第6章::カグツチ ―― “欠陥”と呼ばれた者たちの灯
トオルが意識を取り戻してから、数日が経っていた。深く重たい眠りの中で、彼の身体は少しずつ修復を進めていた。ミラ=コアの兵器級ドローンによって受けた傷は想像以上に深く、肩の神経接続部分は一時的にマヒしていたという。だが、NOVAの医療班は驚異的な再生医療技術と、半義肢的なナノマテリアル治療を用い、彼を歩けるまでに回復させていた。その日、アオイに誘われて、トオルはNOVAの本拠地の中枢へと向かっていた。
「ついてきて。紹介したい人がいるの」
歩くたびに、足元の鉄板が微かに軋んだ。通路は荒廃した地下鉄を改造したものらしく、天井には無数のケーブルと冷却パイプが走っていた。発電機の唸る音が、深い地下の空間に反響している。扉がひとつ、ふたつと開き、彼らはようやく目的の部屋の前に辿り着いた。
【COMMAND NODE】
アクセス制限:レベル04以上
生体認証完了――開錠。
機械音声と共に、厚い鋼鉄の扉がスライドして開いた。中にいたのは、一人の男だった。
椅子に座り、ホログラムパネルを操作していたその背中には、歳月の重みと覚悟が滲んでいた。銀灰色の髪、深い皺、左の義手――
「カグツチ。彼が、あなたを救った人よ」
トオルがその名を聞いた瞬間、心の奥に微かにざらつくような違和感が走った。カグツチはゆっくりと振り向いた。彼の瞳は鋭く、しかし温かかった。
「ようやく目を覚ましたか、“プロトタイプ001”。いや――“ハヤミ・トオル”と呼ぶべきか」
トオルの心臓が一度、大きく跳ねた。
「……その名前、どうして……」
「君は“作られた”存在ではない。いや、正確には、君は“選ばれて生まれた”。この都市が壊れかけた未来において、最後の希望として、だ」
カグツチはゆっくりと立ち上がり、棚から一枚のチップを取り出した。それは薄く、半透明の情報カードだった。
「君の父親は、ミラ=コアの研究チーフだった。私もそこで一緒に研究をしていた。そして母親は、“感情AI”を設計した最高レベルのニューラル技師だった。……だが、企業はそれを許さなかった。君の遺伝子は“反乱因子”として分類され、処分対象にされた」
「反乱因子……?」
「君の脳は、生まれながらにして“支配に抗う構造”を持っている。企業にとって、それは欠陥品だった。しかし我々にとって、それは希望だった」
トオルは、全身が震えるのを感じていた。自分が何者で、なぜ記憶がないのか。なぜ機械の中から目覚めたのか。その全てが――今、繋がり始めていた。
「君は保護された。君の母親によって。そして、機械の中に眠らされた。その記憶を封じられたまま、いつか“再起動”の時が来ることを信じて」
カグツチの手が、トオルの肩に触れた。
「君は生き延びた。あの記憶の墓から、這い上がってきた。今、その意味を知るときだ」
トオルの視界が、熱を持った。涙だった。理由もなく、言葉もなく――ただ、温かく、頬を伝って流れていた。
「……俺は……本当に……生きてて、いいのか……?」
「君は、生きなければならない。君は“破壊する者”ではなく、“変える者”として生まれた。世界を、都市を、記憶を、だ」
アオイが静かに頷いた。
「それでも前に進むなら、私はあなたの手を取る。何があっても」
沈黙が数秒、場を包み――
トオルは、小さく、しかし確かな声で言った。
「……俺は、俺を取り戻す」
***
その日の夜、NOVAの本拠にはわずかな宴が開かれた。小さなテーブルに、カップと粗末な食事が並ぶ。兵士たちは戦闘服のまま、笑顔を見せていた。
「おい、あんたが例の“コードレッド”か?冗談じゃねぇな、あんなもんが生きてたとは!」
「ターゲット保護成功ってのは、久々に聞いたぞ。アオイ、やるな」
アオイは照れたように笑いながら、カップを口に運んでいた。トオルもまた、静かに笑っていた。
もう一人ではないと――少しずつ、実感しはじめていた。だが同時に、彼の胸の奥では別の感情も芽生えていた。
“自分は兵器だった。破壊のために作られた存在だった”それを超えるには、自分自身の“意志”が必要だった。
この都市、2133年の東京。ネオンに照らされ、虚構に覆われたこの街で、自分の生きる意味を探す旅が――今、ようやく始まったのだ。
――都市の夜は、地上でも地下でも、等しく冷たかった。
NOVAの本拠の奥、静寂に包まれたメンテナンス用のドーム――そこに、トオルは一人立っていた。空調が吐き出す人工の風が、壁面の配線を微かに震わせている。先ほどまでの宴の賑わいが嘘のように、ここには誰もいなかった。
