第5章:拠点での目覚め
暗い。いや、違う。ただ、まぶたが重いだけだった。耳鳴りのような電子音が脳をくすぐる。遠くで誰かの声がした。
「……オキロ……ナニカ……コワレテル……?」
声は雑音に混じって、誰のものとも分からない。けれど、確かに温度を感じた。次の瞬間、まぶたが震え、光が差した。
「――あ、気づいた?」
視界がまだぼやけていたが、輪郭がはっきりしてきた。蛍光灯の光、金属製の天井、壁には配線がむき出し。どこか地下鉄の廃駅を改造したような空間。そして、その視界の端にいたのは――。
「……あなたは……?」
彼女は微かに笑った。疲れきった顔なのに、どこか安心しているようだった。
「そう、私。助けた張本人だからね、ちゃんと覚えてもらわなきゃ困る。」
「というか、自己紹介がまだだったね、私はアオイ。……それが私の名前。」
彼女の声には冗談めいた軽さが混じっていたが、その瞳の奥には、戦いの火をまだ灯していた。
「ここは……どこだ?」
「NOVAの拠点。地下、旧渋谷駅跡地。ミラ=コアの監視網からは外れてる。」
「ノヴァ……」
あの名を、ユウナギから「関わるな」と言われた記憶が蘇る。
「ユウナギが……NOVAとは関わるなって……」
「ははっ、本当に言ったの? あいつ、隠しごとが苦手なのに。」
アオイは椅子に座り直し、脚を組んだ。
「でも、今なら言えるよ。彼はここのメンバーだった。潜入任務ってやつ。だから“ルール3”なんて、本当は自分を守るためのウソ。」
トオルは薄れかけた意識のなかで、彼が言っていた“ルール”の意味を改めて思い出した。
ルール3:NOVAに近づくな。
それは「遠ざけるため」の言葉だった。NOVAと接触すれば、彼の任務が破綻する。それを避けるための、ぎこちない嘘。
「ユウナギ、生きてたんだな……」
「ええ、あなたが受け取った“赤コード”──それがきっかけだった。私たち、ずっと待ってた。あれを送る機会をね。」
「赤コード……」
トオルの中に、あの断片的な記憶がまたフラッシュバックする。逃げ惑う街。自分を見つめる冷たい目。赤く染まる液晶の警告。
(記憶の墓……)
「……ありがとう。助けてくれて。」
トオルがそう言ったとき、アオイの表情が僅かに揺れた。
「礼ならいいよ。それより、まずは休むこと。身体、まだ治ってないから。」
「でも……、なんで……」
「助けたのか、って?」
アオイは立ち上がり、ゆっくりと近づいた。
「あなたのこと、私はまだ知らない。でも、あなたの中に“何か”があるって分かった。だから見捨てなかった。……それだけ。」
その“何か”が、何か。トオル自身も、まだ分からない。
そのとき、拠点の奥から聞き慣れた声が響いた。
「おう、やっと起きたか。寝すぎなんだよ、まったく。」
ユウナギだった。傷だらけのジャケット、煤けた義手、だが、あのオレンジゴーグルの男はいつも通りの皮肉屋だった。
「ユウナギ……」
「おいおい、そんな目で見んなよ。俺だって命懸けで動いてたんだ。コードレッドってのは、な……やっぱ、ほんとなのか。」
彼はトオルのベッドの横に腰を下ろすと、小さなガジェットをポケットから取り出した。
「ほら、あんたのIDスキャンと一致したコードラベル。どうやら、お前さんは“プロトタイプ”らしいな。」
トオルの背筋に冷たいものが走る。
「……プロトタイプ?」
「そう、企業が極秘裏に進めていた“対適応兵器”の試作体。脳に制限レイヤーが敷かれていて、一定以上の記憶や感情領域を越えると発火するらしい。」
アオイが表情を曇らせた。
「……まるで爆弾みたいじゃない」
「実際、そうだろうよ」とユウナギは呟く。「だがな、プロトタイプはただの実験体じゃない。“何か”を変えるために作られた存在だったはずだ。」
「……俺は“作られた存在”……?」
言葉にした瞬間、心臓が締めつけられるように疼いた。だが、アオイはその言葉に強く反応した。
「だったら――それが何? 私だって、誰かに“作られた存在”だったんだよ。」
その声には怒りも悲しみもなかった。ただ、静かに、事実として語られた。
「……アオイ?」
「私はね、商品だったの。あなたと同じように私は記憶を無くしてるの。前の記憶は今でも戻ってない。ここにくる前、記憶のない私は、脳に“快楽応答フィードバック”を仕込まれて、売り物として陳列されてた。」
言葉が重く、そして冷たい。トオルは口を開けなかった。どんな言葉も、無力に感じたからだ。
「救ってくれたのは、カグツチ――NOVAのリーダー。彼だけが、私を“人間”として扱ってくれた。」
彼女の左肩には、今も焼き印のような認識コードが残っていた。無理やり剥がした跡が、生々しく刻まれていた。
「ここにいるのは、そんな奴らばかりよ。“壊れた”奴、“捨てられた”奴、“作られた”奴。……でも、ここにいる全員が、生きようとしてる。」
しばらくの沈黙の後、アオイはふっと微笑んだ。
「さ、そろそろ喋りすぎたかな。少しは休まないと、また出動命令が出るかもしれないから。」
彼女はトオルの額に手を伸ばした。その指先は、驚くほど温かかった。
「……早く怪我を治して。また、地獄みたいな場所に戻るとしても、一緒にね。」
