い!それじゃ、すぐ脚を撃たれるよ!」

「くっ……言われなくても分かってる……!」

電気ショック弾がトオルの脇をかすめた。訓練用のドローンが飛び交い、非殺傷弾が次々に射出される。

アオイはその横で、正確な動きで敵機を制圧していく。身体が流れるように動く。彼女の姿は、まるで戦うために生まれてきたかのようだった。

「まず“視線”を見ろ!相手がどこを狙ってるか、目の動きで読むの!」

「視線……っ!」

トオルは足を滑らせ、訓練用の緩衝マットに転がる。呼吸が乱れ、汗が目に染みた。だが、彼は諦めなかった。

(こいつらみたいに動けたら、誰かを守れるのか……?)


【二日目〜五日目:銃撃訓練】

「撃つだけなら、猿でもできる。撃ち“続ける”のが難しい」

アオイの言葉がトオルの耳に染み込む。NOVA特製の訓練マシン。自動照準補助のないAR-7型ライフル。トオルはその銃を構え、何度も標的を狙う。

「呼吸とリズムを合わせて……次、頭を狙え」

(くそ……揺れる……肩が、まだ……)

重傷を負った肩の傷は治りつつあったが、残る違和感が照準に影響していた。

「一回外したくらいで焦らない!リズムを取り戻せばいいだけ。ほら、深呼吸!」

トオルは、ようやく四回目で目標の中心を撃ち抜いた。

「ナイスショット……だけどまだ30点ね」

「うっせえ……」


【六日目〜一週間後:格闘・武術訓練】

「柔道の基本は、相手の力を利用して投げる。つまり、力任せじゃない。流れを“読む”」

カグツチ直属の教官・シノブは、トオルの胸倉を掴むと、軽々と地面に投げ飛ばした。風を切る音とともに、地面に背中が叩きつけられた瞬間、肺から空気が抜ける。

「ごほっ……げほっ……ッ!」

「トオル、大丈夫!?……って、やっぱり無理だったか……」

アオイが近寄るが、トオルはすぐに起き上がる。

「まだだ……何度でも来い!」

――彼の中には、不思議な衝動があった。死の間際に感じた“あの火花”が、彼の中でまだ燻っていた。

【訓練最終日:連携戦術・模擬戦】

「ターゲット:擬似ドローン12体、進行ルートB。補足後、制圧せよ!」

トオルとアオイは二人一組で、模擬戦に挑んだ。アオイは素早く敵ドローンの側面へと回り込み、トオルはそれを囮に中央から撃ち込む。

「今だ!左から来る、撃って!」

「わかってるッ!」

電撃音とともに、最後のドローンが崩れ落ちる。汗だくのトオルが荒く息を吐くと、アオイがそっと隣で微笑んだ。

「初めての合格点。おめでとう」

「……マジか。俺、やったのか……?」

「うん、合格。……生き延びる権利、獲得ってところかな」

その夜、トオルは久しぶりに“夢を見なかった”。

夜の静寂が、まるで誰かの息遣いのように、部屋の中を支配していた。NOVAの拠点内にあるトオルの簡素な寝室。薄暗い蛍光灯が揺れ、床に影を描く。

(また……来る)

寝具に体を預けながらも、トオルは眠りにつくことをどこかで拒んでいた。それでも、疲労は残酷で、まぶたは自然と閉じていく。


──そして、世界は“あの日”に戻っていく。


暗闇。ノイズが混じった映像のような視界。足元は鋼鉄。どこかの研究施設か、冷たい空間。

《……起動確認。被験体コード:T-087、反応微弱。強化失敗──否、安定化待ち》

複数の声。白衣を着た人物たち。その一人が、トオルを覗き込みながら、冷ややかに告げた。


《所詮、廃棄対象だ。反乱因子が強すぎる。いずれ制御不能になる》

《このままコールドスリープ。起動実験は次世代群で継続しよう》


(俺は……誰だ……?)


