第2章:ノイズ・ピットと記憶の墓
忘れられた者、捨てられた者、逃げ出した者。身体の一部を機械に置き換えたサイボーグ、記憶を売り渡した情報難民、違法な神経ドライブに依存したジャンキーたち。腐臭とオゾンの混ざった空気が濁った人工雨に混じって降り注いでいた。
「おい、そこのボロ布。呼吸はしてるか?」
ざらついた声が耳に届いた。オレンジのゴーグル越しにこちらを覗き込む目がある。男は右手が義手で、金属が軋む音を立てて、俺の肩を叩いた。
そんな下層の路地裏で、俺は“ユウナギ”と名乗る男に拾われた。
オレンジ色のゴーグル、右腕は無骨な義手。30代手前に見えるが、その眼は生き延びることに特化した者のそれだった。
「名前、あるか?」
彼の問いに、俺はただ首を横に振った。すると、彼は俺の首元に目を留め、無言でスキャンカードを取り出す。
「記憶喪失か、じっとしろ。」
ピッ――という電子音とともに、小さな画面に名前が浮かんだ。
「“ハヤミ・トオル”……お前の名は、そうらしい。」
名を教えられても、何も思い出せなかった。ただ、その響きだけが、妙に身体に馴染んでいた。
「おい。おまえ、外から来たのか?」
「あぁ、目覚めたのは外だ」
「くくっ。おもしれぇ。いい情報を手に入れることができるかもしれねぇな」
「よし、トオル!ここじゃあなんだ。別のところで話そう。あとお前の中の記憶も蘇るかもしれねぇ!ついてこい」
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彼に連れられて入ったのは「ノイズ・ピット」という場所。廃墟同然のビルの一角に構えられた、情報の巣窟。その建物は、街のノイズに溶け込んでいた。入り口の上には「NOISE PIT」と文字が刻まれ、半分壊れたネオンがチカチカと点滅している。
雑音と電気の匂いが混ざり合うその空間には、無数の旧式端末と改造ドローン、違法電波の受信装置が雑然と並んでいた。
「改めて、俺の名前はユウナギ。ここ、ノイズ・ピットは俺の根城だ。主に情報を売ってる。情報といっても信じるか信じないかは自分次第だし、情報は生き物だ、ほんとかどうかは売ってる俺にもわからねぇ……まあ、安心しな」
古びたソファに腰を下ろすと、彼はカウンターの奥から何かを取り出した。それは細身の金属フレームに収まったヘッドギアだった。
「早速だ、お前の記憶の墓に、何が埋まってるか見てみようじゃねぇか。」
「……記憶の“墓”? “穴”じゃなくて?」
男はニヤリと笑った。
「記憶ってのは、ただ無くなるんじゃない。埋められるんだ。意図的に。誰かが、おまえにそうしたってことだ。」
「記憶、見てみたいんだろ? そしたら、これを頭に着けろ」
そう言って彼が取り出したのは、古い記憶再生用のヘッドギア。別の椅子に座らされ、それを頭に何の疑問も持たず、装着した。金属が頭に触れた瞬間、熱のような痛みが走る。装着する。
「この街じゃ、記憶喪失者は多い。だが、お前の中身は混濁してる。見る覚悟があるなら、ダイヴしろ。」
装置が稼働すると同時に、断片的な記憶が頭の奥から溢れ出した。ガラス越しの実験室、チューブに繋がれた幼児、沈黙する研究者たち。
叫び、逃走、そして――冷たいカプセルの中。
(……俺は……どこから来た……?)
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「戻ってきたか?どうだ、記憶の方は」
ユウナギが端末を覗きながら言った。顔色が、微かに険しくなっている。
首を振る。記憶はダイヴする前とあまり変わらなかった。
「思ってた通りだな。記憶の混濁。データそのものに干渉されてる」
「誰に?」
「それを知る前に、まずはこの街のことを教えとくか。混乱してるだろうからな」
「いまから少し、教えてやる。この街のことをな。」
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■ ネオン・レイヤーとミラ=コア
「まず上層“ネオン・レイヤー”――お前もこの街に来た時みたろ?真ん中にあった、でけぇビルを。それがこの都市シブヤを支配する中枢だ。
そしてそこを牛耳っているのが“ミラ=コア”。この企業が政治、警察、インフラ、バイオインターフェース、すべての権限を握ってる。」
「バイオ……インターフェース?」
「脳と機械を直結させる技術だよ。人の意識をコード化して管理する。その開発元がミラ=コアだ。」
「企業が……支配してるのか?」
「支配なんて生易しいもんじゃねえ。“統治”だ。働くことができれば一生安泰なんて言われてるが――募集もなければ、選ばれた者しか入れねえ。何もかもが謎に包まれてる。」
ユウナギは鼻で笑い、さらに言葉を続けた。
「そして、ここに来るまでにも何人かに、すれ違った警察いるだろ?」
「あぁ、いたな。そういえば、この街に入る時すごい見られていた感じがした」
「その警察もミラ=コアの犬だ。危険人物として捕まり、連れていかれたら最後、戻ってくる奴はいねぇ。警察も、その企業の手先。あいつらは正義じゃねえ。犯罪を取り締まるように見えて、その事実、利益にならないヤツを切り捨ててるだけだ。ヤツらの思いのままってやつさ。情報屋を営んでいるからいろんな情報が集まってくるが、聞くところに