その一言を残して、彼女は静かに部屋を出ていった。トオルはベッドに横たわったまま、天井を見つめる。
暗い空間だった。でも、確かにそこには灯りがあった。彼の中で、何かが少しずつ――溶けていく音がした。
暗闇。 ――いや、それは暗闇ですらなかった。ただ、何もなかった。色も、音も、匂いも、感触も、存在しない真空のような無。
その“無”の中に、トオルは浮かんでいた。
「……君は、誰だ?」
声が響く。
どこからともなく聞こえるその声は、紛れもなく自分自身のものだった。
視界が反転し、強制的に何かが始まる。まるで記憶のテープが逆再生されるように、時が巻き戻っていく――
やがて、視界の中に「白」が満ちる。
それは病院のような、だが病的に無機質な研究施設だった。壁、天井、床、すべてが清潔すぎるほどの白に塗られ、空気は消毒薬と冷却剤の匂いが入り混じっていた。
金属製のアームが何本も天井から吊り下がり、円形のガラスドームの下には――少年が一人、ケーブルに繋がれていた。
「……これは……俺……?」
その少年の身体にはナノケーブルがいくつも刺さり、意識は朦朧としている。髪は濡れたように額に張りつき、眼球は虚ろ。数値が並ぶホログラムが身体の周囲を回り続けていた。
「プロトタイプ001、制御領域の同期率:93%。感情セクター、未実装領域にエラー。制限レイヤーに記憶を封印。人格発生は限定範囲内で抑制。」
「適応テスト開始。目標:都市環境における非暴露型潜伏任務への耐性確認。副目標:自己意識の再構築による自然覚醒プロセスの評価。」
耳に入り込むのは、機械音声と冷淡な女性の声。実験者だろうか。その口調は、あまりにも無機質で――生き物に向けたものではなかった。
「次フェーズに移行。第3抑制コード、ロード開始――」
「やめろ……!」
叫ぼうとしても、声が出ない。身体が動かない。
「俺は……人間だ……!」
だが、施設の人間たちはそうではないと告げるように――こう告げた。
「兵器だよ。君は“感情を持つには不完全な生物兵器”。存在の目的は、都市秩序を崩壊させるトリガー。君は作られた存在なんだよ。」
そして、トオルの意識はそのまま深い闇に吸い込まれていった――
***
「……ッ!! はっ……!!」
トオルは息を荒げながら、跳ね起きた。
汗が額を濡らし、肩には依然として痛みが残る。だがそれ以上に、夢で見た“自分の存在”の衝撃が全身を貫いていた。
「大丈夫……?」
その声に気づいて、彼はようやく部屋の中にもう一人、誰かがいたことを知る。アオイだった。薄暗い部屋の隅。医療用ポッドの前の椅子に座り、彼を静かに見守っていた。光の加減で、彼女の髪が淡く揺れ、緑と青の間の色がゆらいだ。
「夢を見てたみたいね。……うなされてたよ」
「……ああ。妙な夢だった。……研究施設で、俺が……なんか、コードで繋がれてて……」
「……それ、夢じゃないかもね。」
アオイはそう言って、椅子から立ち上がった。数歩、彼に近づきながら言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「この街には、“作られた人間”がいる。記憶を奪われて、目的を与えられて。自分が何者かも知らずに生きる存在。」
「……お前、知ってるのか?」
「少しだけ。でも、私も似たようなものだから」
彼女は、自らの左肩をゆっくりとめくって見せた。
そこには、焼き印のように刻まれた識別コードがあった。数字とアルファベットが混ざった、まるで商品ラベルのような刻印。
「これは、私が“商品”だった頃の名残」
「……商品?」
アオイは視線を少し伏せ、そして語り始めた。
「……私はね。昔、この街の下層で奴隷として売られてた。子どものころ、記憶がなくて……目を覚ましたときには、“シンジゲート”の奴隷商に捕まってたの」
「……」
「連中は、脳に“快楽応答フィードバック”っていう装置を埋め込むの。……自分の意思とは関係なく、快楽だけを感じるようにされて……売られていく」
その声には震えはなかった。ただ、あまりにも整然としていた。だからこそ、痛みが染みる。
「……ある日、私は売られそうになった。でも、そこをNOVAに救われた。救ってくれたのは、今のリーダー――“カグツチ”」
トオルはどこかでその名を聞いた気がしたが、思い出せなかった。
「カグツチは、もともとミラ=コアの研究主任だったの。でも、人体実験や非倫理的な研究に嫌気が差して、NOVAを立ち上げたのよ」
「私に、“ここにいていい”って言ってくれた。……初めてだった。存在を肯定されたのは」
アオイは、トオルのベッドのそばに静かに座り直し、彼の右手をそっと取った。
「……だからね。私は、この街の人間に“あなたもいていい”って言えるようになりたい。私を救ってくれたように、今度は私が……」
トオルは何も言わなかった。ただ、アオイの掌の温かさを感じながら、はじめて「人」としての感覚を思い出すような錯覚に陥っていた。
彼女は最後に、微笑みながらこう言った。
「だから、まずは……怪我を治して。ね?」
トオルはわずかに息を吐き、かすかに頷いた。そして二人の間に、ようやく「言葉にならない感情」が、静かに芽吹いていた――