視界が赤く染まり、警報の音が響いた。燃え盛るラボ、倒れる白衣の者たち。記憶の中の“自分”が、何かを壊している。叫び、泣いている。

「やめろ……やめろォォッ!!」

突然、背中が跳ね上がる。息が荒く、喉が焼けるほどの焦燥感。部屋の天井が見えるまで数秒かかった。

手のひらは濡れていた。汗か、あるいは涙か。どちらかは、もうわからない。

「……くそっ……」

自分は誰だ。どうして、自分だけがこの世界に取り残されたのか。シブヤの瓦礫の中から目覚めて、命を拾って、それでも“記憶の墓”からは抜け出せない。

「……俺が……俺って、いったい……なんなんだよ……」

苦しさに肩を震わせながら、トオルは膝を抱えるようにして座り込んだ。それは、彼が初めて流す静かな涙だった。

翌朝、訓練室に入ったトオルの顔色を見て、アオイはすぐに気づいた。

「……また夢を見たの?」

「……ああ。変な映像ばっかり。どこかの研究所みたいな……あと、俺……叫んでた」

アオイの手がわずかに止まり、視線が少し逸れる。

「ねえ……それ、前にも話してくれたよね。コードネーム、T-087って」

「ああ。……それだけじゃない。『反乱因子』って言葉も何度も出てくる。まるで……“俺が壊す側だった”みたいに」

「……」

アオイはしばらく無言だった。けれど、やがて小さく呟いた。

「……でも、私には、壊す人には見えないよ」

その言葉だけが、今のトオルを支えていた。


その晩、再び眠ったトオルは、同じ夢の続きに入った。

研究施設の崩壊。炎の向こう、背を向けて歩いていく白い影。それは、小さな少女のようだった。

(……誰だ、あれは……)

振り向いた少女の目は、青緑に近い、透き通った色をしていた。記憶の中のその目に、トオルの胸は何か強く締め付けられる。


──アオイ?


そこまで考えた瞬間、また世界は崩れた。


夜の闇が去り、電子掲示板の光が地下にまで差し込むころ、トオルは自分の拳を見つめていた。

「壊すために作られた存在だったとしても……俺は、守る側になりたい」

その呟きは、誰にも聞こえなかった。ただ、自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返していた。


NOVAの拠点の中庭。静寂に包まれた空間に、訓練用の木人形と、数枚の射撃的が立ち並ぶ。早朝の冷たい空気の中、アオイは一人、拳を握って立っていた。


──夜が明けても、胸の中の靄は晴れなかった。


(また……夢にうなされてた)


昨日のトオルは、訓練中もどこか浮ついていた。その理由は、もうわかっている。あの子は、毎晩のように過去に引き戻され、叫びながら目を覚ましている。

「どうして、あそこまで苦しんでるのに……私にはなにもできないんだろう」


アオイは、自分の指先を見つめた。そこには、かすかに痕の残る「奴隷チップ」の焼き印。

あれが作動すれば、彼女は自由を失い、最悪──命さえ奪われる。


“自由”──それはトオルの瞳が初めて見せた感情でもあった。


彼は最初、どこか他人の言葉で世界を見ていた。けれど、最近になってようやく、彼自身の言葉で話し、感情を吐露するようになっていた。

それが嬉しかった。だからこそ、アオイの胸にある感情は徐々に強くなっていった。


(私は……あの人に寄り添いたい)


それは“同じ痛みを知る者”として。そして、もしかしたら、それ以上の何かとして──。

だが、アオイには“それ”を証明する術がなかった。

彼女自身の過去は、奴隷時代の記憶削除プログラムによって大きく欠損していた。ぼんやりとした断片が夢の中で浮かぶことはある。研究所のような白い部屋。誰かが手を伸ばしてくれた記憶。

でも、それ以上は──霧の中。

(今のままじゃ、トオルの痛みに触れられない。彼が何者かも、どうしてあんなに苦しんでいるのかも──)

アオイは唇を噛みしめた。そして、誰にも言わずに、静かにNOVAのゲートを出る準備を始めた。

カグツチが異変に気づいたのは、その数時間後のことだった。

「……アオイの姿が見えねぇ。どこ行きやがった?」

朝の点呼に姿を現さなかったアオイ。部屋には簡素な置き手紙があった。


“私は、私自身を探しに行きます。何も言わずにごめんなさい。でも、過去から目を逸らしたまま、トオルの隣には立てないから。”