よると捕まったやつは人身売買されてるって噂もあれば、人体実験に使われてるって話もある。」
俺は背筋が凍るのを感じた。
「それだけじゃねえ。警察官そのものが、元人間だって話がある。死体や連れ去った住民を一度拷問や尋問を行った上で一度殺し、企業の技術で“蘇生”させた存在。感情も倫理もない。ただの命令実行装置だ。」
「……そんな……」
「ヤツらは頭にチップを埋め込まれてる。犯罪者かどうかなんて関係ない。“企業にとって価値がある”と判断されたら、無理やり捕まえて自分たちの道具にされる。それが、
この街の“警察”の正体だ。」
「この情報もある情報筋から手に入れた情報だがな。どうしても俺も最初は信じにくかったぜ」
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■ 下層のルール
ユウナギはタバコを吸いながら、低く告げる。
「見ての通り、ここは下層。お前が見た路地裏の風景がすべてだ。壊れたホログラム、血まみれの床、ドラッグまみれの路地裏、動く死体みたいなサイボーグ……でもな、知らなきゃ死ぬ“ルール”が4つある。」
そしてユウナギは街のルールを語り始めた。
―ルール1:シンジゲート“鬼”には歯向かうな。
「シンジゲートは、この下層を牛耳る非公式組織だ。“鬼”って呼ばれてるボスがいてな……ミラ=コアから裏仕事を請け負ってるって噂もある。」
「どんな仕事を……?」
「警察がやっていることと似てはいるが、少し違う。人身売買は一緒だが、売春、臓器の取り引き、違法武装の流通。奴らの運営するバーには、借金を背負わされた女たちが“商品”として働かされてる。逃げ出そうもんなら、警察によって連れ戻される。
もちろん……戻ってはこない。こいつらも企業の犬、警察の味方ってやつだ。それもこの世界からすると身を守る唯一の方法なのかな」
―ルール2:街は自由だが、己の身は自分で守れ。
「誰も助けちゃくれねえ。この街じゃ“助け”って言葉は死語だ。生き残るか、腐るか、自分で選べ。ましてや、路地裏で這いつくばってるやつを助けようと思うなよ?助けなんてねぇ。誰も信じるな。信用すれば、背中にナイフが刺さる。そして死ぬ。そんな甘くない世界だ。」
ルール3:NOVAには近づくな。
「これは深く言わねぇ。だが覚えておけ。近づいた奴は、皆消えてる。俺の周りでも何人か消えてる。同じ情報屋でも情報を手に入れた瞬間やられた。なんて噂も情報や界隈では有名な話になってやがる」
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その時、ユウナギが端末に目をやり、顔を歪めた。
「……まずいな。トオル。お前の記憶の中に“赤コード”が記録されてた。」
「……赤コード?」
「言い忘れてた、ルール4がある。」
―ルール4:赤コードは大罪人。発見次第、報告を義務とする。
「報告すれば、褒美が出る。通報しなければ、俺の命が消える。
悪いな、情報屋ってのは正義じゃなくて“対価”で生きてる。だが、お前をやっと見つけた。ヤツらに渡すわけには行かない」
ユウナギが通信端末に短く連絡を入れた瞬間、ノイズ・ピットの扉が爆破される。
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「こちら企業警察。REDコード確認、対象の排除を開始する。」
黒光りする警察官たち――その動きは人間ではなかった。チップに支配され、命令に従って動くだけの“処刑機械”だ。
「クソ……早ぇな!ここまでかよ!逃げろ! トオル!」
「走れ……自分の墓を、掘り返せ!」
ユウナギが叫ぶ。その義手が回転し、バレルが展開された。その瞬間、俺の中に閃光が走る。胸の奥に何かが引っかかった。見たはずの記憶の断片が、電流のように駆け巡る。
(……母さん? あれは誰だ……? 俺はなぜ、作られた……?)
(……白い部屋……男の声……“破棄しろ、こいつは反乱因子だ”……)
「……うっ!」
(……母さん……? 逃げて……お願い……)
フラッシュバックの激痛に頭を押さえたその時、バキンという音が耳を裂き、熱が肩に走った。
「ぐっ……!はぁはぁ。」
(……母さん……血が!……)
(……トオル……逃げて!あなたは私の!……)
肩に弾丸がめり込む。体が弾け飛び、背中から床に叩きつけられる。視界がかすむ。銃撃戦の音が遠くに聞こえる。だがその時、俺は確かに思った。
足が止まる。何かが脳を貫いた。そして――もう一発の銃声。肩に激痛。意識が揺れ、血が広がった。
(……俺は、作られた存在だった……)
廃棄されるはずの命。だが、生き延びてしまった“失敗作”――
あの断片的な記憶――冷たいラボ、無数のモニター、白衣の男たち、そして**「プロトコル:反乱因子の破棄」**という文字。
誰かが言っていた。“反乱遺伝子”と、“欠陥品”――。
それが俺、ハヤミ・トオル。
ここからが始まりだと、銃声の中で俺は理解した。弾丸が飛び交い、壁を抉り、空気が火薬で焦げる。そして、彼の戦いが始まった。