彼は、左肩を押さえた。戦闘時に撃ち抜かれた場所。治療は進んでいるが、そこにはまだ痺れが残っていた。身体よりも、もっと深く――心の奥に残る“何か”。
「……破壊と適応……」
夢の中で聞いた、あの声が耳に焼きついている。無数のケーブルに繋がれた自分。冷たく制御された実験室。あれは幻だったのか、それとも記憶の断片だったのか――わからない。だが一つ、確かに言えることがあった。
「逃げるのは、もう終わりにする」
そのとき。
「やっぱり、ここにいたんだ」
振り返ると、アオイがいた。
彼女は普段の戦闘スーツではなく、NOVAのインナーウェアのまま、上から一枚のジャケットを羽織っていた。その左肩には、今も焼き付けられたままの“認識コード”が刻まれていた。
「夢、また見たの?」
「……ああ。嫌になるくらいに、鮮明だった」
「そう」
アオイはトオルの横に並んで座り、しばらく何も言わなかった。重苦しい沈黙。だが、その空気はなぜか心地よかった。
「昔、ここに連れて来られたとき、私も同じ夢を見てたよ」
彼女の声は小さく、しかしはっきりと響いた。
「コードで売られ、快楽応答を埋められ、言葉を奪われて……誰にも、存在を認めてもらえなかった。だけど、カグツチが言ってくれたの。“君は人間だ”って」
「……」
「だから、私も変わろうと思った。自分の足で立ちたいって。あの人が言ってた。“兵器には意思がない。でも、君たちにはある”って」
アオイは自分の胸元に手を当てた。そこに、微かな鼓動があった。
「私は、“誰かの道具”じゃなく、“自分”として立ちたい。今でも時々揺らぐけど、でも……あなたと出会って、少しだけ変われた気がする」
彼女はトオルの目をまっすぐ見た。
「ありがとう」
その言葉は、意外だった。
「……俺の方こそ、だ。こんな俺を、助けてくれて」
「違う。私は“助けたい”って思ったから、助けたの。……それが、私にとって大事なことだったから」
夜の静寂がふたりを包み、時間が止まったような感覚に陥る。だが、その沈黙は――どこか、温かかった。トオルは自分の指先を見つめる。
震えていない。
誰かの命を背負うなんて、考えたこともなかった。でも今は違う。自分の存在が、誰かの希望になれるのなら。存在していいと、誰かに言ってもらえたのなら。
「……きみは。えっと、NOVAに入ってから、どれくらいになるんだ?」
「5年。……それより前は、記憶の墓よ。何があったか、断片しか残ってない。でもね、思い出すことがすべてじゃない。何を選ぶか、どう進むか――それが、今を決めるの」
「アオイ。君は……本当は、どこ出身なんだ?」
アオイは、一瞬だけ視線を逸らした。
「上層、“ネオン・レイヤー”。あんたと同じ。……でも、もう私の居場所じゃない」
「……!」
「祖父は、あの空間ネットワーク“Vシェル”を開発した主任技師。でも、私は……捨てられた。上層の光が、私の目には毒だった。だから今、ここで生きてる」
トオルの脳裏に、また一つの像が浮かぶ。高層ビルの屋上、赤いコードの閃光。誰かが、泣きながら自分を引き離そうとする姿。
アオイの言葉に、彼女の過去に――自分と重なる影を感じた。
「……きみは、強いな」
「そんなことないよ。私が強くなったのは、守りたい人ができたから」
「……」
「あなたのことよ」
トオルは、言葉を失った。アオイは照れもせずに、まっすぐに言った。その表情は決して感情的ではなく、ただひたむきで、芯の強さに満ちていた。
「だから、お願い。早く怪我を治して。次は、あんたの番よ」
「俺の……番?」
「うん。私は“助けられる側”から、“助ける側”になれた。それはあなたのおかげ。……だから次は、あなたが誰かを守って。自分自身を含めて」
トオルの視界が滲んだ。そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。俺はもう、逃げない。ここから始める。記憶の墓を超えて――」
「うん。約束だよ」
アオイは立ち上がり、トオルに手を差し出した。
「歩こう。これからの未来を、自分たちの足で」
トオルもまた立ち上がり、その手を取った。ふたりの手が重なった瞬間――地下の冷たい空間に、小さな温もりが灯った。
遠く、拠点の壁越しに聞こえるジャミング音。
ミラ=コアはまだ都市を支配している。彼らは未だ無力かもしれない。だが、確かに希望は芽生えていた。
これは、記憶を失った“兵器”の物語ではない。
これは――希望を知った“人間”の物語だ。