カグツチはその手紙をぐしゃっと握り潰した。

「ったく……あいつ、また勝手に動きやがって……!」

ユウナギに連絡を入れると、すでに彼女がいなくなった情報は共有されていた。

「アオイは、おそらく“奴隷市場”に向かったわ。過去を辿るなら、あそこしかない」

「……鬼の巣窟に、一人で?」

カグツチの目に怒りと焦りが混じる。

その夜。荒廃した路地裏に、アオイの小さな背中があった。

誰もいない廃墟のような通り。かつて、奴隷の売買が堂々と行われていた地下競売所──いまは、暴力と狂気の象徴である「鬼」たちの縄張りとなっている。

アオイはその空間を前に、無意識に胸元を握っていた。小さく震える指先。だが、立ち止まることはできなかった。

(ここで私は……誰かに売られた。誰かに助けられた)

断片的に蘇る記憶。あの日、自分を救った黒髪の男の腕。

彼の名は──カグツチ。

そして、その後にNOVAに引き取られ、今に至る。

(私は本当は“上”の人間だった? ネオン・レイヤーにいた……? でも、なぜ“落とされた”の?)

何かが引っかかっている。

そして、それが──トオルの記憶とも重なっている気がしてならなかった。

(私も……“壊された”んだ)

再び、心が過去の檻に閉じ込められていく感覚。だが、今回は違った。誰かを守りたいという“願い”が、胸にある限り。

(私も変わらなきゃ。今度は、私が誰かを救う番)

その強い意志とともに、アオイは足を踏み出した。奴隷市場の地下入り口へと──再び、過去と向き合うために。

彼女の姿がNOVAから消えて二日目の朝。トオルは、自分の中にぽっかりと穴が空いたような喪失感を感じていた。

「アオイ……どこに行ったんだ……」

何も告げずにいなくなった彼女。訓練場の隅で笑っていた姿が、まるで幻のようだった。

そのとき、背後から声が響いた。

「……アオイは、自分の過去を探しに行ったんだ」

振り向くと、そこにはユウナギが立っていた。オレンジ色のゴーグル越しに、鋭い目がこちらを見据えていた。

「……続きは、俺が教えてやる。──覚悟があるなら、な」


アオイが姿を消した翌朝――。

トオルは寝台の上で目を覚ますと、まだ目が完全に覚めないまま、空虚な寝室を見回した。昨日までそこにいた彼女の気配が、跡形もなく消えていた。

「……いない」

気配だけでなく、呼吸の揺らぎも、声も、足音も、何も残されていなかった。まるで初めから存在していなかったかのように、アオイはNOVAの地下本部から消えていた。


胸がざわついた。

理由はわからない。ただ、背筋を駆け上がる冷気のような直感だけがあった。

何かが、起きている――。


トオルは慌てて身支度を整えると、まだ灯りも点いていない廊下を駆けた。兵士たちは交代で警備に就いていたが、誰もアオイの姿を見ていなかった。

「情報班に伝達してくれ。アオイの行き先を調べてくれ!」

通路に設けられた端末で検索をかけるが、出入りのログには記録がない。だが、カメラログに一件だけ「開放コード」による扉開閉の痕跡があった。

「開放コードって……幹部専用の……」

行き先は、地上への旧通気路。今では使われていない、いわば裏口だ。彼女は正規ルートではなく、非合法ルートを通って姿を消したことになる。

その理由はただ一つ――誰にも知られたくなかった。

「……っ」

トオルの呼吸が浅くなる。

彼女はどこに行った? なぜ黙って? 何をしに?

