第10章 戦いの後の余暇
──光が差す前の静寂
「……はっ!」
空を切る拳が、空気を裂くようにトオルの頬をかすめた。
「ふぅ、今のは惜しかったな」
「惜しい?手加減してくれてるだろ、アオイ“先生”」
「先生なんて白々しいこと言って……次は本気でいくわよ」
鍛え上げられたNOVA地下施設の訓練室。金属の床が打撃の余韻に震え、汗の粒が跳ねた。
半年──あの鬼との戦いから、既にそれだけの時間が流れていた。都市は静かに変わり始めていたが、平和とはまだ程遠い。ミラ=コアの影は依然として街の空に垂れ込めていた。
「でもさ……俺、だいぶ動けるようになったろ?」
「ええ、最初はパンチ打っただけで手首捻ってたのにね」
「それ言うな……」
ふたりは互いに笑い合いながら構えを解く。アオイは軽く息を整えると、再び構えを取った。
「じゃ、次──柔道ね」
「え、また!? ちょ、ちょっと待っ──ぐわっ!」
トオルの身体が宙を舞い、きれいに一本背負いで投げられる。床に叩きつけられた瞬間、肺から息が漏れた。
「……これ、日課になってきてる気がする……」
「まぁ、君の体格なら持ちやすいのよね。軽くはないけど」
アオイはニヤリと笑う。かつて“奴隷”として売られそうになり、地獄を歩いてきた少女が、今はこのレジスタンスの“顔”として、自分の意思で立っていた。
訓練を終えたふたりは、基地の廊下を歩いていた。扉の向こうでは、若きNOVAの新兵たちが銃器の分解整備をしている。
「そういえば……次のミッション、決まったんだろ?」
「ええ」
「まだ“鬼”の残党狩りか?」
アオイは立ち止まり、首を横に振った。
「……もう、鬼は追わない。次は“本丸”よ」
「本丸……? ちょ、まさか──」
「ええ、ミラ=コアよ」
「マジかよ……!」
廊下の空気が張り詰めた。かつて彼らを裏切り、記憶を消し、街を支配した“神のごとき企業”──それに、挑むのだ。
「今夜、全隊員を集めてブリーフィングを行うわ」
「俺も参加していいのか?」
「当たり前でしょ。“先鋒隊リーダー”なんだから」
「……マジかよ。出世しすぎて、感覚バグりそうだ」
アオイは微笑みながら、トオルの胸元を軽く叩いた。
「油断してると、また床に沈めるわよ?」
「それだけは勘弁して……」
ふたりの笑いが、わずかに響いた。けれどその裏で、誰も知らぬところで──“闇”は再び息を吹き返していた。
― 同時刻:ミラ=コア上層部 第七端末監視中枢 ―
沈黙と、白磁のような光に満ちた部屋。モニターがずらりと並び、その中央に浮かぶ立体投影。投影されたのは、トオル、アオイ、ユウナギの顔写真。全てが、最新の映像ソースと照合され、個体認識タグとともに拡大表示される。
そして──
「オニ ヤブレル……」「ハイジョ システム キドウ……」「ターゲット:NOVA」「ボウエイ システム──コード:ブラック」
鈍く低いアナウンスが部屋全体に響いた。警告灯が赤く点滅し、空間の空気が僅かに震える。
その奥で、無機質な声が静かに語りかける。
「対象:ハヤミ・トオル──プロトタイプ001」「対象:アオイ・ミラ──V-Shell開発者系譜」「対象:ユウナギ──元NOVA諜報局外部連絡官」「状態:活動中」「対処:即時排除 優先度S」「カグツチ──排除完了」
最後の“排除完了(Eliminate)”の表示が、画面いっぱいに拡大された。続けて、空中に青い帯のコードが浮かび上がる。
《特殊制御ユニット:オメガ・フレーム起動準備中》《覚醒データ同期シーケンス開始》《シェル・ロック解除まで:72時間》
鋼鉄のような冷たい声が、ひとつ呟いた。
「プロトタイプ001、そして“ミラの血”……全て、回収する」
部屋の奥。誰もいない座席。そこに、“黒い影”がわずかに瞬いた。
基地に戻ったアオイは、夕刻の光が差し込むブリーフィングルームでタブレットに目を通していた。
「アオイ」声をかけたのは、ユウナギだった。
「トオルの訓練、様になってきたな。あのバカ、いまじゃ若手の憧れだぜ」
「……そうかもね。でも、まだ心配」
「心配か?」
「“やさしさ”が、いつか彼を壊すんじゃないかって」
ユウナギはその言葉に、言葉を返さなかった。だが彼もまた、それが真実に近いと知っていた。そのやさしさこそが、トオルを“ヒト”たらしめている。けれどそれは同時に、最も脆い場所でもあった。
アオイは目を閉じる。手のひらに、かつてカグツチが残した記録チップが残る感触を確かめながら。
──“本丸”を落とす。それは、命を懸けた戦いになる。誰かがまた、犠牲になるかもしれない。それでも、もう止まれない。
自分は、もう“戻れない場所”にいるのだから。