考えろ。ヒントはあった。――あの夜。

アオイはあの晩、何かを決心したような目をしていた。自分の過去を、何も語らなかったあの眼差し。思い詰めたような、壊れそうな、けれど必死に笑おうとしていたあの表情――。その意味に、今さら気づいた。

「……まさか、奴隷市場……」

アオイが過去に囚われているのなら、彼女が目指す場所は一つしかない。だが、そこは今、鬼と呼ばれるシンジゲートの巣窟。自殺行為にも等しい無謀な場所。思考は恐怖と焦燥に塗りつぶされた。

だが、止まっているわけにはいかなかった。

トオルはその足で情報屋ユウナギが根城とする、ノイズ・ピットの裏区画へ向かった。

ノイズ・ピットは、相変わらず旧システムの発熱で床が微かにうねり、鉄粉と油の匂いが鼻を刺す異空間だった。電子広告の残骸、ホログラムのゴーストが浮遊し、整備されていないプロジェクタがノイズを撒き散らしていた。

奥の席――そこに座っていた男は、重厚なジャケットに身を包み、義手の金属パーツを無造作にむき出しにしていた。目元を覆うオレンジのゴーグルの奥、視線は研ぎ澄まされた鋼のようだった。

「……来ると思ってたぜ。トオル」

「アオイが、姿を消した。お前、何か知らないか?」

ユウナギは深く息を吐き、椅子の背にもたれた。右手の義手が無言でカウンターを叩き、古いデータベースのパネルが起動する。

「心当たりはある。だが……すぐには言えねぇ」

「なぜだ!」

トオルの声が反響した。

だがユウナギは怒鳴り返すこともなく、低く、静かに言った。

「お前に覚悟がねぇからだ。……まだ、な」

「覚悟……?」

「そうだ。アオイは“過去”に向き合うために消えた。だが、あそこは地獄だ。今のお前が踏み込んだところで、無惨に潰されるだけだ。俺はそれを見たくねぇ」

「……!」

ユウナギは続ける。

「二日くれ。俺が場所を突き止める。その間にお前は決めろ――自分は“誰かを救える”覚悟があるのかってことを。中途半端なら行かないほうがいい。死ぬのは簡単だが、守るには全部背負わなきゃいけねぇからな」

その言葉に、トオルは拳を握り締める。

「……二日、か」

「そうだ。その間、ちゃんと準備しとけ。鬼の縄張りだ。生半可な戦術じゃ通用しねぇ」

ユウナギは立ち上がり、トオルの肩を強く叩いた。

「いいか、トオル。これは“ミッション”じゃねぇ。“選択”だ。――お前は、彼女の手を、今度こそ掴めるか?」

トオルの胸に、静かに火が灯った。

――二日後。

トオルは再び、ノイズ・ピットの扉をくぐった。

ユウナギは無言で彼を待っていた。ゴーグル越しにトオルを見つめる視線は、あの日と変わらず厳しく、鋭い。

だが、今日は違った。トオルの背筋は真っすぐに伸び、瞳には揺るがぬ意思が宿っていた。

「来たか。……もう一度聞く。行く覚悟はあるか?」

「ああ。もう迷わない。アオイを――彼女を助ける。それが俺に課せられた役目なら、全部引き受ける」

言葉に迷いはなかった。ユウナギは、わずかに目を細めた。

「……なら、教えてやる」

義手の先が、端末を操作する。数秒の静寂の後、ノイズ混じりのマップが映し出された。

「場所は《第四セクター・アウターリング》、かつての【奴隷市場】。いまじゃ“鬼”どもの管理区域になってる。アオイが最後に確認されたのも、そこで間違いねぇ」

「……っ」

「だが、ここを拠点にしてる鬼どもは、通常のギャングじゃねぇ。シンジゲート内部でも選別された〈解体屋〉の部隊だ。行くってのは、つまり……死ぬ覚悟がいるってことだ」

「分かってる。でも、行く」

その瞬間、カラン、と扉の向こうで金属音が鳴った。

「ならば、俺も連れて行け」

現れたのは、NOVAの戦術部門所属、カグツチだった。身体の右半身は義肢で、漆黒のコートを羽織っている。生身と機械が絶妙に融合した姿は、まるで戦闘のためだけに鍛え上げられた機構のようだった。

「カグツチ……!」

「俺が行く。あそこはお前一人で行く場所じゃない。危険すぎる。……過去に俺が彼女を救ったのは、あの地獄からだった」

「……でも、今回も一緒に――」

「断る」

カグツチは冷酷なまでに言い切った。

「俺一人で行く。お前はここで待っていろ。死なせたくない奴がいるなら、なおさらだ。今のままじゃお前は足手まといにしかならん」

「……っ」

そう言い放ち、カグツチはその場を後にしようとする。

だが――。

「待ってくれ!」

トオルは叫んだ。声は震えていたが、その背後にある感情は、決意に変わっていた。

「俺は……行く。行かなきゃいけないんだ。たとえ足を引っ張ったとしても、それでも彼女を助けたいんだ」

「なぜだ?」

「……あのとき、アオイが俺を助けてくれた。俺は何もできなかった。でも、今度は違う。今度こそ、あの手を――ちゃんと、握り返すために」

短く、空気が震えた。

カグツチは黙ってトオルを見つめる。その眼差しの奥には、何か試すような、そして……どこか懐かしむようなものがあった。

「なら――俺を倒してみせろ」

「……!」

「俺を越えられなければ、連れていかん。あの地獄に入る資格はねぇ」

トオルは、息を飲んだ。だがその目に、迷いはなかった。

「分かった。やってやるさ」

ノイズ・ピットの地下、ユウナギが設けた私設訓練室。そこが舞台だった。鉄骨とコンクリートに囲まれた空間に、二人の影が向かい合う。

ユウナギは壁際に立ち、静かに見守っていた。

「手加減はしないぞ、トオル」

「それでいい」

カグツチが構えを取った。全身のセンサーが赤く点滅し、ブースターが唸りを上げる。

トオルは深く息を吸い、構える。

「行くぞ――ッ!」

最初の一手は、トオルからだった。銃を抜かず、あえて格闘戦に挑む。柔道と空手を組み合わせた訓練の成果を活かし、身を低くして踏み込む。

だが――。

「遅い!」

カグツチの義手が閃き、空気が唸る。トオルの拳は受け止められ、逆に投げ飛ばされた。床に激突。視界が歪む。

(……まだ、だ)

立ち上がる。膝が震えるが、構えは崩さない。

(アオイを……助けたい)

再び飛び込む。今度はフェイントを入れて右へ回り込むが、カグツチは完全に見切っていた。

「考えが浅い!」

鋭い膝蹴り。肋骨に突き刺さる。息が詰まる。

だが――。

「お前……成長してるな」

わずかに、表情が変わった。

(まだだ、ここからだ!)

立ち上がる。血の味が口に広がる。

だがトオルは、自分の心に芽生えている何かを感じていた。かつての“自分”にはなかったもの。迷いのない意志。揺るがぬ覚悟――。

「もう一度、来い!」

「――ッ!」

三度目の交差。

トオルは動きを読まれながらも、全力で踏み込んだ。身体は限界を超えていたが、それでも止まらなかった。その拳が、わずかにカグツチの頬をかすめる。

「……!」

静寂のあと――。

「……合格だ」

「……え?」

「今の一撃、お前は“倒すため”じゃなく、“止めるため”に打ったな」

「……っ」

「つまり、お前は“守る”覚悟を持ってるってことだ。なら、俺は止めねぇ。行こう。

アオイを――取り戻しに」

その瞬間、トオルは初めて、涙を流した。

悔しさでも、痛みでもない。胸の底から沸き起こる安堵と覚悟の涙だった。


それから数時間後。

ユウナギの手配で、潜入に必要な機材と装備がそろった。地下に眠るスキャナ妨害装置、ジャマー付きの戦闘服、そして静音式の小型火器――。

「これが、今の俺たちにできる“最高の装備”だ。……だけど結局、最後に勝つのは意志の強さだ。死ぬなよ」

ユウナギの言葉に、トオルは深く頷いた。

「行こう、カグツチ」

「――ああ。今度は、必ず助け出す」

彼らは静かに頷き合い、夜の街へと消えていった。

奴隷市場――地獄のような過去と、未来を分かつ境界線へと向かって。

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